春のお話・其の二

五月五日

お化けみたいな女がいるらしい。伊吹山の神社へ続く石段を登っていくとすれちがうんだって。

その女は髪が短くて、冬でもふとももが丸出しなんだって。会ったら食べられちゃうらしい。ぼくはでもその話を聞いた時、なんだかそいつが何か隠している気がして、ちょっとだけ気になってるんだ。


彼は日記を書いたすぐ次の日に伊吹山の石段を登った。伊吹山は別に大した山じゃない。ただ杉が生い茂って、山頂にしょぼくれた神社があるだけの山。地元の人間しか知らないし彼らすらここに訪れるのは夏祭りの時か年の瀬くらいだ。

そうして彼が石段を一段一段登っていると、やっぱり小学生に石段を登ることに楽しみなんて見つけ出せるわけがなく、しーちゃんは走りだしたのだった。

「あれー、しーちゃん。やっぱり飽きちゃったの?」と彼に気さくに声をかける女の声がする。

「石段登るのって、つまんないよね」

彼が振り向けばTシャツ越しに豊満な胸をたたえた大人の女性がいた。髪は短く、乱雑に切られていてボサボサ、ホットパンツを履いていて、直下にスラリとした足がさらされていた。Tシャツには【Deus le volt】と印刷されていた。彼女の目はぐるぐる、渦巻いていた。吸い込まれそうな瞳。しーちゃんはしばらく見入った。それから、彼女が例のお化けみたいな女であるということに気づいた。

しーちゃん。彼女はしーちゃんと言った。どうして彼女は自分の名前を知っているのだろう。

「しーちゃん。知ってるよ。だってしーちゃん有名人だもの。それどころか。あたしたち結構前に会ってるじゃん」

「そんなの、思い出せないよ」

彼とっては彼女は初めて会う人間だった。もしかしたら記憶に残らないくらい小さな頃に会ったかもしれないけれど、そんな事彼が覚えているはずもなく。

「そっかー、忘れちゃったのねー、しーちゃん。あたしが君に言ったことも、忘れちゃったのねー」

【しーちゃんはね、神様なんだよ】しーちゃんの頭にその言葉がよぎった。もしかしたら、彼女がぼくの記憶のない頃にそんな事を耳のそばで囁いたのかもしれない。

彼は彼女を見る。じっと、髪の先から足先まで。彼女は彼にとっていつも見る女の子とは全く違う肉感をしていた。じっと見つめればそれはそれは目から離れなくなる。

そのうち彼女が大きくなって、しーちゃんの頭を掴んで撫でた。それは驚くほどすんなりとしていて彼もまたそれを快く受け入れたのだった。

彼女はこうも容易く、彼の内側に入り込んでゆく。

「ねーねー、思い出してよ。あたしがしーちゃんに昔言ったことさ」

でも、でも、彼にはそれが何となく気に食わなかった。容易く扱われている様で、弄ばれている様で、自分の培っていたうぶな潔癖が、馬鹿にされている様で。

「バカ。離れろよ」

「あらー、かわいいわね」

彼女はしーちゃんの身体を撫で回す。服越しに脇下とか、首筋とか、膝とかじりじりとしっかり触れた。少しでも気を緩めれば満更でもない様な気がしてしまう。

彼は彼女の手を振り払った。

彼女は微笑んだ。ボサボサの前髪から影が落ちて、目元を暗くして、彼女の瞳の潤いが、鈍い光を放った。

「しーちゃんはさ、あたしの名前覚えてる?」

風が吹いた。杉がその葉を大胆に揺らしてがさがさと音を立てる。

しーちゃんは黙っていた。彼女の名前を知らないし、自分が何か喋ろうものなら何だか彼女に負けそうな気がしたから。

「アマキ・コトノ、コトノでいいよ。もしくは英語に直せばコトノ・アマキよ」


彼は石段を駆け上がる。走って走って、息切れして胸がはち切れそうになっても足を止めずに山頂まで走った。

だって、彼女が怖かったから。だって、彼女がこの後何をしてくるかわからなかったから。知らない人には関わらないこと、何をしてくるかわからないから。サングラスにニット帽の黒ずくめの男が君を見ていて、君を追いかけてナイフで君を脅かすかもしれないから。でも彼女は違った。彼女は絶対そんなことしない。きっと何か優しい事をしてくれる。だって、彼女の身体は柔らかいだろうから。でも彼女は黒ずくめのサングラス男よりもよっぽど彼にとって大事なものを壊す。


