秋のお話

秋口、突然の出来事だった。しかし突然と言うほどその出来事に驚きが伴うことはなかったのは、彼が今にも消え入りそうな存在だったから、潔白で純粋で悩ましい彼は、やっぱり人に会えば明日にはいなくなってそうな人と形容されるだろう人だった。つまりはしーちゃんにもお別れが来ると言うことなのだ。

朝起きたら、彼の姿がなかった。彼はしーちゃんが起きた時にはいつも椅子に座って本を読んでいたのに。そうしてしーちゃんはいのいちばんに彼におはようと言う。でも今日はいなかったからしーちゃんはおはようと言わない。朝のひばりがさえずる音がただ聞こえる静けさがあった。ただ部屋の机の上に本が山積みにされて残してあるばかりだった。書置きがある。『しーちゃん、また縁があれば。そのときに』


徒がいなくなる前の日の事を思い出す

「しーちゃん。君に言いたいことがあるんだ」

「なにつれ」

「でも言いたくない。言ったら君を苦しめることになるから」

「なに?気になるよ」

「言いたくないなあ」

徒が口籠ることは珍しかった。彼は大抵なんでも言ってのけたから。彼は暫く本に目をやり黙っていたが、意を決したように口を開いた。

「しーちゃん。僕の言いたいことが分かるかい?」

「だからなに。言わなきゃ分からないよ」

「言わなくても分かるんだよ。人は考えるんだから」

【僕は大抵考えている事を口に出さない】つれは考えているんだ。他人が何を考えているのか。どう思っているのか。

「いいかいしーちゃん。考えて、考えて、考えて、考え尽くして」

そのときから彼の口調が変わった。彼自身が発した言葉が、明確に彼の琴線に触れたのだ。しーちゃんは徒の、普段の彼との変わりようを異様に感じた。

「どうやって考えるかって言えば僕が今まで君とした事。僕が今まで君に対して言った事を思い出すんだ。昔から最近に至るまで。それからあの時僕が何を考えていたか、何を思っていたか、逐一考えるんだ。僕という人間を詳かに分析して隅々まで考えて欲しい」

しーちゃんは彼と顔を合わせようと彼の方を見た。彼は上を向いて、何も見たくないようだった。

「しーちゃん、君を縛ってやりたい。僕の言葉を君の脳味噌に焼き付けて、君がずっと僕の事だけを考えればいいのにと思ってる。でもそれじゃあ駄目だ。だって君は人を照らしてこその君なんだから。ああでも惜しい、ふと気を抜けば口走ってしまいそうなんだよ。だから僕はその時手でがっしり喉をおさえて堪えるんだ。我慢して我慢して言わないようにしていた。ごねんねしーちゃん。でも、今になって溢れてしまいそうだよ。我慢の限界かもしれない」

徒は顔を抑えた。悩ましいどうしようもなくみっともない顔をしーちゃんに見せたくなかった。こんなことを考えて吐露してしまう自分の思考が許せなかった。今すぐ自分の何もかもをぐちゃぐちゃにしてやりたい。今すぐどこか何にもない何物とも隔絶された空間に行ってしまいたい。徒という人間にとってこれは意中の人に自身の恥部を晒すよりもよっぽど恥ずかしい事であった。

「しーちゃん、しーちゃん、返事をして。君の言葉が、君の挙動が、一挙手一投足が愛おしい。何処までだって隅々までつまびらかに眺められる。君は天使だ。僕は君を愛してる。堪らないくらいに。でもこれは恋愛とか、そんなものじゃない。でも、愛である事は確かだ。恋愛なんて!そんなくだらないものと同じにしてほしくない。もっと巨大でもっと身近なものだ。例えば、君は僕の一部なんだよ。わかるかい。僕は君だし、君は僕なんだ。一心同体って言葉があるだろ、でもあれは違う。言葉の内から人と人が真につながる事なんてないって欺瞞を感じる。違う、僕と君は別に腕が融合しているとか、そういうんじゃないだろ。同じ飯を食べてる、これも違う。そんなんじゃない、その程度じゃない。もっと、もっと大きい繋がり。もしかしたら、僕と君は生まれる前から何らかの繋がりがあったんじゃないか、それどころじゃない。僕と君の出会いっていうのは以前からあった僕と君のかけがえの無い物の表出の一つの形でしかないんだよ。

