篝火

たひにたひ

春のお話

【しーちゃんはね、神さまなんだよ】

漠然として何となく、彼の頭にはそんな言葉が残っている。その言葉をいつ言われたのか、誰に言われたのか、彼は思い出せない。

目をつぶり、空想に耽ればなんだか思い出せそうな気がするのだが、掴めそうになると辛抱たまらなくなって目を開けるのだった。大体なんだ。ぼくが神さまだって、ぼくは神様じゃない。ぼくはただの人間だし、もし神様だったらぼくはもっと自由に生きてるのに。


彼が頬杖をついて呆けていると、隣の席から紙が差し出される。それはテストの答案用紙だった。それはひどい物で、紙はくしゃくしゃだし、得点欄に叩き出された点数もひどい物だった。

「ねえ、いつまでぼーっとしてんの?ひどい点数だよ」

彼の叩き出した点数は実に二十四点だった。

「なにやってんのよ」

「いいんだよ。テストの点数なんて。どうせぼくの役に立たないし」

「それってどういうこと?勉強しなきゃ大人になれないじゃない」

「実はそんな事無いよ。大人になって必要なのは専門的な知識だけ。だから計算問題から国語まで全部できる必要はないんだって。つれが言ってた」

「つれってだれ?」

「なんか知らないけどぼくの家に居候している人」

「イソウロウってなに?」

「全然知らない人なのにぼくの家にすんでるから、そういう人の事を言うんだって」

「それもつれが言ってたのね?」

「そう」

彼の隣にいる彼女は、それっきり口を閉じた。彼はまだ喋る気満々だったが、彼女はもうあからさまにつまらなそうな顔をするのだった。いったいなんなのだと彼もまた黙る。そうして授業に集中するのだった。

彼の名前は翔太、みんなからはしーちゃんと呼ばれている。小学五年生、十歳、住んでいる場所は地球。温厚な性格、悩み事は現在何もない。しーちゃんは隣に座る彼女を見る。


「どうしてつまらなそうにしてるの?」

「つまんないから」

彼女は項垂れて、腕に顔を埋める。それはいつも背筋をただして真面目に授業を受けている彼女にしては珍しい事だった。

「どうしてつまんないの?」

「つまんないから」

「分かった。ぼくが勉強しないからつまんないんだ」

「ちがうよ。ねえ、しっかり授業聞きなよ。先生に睨まれるよ」

彼はしょうがないから授業を聞くことにした。算数の授業で、分数の足し引きとかをしていた。ぶっきらぼうな顔の教師が平坦な口調で授業を進行している。先生は少しはげている。頭のてっぺんの肌が顕になって、脂が染みてテカテカが見える。気になりだすと、ずっと頭を見てしまう。授業の内容はわかるような、わからないような、でも指されたら答えられるかな。

「ねえ、次指されるのしーちゃんだよ」

「何でわかるの」

「順番だから。四分の五」

「なに?それ」

「答え」


その言葉が彼女の口からでるなり、間髪入れずに彼は先生から指名された。彼は席から立ち、四分の五と彼は答えた。そのまま筒がなく授業は進行した。

座れば隣に得意げな顔の少女。状況を切り抜けた彼よりも随分満足げな表情だった。

「ホラ、正解だったでしょ」

「うん、ありがとう」

「ねえ、私の名前覚えてる?」

「えーと、堀宮……」

「そう。覚えてたんだね。堀宮杲(たかい)。たかいでいいから」

たかい、彼女の名前はたかい。

新しい春が訪れた頃のこと。桜がその花弁を散らした頃のこと。学校が始まってから二週間くらいがすぎた頃のこと。二人はなんとはなしに三度目の会話をした。でも、やっぱり難しい。真っ黒な髪の長い少女はそれで顔が隠れている。彼女は満足そうな表情を浮かべている。しーちゃんは思い出した。夕方のテレビ番組で言っていた、えらのはっている女性は横髪でそれを隠すのだと。


  *


四月二十日

今日はつれとキャッチボールをしました。つれの言っていることは相変わらずわからないままでした。つれはそれはべつに分からなくていい事さ、と言っていました。それは本当なのでしょうか。だって、分からない問題があったらテストの点数を引かれます。でもつれの言っている事はべつにわからなくていいことだそうです。それが良く分からなかったです


去年の冬頃に徒(つれ)という彼にとっては何をやっているかよく分からない大人が彼の家に居候してきた。徒は彼の一人部屋をたちまち半分占領し、四六時中居座ったのである。

