第2話

 薄暗く湿った空気のなかで目を覚ます。東の空が銀色に烟ってきているので、大体6時前だろう。シンガポールでは一年を通じて日の出・日の入りの時間があまり変わらない。ベッドから手を伸ばし、脇のテーブルからコップを取って、水を飲む。蒸し暑い。汗で張り付いた髪を掻く。またあの夢だった。


 きっかけなど、大したことではないのかもしれない。仕事で失敗することは避けられないし、自分のように誰の意中にも無い人間だって、結構いるはずだ。不幸とか不公平に憤るには、食えているし小さいながらも自分の部屋に住んでいるので、恵まれすぎている。あの日、巡視点検中、電柱に新しくつくられたツバメの巣を見つけた。卵がある場合鳥獣保護法の規定により、個人の判断で駆除することはできない。送電設備に問題を起こすか確認した後、先輩に連絡して指示を仰ごうとした時だった。


 頭上で一羽が巣に戻ってきたのが見えた、と思ったら、巣から卵を咥えて放り出した。オレは茫然として、卵が足元に落ちて潰れるのを目で追っただけだった。『どうした』、と黙り込んだオレに、耳元で坂口さんが声を掛けてくれたので我に返る。子どもっぽいかとも思ったが、ツバメが巣から卵を落としていることを伝えると、坂口さんは気の毒そうに答えた。

「そりゃつがいからあぶれたオスがやってんだ。卵を失ったメスは、相手を変えてまた卵を産む可能性があるからな」

 地面に潰れて飛び散った卵の殻と、ヒナになるはずだった液体を見つめて、オレの中でもその時何か割れてしまったのだと思う。オレが巣に近づかなければ、あのオスの前に親鳥が帰ってこれていたかもしれない。事態を防ぐために何かできなかったのか。だってあれは、オレだ。大きな空の下、翼にもなれず、地上の片隅であくたになってしまったもの。



 マンダリン中級クラスは午前中に3時間、ランチタイムを挟んで午後に2時間あり、その後予復習をしてアルバイトへ行くのが日課である。オーチャード・ロードの端にあってもジャパニーズ・イザカヤは、毎日そこそこ繁盛していた。

「『無間道』のリバイバルやってるんだって」

 オーナーシェフの村井さんが、厨房を片付けながら鼻歌混じりに言う。もう真夜中を過ぎているのだが、イルミネーションに彩られたシティ・センターは、まだ人出もタクシーも衰える様子が無い。

「タイトルなら聞いたことあります」

 ぼんやりカウンターを拭いていたオレに、村井さんは大袈裟にかぶりを振ってみせた。

「香港映画を復活させたと言われる名作だぞ!? 見とけ、見とけ。中国語の練習にもなるし。それに最近仲良くなった女の子がいるんだろ?」

 誘ってみればいいじゃないか。にやにやとお節介に言ってくる。やっぱりフェイのことを話すんじゃなかった、と思うが、さすが居酒屋店主というか、村井さんには隠し事のできないところがある。どうして元銀行員がシンガポールで居酒屋をやることになったのかその経緯を聞けば、ハードワーカーぶりと人たらしぶりが推して知るべしである。


「『無間道』? 行く行く! トニー・レオンかっこいいよね」

 迷った挙句、映画館の学生割引が使えるけど、一緒に行く?と声をかけたら、フェイは喜んだ。フェイのシフトは週末も含まれるのでなかなか時間を合わせるのが難しかったが、オレはアルバイトを一日休んで平日午後に、シリーズの第三部だけ見にいくことにした。一部から見られればよかったのにね、と既に海賊版DVDで見ているらしいフェイは、ポップコーンを頬張りながら言う。映画館なんてずっと前父さんに連れていってもらった地元の小さなところ以来だよ。ゴーセイだね、ここのは。布張りの椅子に深く腰掛けて、暗くなっていく館内で笑う。幕が上がり宣伝が始まった光を横顔に受けて、消えいるような声が聞こえた。

「二部に出てくる若い頃のヤン、ちょっとシンゴに似てる」

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