第4話

 オーチャード・ロードから一区画入ると、家庭内労働者ドメスティック・ワーカーを斡旋するエージェントのオフィスが軒を連ねている。洗練された観光都市のイメージからするとなんとなく違和感があるが、これもシンガポールの一面だ。アルバイト先のイザカヤがあるビルにはフィリピン食材や雑貨のお店が多く、週末の朝―恐らく教会へ出かけた後に、フィリピン出身のいわゆるメイドさんたちでごった返す。お年寄りに付き添っているインドネシアやベトナム出身の女性たちも多い。


 語学学校の学生たちは世界各国から集まっているが、先生方も地元シンガポールだけでなく北京、上海、台湾からと多様な顔ぶれだった。多国籍企業の駐在員も多い。独立の経緯からして、マレー系、華人系、インド系の人々が住む土地柄なのだが、シンガポールは近年ますます多文化社会となってきている。

「次の学期タームどうするの」

 授業が終わったあと空き教室でテスト勉強をしていると、上海人の陳老師チェンせんせいが通りかかった。中背で柔和な印象の女性なのだが、授業はてきぱきと容赦ない速度で進み、しかし質問すれば丁寧に答えてくれるので、慕っている学生も多い。

「……日本に帰ります。働かないと」

「せっかくここまで、と言いたいところだけど、みんな事情があるからね」

 家族から送り出されて、学費と生活費の心配をしなくていい、若い学生たちが羨ましくないと言えば嘘になるが、彼ら彼女らには家族の期待と不確定な将来というプレッシャーもつきまとう。研究機関や企業から派遣されてきたクラメイトの苦労は言わずもがなだ。オレなど私費留学生は何も無い分、金の心配だけで身軽とも言える。陳老師はオレの様子に気付いているのか、いつもの笑窪も見せずに小さく微笑んだ。

「私も上海に子どもを残して、こっちに働きに来ているの。時々、自分がどこで何をしているのか、分からなくなりそうになる」

 何か質問や相談があれば職員室まで来てね、と清潔な廊下から足音が去っていく。あの強烈に個性的な老師たちが集まる場所にはちょっと近づけないが、ここで学ぶことができてよかったと思った。



 その晩、シェアハウスのHDB(政府建設の公共集合住宅)へオーナーの鄭さんが戻ってきたのは真夜中過ぎだった。夕方から降り出した雨と風で、始めは物音も聞き取れなかったのだが、水を飲もうとキッチンへ向かうと、暗い居間に鄭さんと二人の女性がいることに気が付いた。

「やあシンゴ、すまないな、騒がしくして」

 鄭さんは親戚とレストランを経営していて忙しく、家で顔を会わせる機会は少ないが、本来理知的で寛容でユーモアのある人物である。ところがこの日は雨に濡れて憔悴していた。となりの女性が軽く頭を下げてくる。妹です、と鄭さんは言った。確かに似ている。丸みのある目元が優しそうだが、ほつれて顔にかかる黒髪は泣いているようだった。その時は何も尋ねられる雰囲気ではなかったので部屋に下がったが、後日鄭さんが話してくれた。


 妹さんの住むコンドミニアムで、メイドを“不適切に扱っている”雇用者たちがいたらしい。直接の暴力が無くても、過重な労働・不衛生で危険な環境・違法行為の強制・賃金支払いの遅れ・行動の自由を奪うなど、目に見えない侵害が行われていることがある。妹さんはそんなメイドの一人と親しくなり、なんとか助けたくて兄に協力を仰ぎにきたのだと言う。

「彼女たちの労働ビザは雇用主がスポンサーになっているんだ。政府も対策を考えているんだけど」

 香りのよいお茶を注いでくれながら、鄭さんは言う。私たちの家族も苦労してビジネスを始めたからね、彼女たちの辛さが分かるつもりだけど、この街はこの先どうなっていくんだろう。できれば全ての人に公平な機会があってほしい。オレは上品な塗りの茶碗から立ち上る湯気を眺めながら、フェイのことを考えていた。

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