   *


五月六日

ゴールデンウィークに入りました。でもやることがありません。宿題はたくさん出たけど、たかいがなんとなくほとんどやってくれました。つれもなんだか本を読んでいるし、つれに何回も話しかけたら、だったら君も本を読めと一冊差し出されました。でも、つれの持っている本は全部難しくて何が書いてあるのかよくわかりません。漢字が多いです。でも、ひらがなも良く分からなくて、なんだか不思議な感じです。


ゴールデンウィークも終わりかけた頃、家族でキャンプに行くことになった。ゴールデンウィークというかけがえの無い時間を何となく過ごしてしまった彼にとっては朗報であった。

キャンプ場まで車で走り、昼下がりにテントを張って地元のスーパーに買い出しに行った。

バーベキューをするのです。

鉄製の串に肉や野菜を雑に切って刺し、それで焼く。炭火で焼いた串には焦げ目がついて食欲を掻き立てた。


空はもう時期日が完全に沈み、暗幕が空一面を覆い尽くす時間帯に入ろうとしていた。徒はそれを薄暮と言った。しーちゃんはそれが分からなかった。

徒は意外にも食事のマナーがなっておらず、串から肉を加えて抜き取る時、少しよだれを垂らした。しーちゃんの両親はそれを見てしーちゃんが真似しないか苦い顔で見守っていたがしーちゃんは行儀良く串を食べるのだった。

「つれ。この前へんな人に会ったよ」

「しーちゃん。それは僕の事かい」

「違うよ。確かにつれも変な人だけど。女の人」

「そうなんだね」

「それで、その人はぼくの事知ってたみたいだけどぼくはその人のことを知らなかったんだ」

「君がもっと小さい時に会った事があるとか?」

「多分」

「それで話したのかい?」

「話したよ。ぼくの頭を撫でてきたし。名前もいってた。アマキ・コトノだって」

「アマキ・コトノね。これは本名じゃないな」

「なんで?」

「ああいや、どうでもいい事だよ。アマキ・コトノが本名だろうと、そうでなかろうと。とにかく一つ、君は彼女にあまり会わないほうがいいかもしれないね」

「あったりしないよ。そもそもどこにいるかすら分からないのに。でも、どうして」

「アマキ・コトノと話していると君は立派になれない、高潔にもなれない」

「つれもそういう事言うんだ。立派になれって」

「まあね、立派になることは、少なくとも役に立つ。何も無いよりかはね」

徒は何かを押さえつけるように笑った。そうしてしーちゃんの頭を雑に撫でた。それは撫でると言うより掻き回すと言ったほうが正しかったかもしれない。しーちゃんは困惑して手を振り払う。

「ちょっと、何すんだよ」

「上塗り。アマキ・コトノがまた君の頭を撫でたなら僕が撫でてそれを上塗りにしてやる。だからアマキ・コトノと会ったら僕のところへ来い」

「なんで?つれはアマキ・コトノが嫌いなの?」

「参ったな、君の物言いはあまりに直接的過ぎる」

彼は黙った。徒はいつも、しーちゃんが言ったことになんでも返してくれた。でも今日初めてそれをしなかった。彼がしーちゃんの言ったことに返さなかったのにはいくつも理由がある気がした。

それから二人はたらふく串を食べた。夜の暗闇にバーベキューの炎が淡く照り輝く。徒の顔が赤く照らされた。徒のワイシャツも赤く照らされた。風が吹いた。徒は目を細める。

「しーちゃん。僕もしーちゃんと同じ、子供なんだよ」

「つれは大人でしょ」

「しーちゃん。僕も子供なんだよ。ねえ、そうしておいてくれないか」

「わかんないよ」

「しーちゃん、お願いさ」

「どうして。大人ってそんなに悪いものなの?大人ってみんなから言われるのがつれ嫌なの?ぼくは子供だって言われるのが嫌だよ」

徒はまた黙った。それは打算であった。黙っていればしーちゃんは自分に都合のいい回答をするだろうとわかっていたから。彼は黙っていた。

「分かったよ。じゃあつれも子供ってことにしてあげる」

「ありがとう。しーちゃん」

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