秋のお話・其の二
十月二十五日
林間学校に行ってきます。林間学校なんて消えてなくなればいいのに。
林間学校では、ちょっとした山荘みたいなところに泊まって一泊二日で自然と触れ合うのだが、一部屋を五人くらいで使うことになっていた。だからしーちゃんはまず大島に声をかけられ、男女は別だからたかいは何処かへ行ってしまった、そんな訳でまた柴咲と山岸の二人が大島の誘いで当然やってきた。このグループは例外的に四人で部屋に入ることになった。
林間学校って何するの?バスで田舎の街からさらに奥地へ運ばれていくなか、しーちゃんは考えた。隣には大島がいる。大島は向かい側の席にいる二人と話している。しーちゃんは窓側で景色を見ている。少年にとって景色を見ること程退屈なことはないだろう。でも、こいつらと話すくらいだったら景色を見てやる、なんて心持ちで意地になって見入っていた。しかし、開けた田んぼばかりの田舎を抜け、とうとう山道に入ったあたりで、無駄に入り組んでジグザグしている景色の変わらないただの木々の生い茂った光景ばかりが彼の視界を支配した。木以外何も見えない。溜息を吐いた。
ここら辺も一応もう少しすれば雪が降り、銀世界が広がる。だから吐いた息は凝血して窓に雫を垂らした。
なんだか、傍は楽しそうに喋っている。あの時はどうしたとか、通学路のボロ屋がどうだとか、田んぼを歩いているとお化けが出るとかそんな話を朗々と話していた。ゲーム機を開いて、三人で遊んでいる。
しーちゃんはゲーム機を持ってこなかった。それはなぜならゲーム機を持ってくれば遊びに誘われるかもしれないから。ゲーム機を持ってこないのはしーちゃんのささやかな覚悟の証だった。
たかいは今頃どうしているだろうか。女子が乗っているバスは後続ですぐ後ろに見える。彼女もまた独りぼっちなのだろうか。思えばしーちゃんは別にいままで独りぼっちだった事があんまりなかったんじゃないか。大島たちと別れた後だって暫く学校では一人きりだったけど、家には徒がいたし、なんだかんだで二ヶ月くらいしたらたかいと会った。でもその間、いやもっと前からたかいは一人だったんじゃないか。そうしたらたかいにとって一人とは何だろう。たかいは一人でいるのが好きな訳じゃないと思う。だっていつも女子は集まって喋ってるから。
たかいは寂しいのかも、でもそれだけ?たかいに話しかけた子だっていたんじゃないか、でもたかいは無視したんじゃないか、だから一人でいることは彼女にとって寂しい以外の何かを孕んでいるのかもしれない。
しーちゃんは最近本を読んでいる。徒が机に残していった本だ。【考えて、考えて、考え尽くして】しーちゃんにとってそれが初めての読書体験だったのかもしれない。徒の本は大抵難しくて何が書いてあるのかわからなかったが、中には少年であるしーちゃんにも読めなくもない本があった。例えば『若きヴェルテルの悩み』とか『イワンのばか』がそうだった。やっとのことで読んで、しーちゃんは特に面白いなんて思わなかったが、それ以上にしーちゃんは徒があの時何を言おうとしたのか気になったのだ。でも本に答えがある訳じゃない。でも徒がこれを残したということはそういうことなんだろう、【考えて、考えて、考え尽くして】という言葉にしーちゃんは引き摺られしーちゃんは頁をめくった。そのうち学校の授業が手につかなくなった。運動だって適当にやるようになった。
【しーちゃんはね、神さまなんだよ】という言葉がそう通り過ぎる木々を眺めていたら脳内に浮かび上がった。【しーちゃんはね、神さまなんだよ】という言葉は一体誰から発されたものなのか、いつ聞いたものなのか、いまだに思い出せずにいたのであるが、でも最近しーちゃんは一つの答えに行き当たった。本当は、誰にも言われていないんじゃないか。だからいつ聞いたとかもない。もしかしたら夢の中でそんな事を思い浮かべてそれをそのまま引きずっているんじゃないか。だってずっと考えても思い出せない。どんな声だっただろう、その声は幼い女の子の声にも、成人女性にも聞こえる、清涼な雰囲気の成人男性の声だったかもしれない、もしくはそれはとてつもない嫌悪感をもって発せられたのかもしれない。でも、何となく覚えていることもあって、それその言葉を彼がかけられた時、暖かくて心地よい感じがしたのだ。でも印象が、色合いが、感覚が全て淡くてつかみどころのないものだった。透明な水に放たれた一滴の朱のようにしーちゃんの脳味噌を覆い尽くしていく。