彼は仕事をやらなくていいだろうか。大人っていうのは仕事をしなきゃ行けないんじゃないのか。しーちゃんはこう言われた。『僕がいなくたって世界は回っているからいいんだよ。君のやってる学校の勉強だって本当は必要ないんだよ』

徒はワイシャツに、下はジーンズ、それからサンダル。手にはいつもなにも持ってない。徒はいつも同じ格好をしていた。徒のワイシャツはいっつも真っ白だった。何一つの汚れもない純白だった。彼の印象はそれだった。


とにかく、まだ多くのことをしらないしーちゃんにすら徒という男は碌でもない大人ということはよく分かった。

ただ、しーちゃんは徒の事をそこまで毛嫌いしている訳でもなかった。彼はよく遊びに応じてくれるからだ。野球しようと言ったらやってくれるし、ゲームしようといったら一緒にやってくれる。


外で遊ぶ時、徒の投げるボールはヘナヘナだった。でも彼はそれなりに楽しそうにボールを投げる。でも虫は平気な様だった。しーちゃんは逆に虫がそこまで得意ではなかったから蛾とかを腕に乗せて徒は嬉しそうにしーちゃんに近づけてくるのだがしーちゃんはそれを本気で嫌がった。

徒はじっとその虫を見つめる。虫をよくよく見つめる。しーちゃんは理科の授業でやった事を思い出した。昆虫は、頭と胸と腹、三つに分かれていて、中身に骨がない。目が沢山ある。気になりはするのだけれど、徒のように彼は虫を間近で見る事は躊躇われた。

そんな事を考えていたら、徒の腕に留まっていた虫は音を立てて飛び立った。


「つれ、キャッチボールの続きをやろうよ」

「ああ、そうだったね。それじゃあ続きをしようか」

徒がボールを投げてくる。遠くに見える小さいボールが見つめていると大きくなってくる。それをミットで抑える。パシリとこ気味良い音が聞こえて、ボールが手の内におさまった。

しーちゃんはそのボールをまた、慣れた動きで徒に投げる。徒は軽くミットでそのボールをキャッチする。


「しーちゃん。学校はどうだい」

「まずまずだよ」

「しーちゃんは大丈夫なのかい。僕ばかりと遊んでいて。学校でお友達とかは出来たのかい。そっちの方を仲良くしてやったらいいんじゃないかな」

「余計なお世話だよ」

徒がボールを投げる。

「それならいいんだけどさ」

彼はまだ徒に彼女、たかいの事を言っていない。どうして言っていないのか、彼は思い当たり逡巡したが、彼女の事を口に出そうとしたらなかなか声が出なかったので言うのをやめた。

しーちゃんがボールをキャッチする。

「君、何か黙ってる事あるでしょ」

「ないよ」

「君が僕に何か隠す事があるなんて、それはいい事だ」

「どうして?隠し事は悪い事でしょ」

「そうかい?悪くないよ、隠し事だって。君は嬉しそうだ」

しーちゃんがはボールを投げる。

「だったら、徒も隠している事が沢山あるの?」

「しーちゃん【僕は思った殆どの事を口に出してないよ】」

「徒、大人ってみんなそうなの」

徒がキャッチする。

「大人?どうして僕が大人ってそんな話になったんだ」

「だって、徒は大人でしょ。駄目な大人だけど」

「手厳しいんだね、君は」

「手厳しいっていうかみんな徒の事そう思ってるよ。何もしないで碌でもないって」

「だから君も僕も碌でもないって?とってもそうは思えないよ。君は僕を認めてるだろ」

しーちゃんはこそばゆかった。それに、そんな感情だって何処からくるのか分からないのに、何も言う事ができなかった。彼はやけになって言う。

「認めてない」

力一杯、徒に向けてボールを放った。

ボールは軌道を失い、彼をそれて草むらの向こうの川に落ちてしまった。

「ああ、どっかいっちゃった。ちょっと待ってて。取りに行ってくるから」

そう言って徒は川の方へ歩いて行った。ぼくだったら走るのに。つれもキャッチボールが楽しいはずなのにどうして走らないのかな。


日が暮れてから夜道を歩いて徒と二人で家に帰った。春先で夜になれば風が頬にあたり寒かった。

「つれはいつになったらこの家から出ていくの」

「そうだね。今の所出ていく予定はないよ」

「じゃあずっといるって事?」

「嫌かい」

「ええー」

実際、しーちゃんは徒が家にいる事が嫌ではなかった。彼は漠然と徒が家に一生いるのだな、と思った。そうして家族みたいな感じになって死んだら葬式の時涙を流すのかなと考えた。

