スカイスクレイパーズ

田辺すみ

第1話

 フェイと初めて会ったのは、ショッピングモールの屋上だった。


 クラスの予復習とテストの準備に、一人で部屋にこもっていても効率が悪いので、フードコートやショッピングモールの空きテーブルを、コーヒー一杯で占領するようになった。シンガポールには“ホーカー”と呼ばれるフードコートがいたるところにある。“庭園都市“と呼び慣わされるだけあって、狭い土地に上へ上へと建物は伸びるが、ショッピングモールやオフィスは開放的なつくりになっており、休憩スペースも無数にしつらえられている。クリーニングもメンテナンスも、観葉植物の手入れも街路樹の剪定も、ゆきとどいている。熱帯の海に浮かぶ美しいテラリウム、それがシンガポールなのだと思っていた。


 最近気に入っているその屋上で、柵がわりの生垣の向こうから、何かいい匂いがするな、と思ったら、女の子が昼だか晩だか微妙な弁当をかき込んでいたのだ。そろそろ夕刻という時間帯で、いつもモヤがかったような水彩絵の具の水色みたいな空が、だいだいを帯び始める頃だった。

「こっちきて食べれば?」

 学校に行き始めて半年、言葉は使わないと使えるようにならないと悟ったはいいが、なかなか機会が無いものだ。クラスメイトとシェアメイトはみんな留学生だし、オーナーは忙しくて家にいない。発音がなかなか上達しない。四声はもとより、rやshiなど日本語に無い舌の動きはどうしても苦手である。あちらは突然声をかけてきた日本人がマンダリンを喋ったので、ギョッとしたらしい。

不好意思すみません、すぐ仕事に戻ります」

 慌ててコンテナーのフタを閉めて立ち去るのを、申し訳なく見送ったのが最初。ところがどうもこの屋上は彼女の仕事場らしく、それから時々見かけるようになった。思い切って、マンダリンの練習をしたいから、話し相手になってくれないかと頼んでみた。難しいこと話せないし、漢字も不得手だけどそれでいいなら、と了承してくれた彼女の名前はフェイ、年齢秘密、清掃会社で働いているチャイニーズ・マレーシアンだった。


「シンガポールに親戚がいるから、仕事見つけてもらったんだ」

 モップで明るい床をみがきながら、フェイは言う。お金貯めて、学校行って、自分のビジネスやるんだよ。ちゃんと勉強して賢く稼がないとダメだって、母さんの口癖なんだ。マレーシアはね……私の故郷だし大好きだけど、こっち《シンガポール》での学歴や職歴の方が役立つし、機会も多いから、特に私たち《華人》には。

「シンゴは、なんでシンガポール来たの」

 仕事の合間に、あの屋上の垣根の後ろで二人してジュースを飲む。マーケット脇のスタンドで買ってきた、搾りたてのトロピカルフルーツと色とりどりのトッピングが入ったヤツだ。自分一人では絶対に口にする機会は無かっただろうが、フェイのために思い切って買ってみた。いつもポロシャツにジーパンという姿で清掃作業をしているフェイだが、綺麗なものは好きらしい。見渡せば八方どこもホテルやオフィスの高層ビルに取り囲まれた屋上で、ジュースを日差しの反射に透かして見ながら、ちょっとだけうっとりとした声が問う。

「マンダリン《普通語》を学ぶためだよ」

「何かしたいから、マンダリン勉強してるんでしょ」

「ああ……うーん、“価値“が欲しかったからかなあ」

 オレは眩しい照り返しに目を伏せてジュースを啜った。トッピングがやけに甘くて、果汁がほのかに渋く感じる。日本では工業高校を卒業して電気工事士として働いていた。電柱と架空線の巡視点検や修理が主な作業内容で、仕事自体に不満は無かった。貯金で語学留学もできたし、資格と経験が有れば再就職にも有利だと思う。問題だったのは、両親が離婚してからほとんど一人で生活してきて、同僚以外は全く社交関係の無い、没個性になってしまった自分だ。やるべき仕事はしているが、再婚して新しい家族の有る親とは連絡を取らないし、恋人や親友と呼べる相手もいない。自分には、存在している意義が無い、というありきたりな悩みに陥った上での、脱サラ留学だった。この歳で自分探しをしたいのではない。自分に何か、あまり他にない価値を付けたかったのだ。だがそれを説明できるだけの、語学力がまだ無かった。

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