しーちゃんは自分の頭の中についての考えを巡らせた。
ぼくの頭の中には、絵で溢れています。あの時みた景色と、あの人の顔、すたすたと走っているたかい。髪型を変えたたかい。白いシャツのつれ、顔を隠すつれ、裸のアマキ・コトノ、ぜんぜん話さない父と母、それから用もないのに話しかけてくる大島について。言葉があります、【しーちゃんはね、神さまなんだよ】、雨の日にたかいから言われた【バカ】、アマキ・コトノの才能について、【考えて、考えて、考え尽くして】・・・
しーちゃんはとりあえず荘に着くまで座席に身体を埋めて眠ることにした。
*
山荘についたら、まずは部屋に入って荷物を置いて外に出た。山登りをするそうで、早速山道を歩きはじめた。山道は狭い。葉が置いていて積もって、それを踏みつけながら歩いている。木材によって簡易的に段差が作られ道という体をなしているものの、歩いていて疲れることは確かだった。時々、変な虫に出会う。やたら長い四本足の虫とか、百足とか、鳥が遠くで鳴いているのが聞こえるが、終ぞその姿を見ることはなかった。
しーちゃんは途中でたかいと合流した。「たかい!」と声をかけるとたかいはほっとしたようにこちらを向いて歩いてきた。だがいらない大島までやってきた。けっきょく三人は最後まで一緒に歩くことになる。
歩いて数十分がたったくらいのこと、山道はあと半分で終わり山頂につくと先生から聞いた。そうしたら前が何やら騒がしい。「うんちだ!」「うんち!」「くまのうんちだってさ」「おお!くまのうんち!」「おい!くまのうんちがある!」たかいは呆れた。溜息をつきながらしーちゃんの方を見る。しーちゃんは事もなげな表情だった。
「しーちゃんは見に行かなくていいの?くまのうんち」
「別に。普通にあるいていけば見ることになるんだし」
「しーちゃん大人ね」
たかいはつまらなそうだった。対照的に大島は目を光らせ、俺にも見せて!と前の方へ駆け出していった。どうしてうんちを見つけただけでそんなに騒げるんだろう。それがくまのうんちだからだろうか。以前のしーちゃんだったのなら前の方へ駆け寄って行くのだろうか。先生はくまが近くにいるってことだ、警戒してみんな、うるさいです。くまが警戒するからと言う。そんな馬鹿な、くまなんて動物園でしか見たことないのに。としーちゃんは思った。たかいはどうやら怖がっている。
「しーちゃん、くまが出るってよ」
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないかもしれないじゃん」
「大丈夫だって」
しーちゃんは呆れた。
しーちゃんにとっては、くまのうんちなんかより考えることのほうが全然大事だった。しーちゃんは徒がいなくなってから変わった。なるほど、これが大人になるってことなんだとしーちゃんは納得した。しかし徒はしーちゃんに酷い事をした。それは彼自身酷く自覚していることであった。徒はしーちゃんに呪いをかけたのだ。それはいにしえから伝わる方法で、自分がよく知っているやり方で、もしかしたら、彼自身昔呪いにかけられた事があったのかもしれない。
山頂に着いた。山頂には【さんがい山山頂標高一一二三Ⅿ】と看板が立っていた。女子は看板を囲って写真を撮り、男子はたびたび向こうがわの山に叫んでやまびこを聞いている。先生はおでこに手を当てて眩しそうに空を眺めている。しーちゃんは日差しを全身に感じた。足に敷いた大地は力強く、決して崩れることのない泰然さを感じさせた。
「しーちゃん!看板の方へ行こうよ」
たかいが歩いて行く。しーちゃんは呆けてそれを眺めていた。大島がたかいに着いて行くのが見える。大島もまた向こう側の山に向かって叫んだ。
「堀宮!堀宮もやろうよ!」
「はいはい、ちょっとまってて」
大島とたかいは二人してはしゃいでいる。しーちゃんはそれを見ていた。大島はたかいを堀宮と呼ぶんだな、しーちゃんは安心した。
*
夜には、キャンプファイヤーをした。山荘は三階建だけど、炎はそれと同じくらいの高さにまで燃え上がった。