でも、気になっている。どうしてお父さんとお母さんは徒を家に置いているのだろう。弱みでも握られているのだろうか。徒を自分が無理やり追い出したりしたらお父さんとお母さんが殺されちゃうのかもしれない。そう考えると、隣を歩く徒が、得体の知れない、怖い物に見えた。だからしーちゃんは考えないことにした。


   *


四月二十九日

たかいは変な奴です。たかいはとなりの席だったからたまにはなしかけてきます。だけど、結局ぼくばっかりはなして、あいつはなんにもはなさないです。何か話してよ、と言ったらしーちゃんがはなしてよってつまんなそうに言います。良く分かりません。


授業が終わって教室の掃除をして、帰り道。たかいがついてきた。彼女は相変わらず長い髪をして、それで顔の大部分が隠れてしまっている。

「ねえ。家どこ?」

「市民会館の方」

「ああ、あそこね。途中まで一緒だね」

「そうなんだ」

「ねえ、一緒に帰ろっか」

「いいよ」

そう言ってたかいは彼の帰り道についてきた。もちろん二人は隣り合って歩いていたが、彼女は自分から一緒に帰りたいと言ったくせに彼女からなにか話しかけることはなかったのである。

「たかい。なんか話してよ」

たかいは曇った顔をした。

「ねえ、だったらしーちゃんがなんか話してよ」

「ええ」

「何でもいいから」

しーちゃんは何か話そうと思ったが、特に何も思いつかなかった。彼にはそれがどうしてかわからなかったが取り敢えず徒との出来事を話した。

でも、彼女もしーちゃんが徒の事を話すのをあまり好まない様だった。でも、彼女だって何か話し始めようとは考えなかったらしく、しーちゃんがずっと徒の話をして家の近くまで来てしまった。

「たかいは家どこなの」

「うん、丁度ここら辺かな」

「意外と家近くなんだね」

「ちがうよ、このあと結構歩くんだよ」

「そうなんだ。それじゃあね」

「うん」

けれど彼女は彼の方を向いたまま帰らない。

「どうしたの」

彼女は黙っている。だまって彼の方を見つめる。しーちゃんはどうしたらいいかわからないでそのうち気まずくなってひねり出すように言葉を吐き出した。

「ぼくは帰るよ。また明日」

「うん。また明日」

しーちゃんが家の方を向いて歩きだしたらたかいも自分の家の方へ歩き出していくのだった。


   *


家に行くまではあと坂を登らなきゃならない。特に煩わしいことはないけど、独りで登るとなんだか二人以上いるとき登るより疲れる。凸凹に、色違いのコンクリートがツギハギみたいになっている道があり、高めの塀から木々だの、民家だのが顔を出している。民家はボロボロで、学校辺りにある新品の住宅街には見劣りするけど彼はそれはそれでいいんじゃないかとおもっている。だって、そんなの仕方が無いし、坂だって本当はない方がいい。買い物帰りの母さんはいっつも文句をいっているし。

「本当かい」

「つれ」

しーちゃんは足を止めた。

「しーちゃん、僕は今から小川に石を投げにいくんだけど一緒にどうだい」

「なにそれ、つまんなそう。なんでそんなことしなきゃなんないの。嫌だよ」

「そっか、残念だよ」

徒は何となく答えた。無表情で、断られた事に特に何にも感じていないようだった。それどころかいつもの調子で軽くはにかんでいた。どうして断られてこんなに嬉しそうなんだろうこの人は。やっぱり変な人。徒はすたすたと歩いてしーちゃんの隣を抜けていった。


ここら辺の川だと夷隈川だけれど、そこで石投げでもするのだろうか。ていうか石投げってなんだ。石を川に投げるだけ?それを一人でするの?彼には徒が言っている事の意味がわからなかった。

振り向いて徒を見た。彼は坂を下って段々と下に、下に小さくなっていくのだった。風が吹いて、しーちゃんと彼の髪を揺らす。徒の髪は何でかいつもサラサラしていた。さわっていい?とある時しーちゃんは徒に言ったがそうしたら彼は躊躇いなく自分の髪を差し出したのだった。しーちゃんの泥のついた手が綺麗でサラサラの髪の毛に触れた。徒はくすぐったいと笑った。

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