五十人くらい、学校の生徒が全員で手を繋いで炎を囲った。
しーちゃんはたかいと右手を繋いだ。左手は大島。たかいは右手を誰と繋いでいるのだろう、彼女とは仲良くない女の子だった。大島の左手には柴咲、柴咲の隣は山岸。それで歩いて回り出す、火に近づいては足を出す、四歩歩いて手を叩く、篝火を囲って踊り出す。マイム、マイム、マイム、マイム、マイムベッサンソン、火が近づいては遠ざかる、形を変えながら強かに燃え上がる、マイム、マイム、マイム、マイム、マイムベッサンソン、
火にあたって橙色に照彼女の横顔を見た。彼女は無表情だった。無表情で踊っている。大島を見た。大島は楽しそうだった。それでも彼の気持ちは分かる気がした。火を囲んでみんなで歌っていると高揚する。たかいはこの気持ちが分かっているのだろうか。彼女は無表情だった。しーちゃんは彼女の手を強めに握ってやった。彼女の表情は変わらない。マイム、マイム、マイム、マイム、マイムベッサンソン、火の粉が散る。
*
次の日は、午前中は自由時間だった。山荘を出て外でかけっこしている奴もいるし、部屋でゲームをしている奴もいる。しーちゃんは迂闊だった。ゲーム機を持ってこなくてもゲームはできる。しーちゃんの前にトランプが配られた。
「よっしゃ、大富豪やろ!」
柴咲が言った。柴崎は相変わらず大きい声を出す。それで四人を取り仕切っていた。
「じゃあ大島、お前から時計回りな」
「わかった」
畳にトランプが音を立てて突きつけられる。
「よし十」
「十一」
「八」
「うーん六」
「五」
「四」
「三」
「二」
「それは出せない」
「そっか」
山岸はカードを引っ込めた。
そうやって時間は少しずつ過ぎていった。四人は淡々と大富豪にいそしんだ。3回くらいやって少し飽きてきたくらいで、山岸が口を開いた。
「ねえしーちゃん。また遊ぼうぜ」
「嫌だよ」
「何でだよ」
柴咲が言う。
「なんでお前は急に俺たちと話さなくなったんだよ」
その声には怒りがこもっていた。柴咲にとって、しーちゃんのしたことは友情を裏切る行為だ。しーちゃんは苦しかったが、柴咲もまたしーちゃんの事について頭を悩ませていた。
「だって」
「お前まさか緑川の事で俺たちと話すのを辞めたのか?」
緑川、彼らにいじめられた奴の名前だ。
「しーちゃんは黙った。どう答えればいいか分からなかった。柴崎の言うことは全くその通りだった。
「そうなのか?なあ、じゃあ緑川の事を謝ればお前はまた戻ってきてくれるんだな」
「そんなんじゃない」
「じゃあ俺はどうしたらいい。どうしたらいいお前は許してくれるんだよ」
「許すとか、許さないとかそう言う問題じゃない」
「何だよ、まったく」
柴咲は手に持っていたトランプをキザったらしく捨てた。
今度は山岸が柴崎に言う。
「いいじゃん柴咲。だって柴咲が謝る必要ないよ。だってこいつだって緑川を笑ってたじゃんか」
その通りである。しーちゃんもまた、緑川を笑ったのは事実である。柴咲や大島がそうしたからしなきゃいけないと思ったのだ。
窓の外からは紅葉で色づいた山が見える。赤や橙、黄金色にまばらに大地を彩る。四季の間に、ちらと見せる大地の華である。
「苦しいんだよ」
ぽつりと一言呟かれた。
四人の空間に苦い空気が立ち込める。柴咲は訝しんだ。
「はあ」
「苦しいって何が?」
「君たちといることがだよ」
「それは、どうして?」
「緑川を君が馬鹿と呼び捨てる。そしたらぼくも馬鹿って緑川の事を呼ばなきゃならない。君が緑川を笑ったらぼくも笑わなきゃならない。いじめとかどうでもいいんだよ。ぼくはただそうしなきゃいけないのが苦しかった。だから君たちとは仲良くなれないと思ったんだよ」
暫くの間沈黙が落ちる。
「そんなの、もうしねえよ」
柴咲が言った。しーちゃんは嘘だ、と思った。
「なあ、ごめんて」
しーちゃんはそっぽを向く。
「ごめんな」
「別にぼくは謝ってほしいわけじゃない」
大島がトランプを畳に置いた。七であった。
山岸が続けて十を出す。柴咲が苛立ちながら言う。
「なんだよ。もうやんねえよ」
暫くしてしーちゃんが十二を置く。柴咲は頭を掻きむしって言う。
「なんでさ、なんだよお前まで。こんな状況でもやるのかよ。意味わかんねえよ。つまんないだろこんな気分でさ」
「だって暇だし」
「暇だったらお前は」
言葉に詰まった。もしかしたら、この自分の手前勝手な性格がしーちゃんにとって嫌だったのかもしれないと柴咲は思い至った。しかし、真実はそうではなかった。柴咲は自身のそんな馬鹿正直な誠実さのよって人を引き付け、手前勝手な感情で人を振り回す性分に気付いていなかった。その柴咲の発する窮屈さがしーちゃんは嫌いだった。どちらにせよ柴咲はその先を言わない事にした。そうして柴咲はスペードの二を置いた。
*
十一月二十二日
誕生日がありました。つれはもういないので、たかいと大島と柴咲と山岸がぼくの家に来てくれました。ぼくは今年で十一さいになります。
誕生日があった。誕生日には誰かを家に招いて、しーちゃんは祝ってもらうのだ。べつにそんな決まったルールはないのだが、どうしてかいつの間にそんなことが暗黙の了解になっていた。だから一昨年は柴咲たちが来た。去年は徒が来た。そうして今年はたかいと柴咲たちが来たのだ。
それを母は遠目で見守っていた。
一昨日の出来事である。授業の終わりにしーちゃんの席に柴崎がやってきて何か口篭っている。柴咲は普段そんな性格ではない。だからしーちゃんは彼のそんな様を意外に思った。
やがて彼はなにやら『ん』と唸るような声を捻り出し、カードを差し出した。それは子供の喜びそうなゴテゴテのメッキ加工されたトレーディングカードゲームのレアカードだった。このカードゲームは一年と少し前、つまりまだしーちゃんと柴咲たちが仲良くしていた頃、四人で揃って没頭していたカードゲームなのだった。柴咲はいつだってそのカードを自慢げにデッキに入れていた。それをしーちゃんに差し出したのだ。
「ホラ、誕生日だろ」ぶっきらぼうに彼が言う。しーちゃんは黙ったまま固まってしまった。
「でもそれ大事なカードでしょ」
「もういい。俺には別のカードがあるから。だからこれをお前にあげる」
「君は、優しいんだね」しーちゃんのその口調は徒にそっくりだった。
君は、優しいんだね。しーちゃんの中で今まで形作られていた柴咲の像が砕け散った。どれだけ彼を嫌おうと、一年前は仲良くしていたことに変わりはないのだ。柴咲の嫌なところもたくさん彼は知っているが、その反面仲間想いだったり、彼はいいところだって沢山知っている。だがいつのまにか忘れていた。それを今、彼は思い出さずにはいられなかったのだ。
柴咲が言う。
「誕生日パーティーだってそろそろするんだろ。連れて行けよ」
「まあいいけど」
テーブルの真ん中にはバースデーケーキがある。それを囲うようにピザとか、チキンとかが置いてある。年に一回の特別な光景だった。
バースデーケーキに十一本の小さな蝋燭の炎が揺れている。その暖かい光が彼らの頬をぼんやり照らす。
はーぴばーすでーしーちゃん、ーはーぴばーすでーしーちゃん、はーぴばーすでー十一才♪はーぴばーすでーしーちゃん。
「さあしーちゃん、吹け!」柴咲が言う。
「しーちゃん」しーちゃんは黙って蝋燭に息を吹きかけた。燃焼した蝋の匂いが煙に乗せられて薫る。部屋が真っ暗になる。
大勢の人が自分の傍に集まって、自分を祝ってくれる。生まれてきたことを祝っている。それはしーちゃんから見て幸せな光景に映った。彼は思った。そう、これは幸せな事。きっと誰が何と言おうと幸せな事なんだろうと。
しーちゃんがそう思うのには理由があった。それは徒のせいだった。徒はしーちゃんに深い傷を負わせて帰っていった。人と関わることは、苦しいこと。柴咲達と別れて思ったことだった。柴咲たちの仲間想いな所を思い出した今でこそ、しーちゃんは苦しんだ。だって、柴咲は無邪気な笑顔でみんなを照らす。でも同じ顔で緑川を軽蔑した。その背反がしーちゃんにとって苦しかった。
「しーちゃん、誕生日おめでとう」柴咲が言う。
「しーちゃん、おめでとう」山岸が言う。
「誕生日おめでとう」大島が言う。
「しーちゃん、誕生日おめでとう」たかいが言う。たかいだって。だけれど、たかいに疑いの目を向けるとしーちゃんは苦しさじゃなくて、引き裂かれるような痛みを感じた。
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