そうだ。例えば一つの物語があるだろ。ほら、僕の隣に積んである本とかさ。それで、僕が出てくる。僕はやがて君と出会い、やがて救いをもたらされる。そうして物語は終わるんだ。話にイフはない。その形でしか終わりえないし、それ以外の形なんかあり得ない。その話は誰もが見聞きし、だれもが信仰していて、その筋書きを誰もが知っているんだ。生まれたての赤ん坊だって。生まれつき五感が欠損している人だって、誰もがしっているんだ。ねえしーちゃん!我ながらあんまりにも馬鹿馬鹿しい話に聞こえてしまうんだけど、僕はいつになく本気だよ。君は、君は僕の声が聞こえているかい。僕の話なんてわからなくていい。君はただ頷いてほしい。僕は、僕はどうしてこんなこと言っているのだろう。頭がおかしいんじゃないか」

「ねえつれ。なんだか苦しそうだよ。もう寝よう」

「ああ、なんて酷い。僕は最低だ、僕は最低だ。最期まで我慢するべきだったのに、こんな無粋なこと許される訳がない。ごめんね、本当にごめん、しーちゃん」

彼は泣いていた。手で覆った顔の端から涙が伝っているのが見えた。その顔をしーちゃんは暫く忘れられないでいる。徒は一体なにを考え、言おうとしたんだろう。積みあがった本が、存在感だけを残し、あとは彼の目の前からさっぱり消えてしまった。


しーちゃんは居間に行ってラップのしてある椀を温めて、朝飯を食べた。

父と母はいなかった。鍵をかけて学校に行って、書置きと一緒に鍵が置いてあった。

しーちゃんの顔は変わらない、いつだって無表情だ。人は、人が笑った時に笑う。人が泣いた時に泣いてあげる、怒り出したら逆上する。少年期の彼にとって人が居なければ感情を吐露するのは難しい事だった。だから何事もなかったかの様にただ口を動かさずに無表情で玄関から外へ、学校へと駆け出していった。


「つれがどっか行っちゃった」

教室の隅でたかいにそう言った。夏休みが明けて、クラス替えがあった。だからたかいとは席が隣じゃなくなった。しーちゃんにとってそれはもどかしい事だった。それで新しくたかいの隣になったのが大島だったということにも腹が立った。大島とは、しーちゃんが以前仲良くしていたグループの一員だったのである。だからしーちゃんと大島には隔たりがあった。でも、たかいは大島と話すだろう。授業中、大島がたかいに言う、教科書かして。テストの丸付けをしあって点数を見合う。それから英語の授業の時にはグレイプズじゃなくて、グレイプスーよ、ってなんだか言い合っている大島とたかいの姿が思い浮かぶ。夏祭りのあの時から、なんか変だ。


「しーちゃん、まあそれが良かったと思うよ。だってしーちゃんつれの話ばっかりしてたから」

「そうかな」

「あのねしーちゃん、いなくなっちゃったのなら仕方がないと思うの。それならまだいる人を大切にした方がいいよ」

たかいは相変わらず大人びている。どうしてそんな風に考えられるのか分からない。彼女はぼくと同い年なのに。

「席替えして、隣の奴はどうだい」

「ああ、大島君のことね」

大島君。なんだかすでに見知った人間みたいに彼女があいつの事を呼ぶから、しーちゃんは寂しくなった。

「つれの事、忘れなくてもいいと思うけど、気にしててもいいことないよ」

「そっか」


   *


九月十日

最近一人でいる時間が増えました。つれはどこかにいってしまったし、たかいは大島とばかりいるし。


当然なのだが、たかいが大島について話すことが多くなった。たかいとしーちゃんが話している時も大島がこちらに親し気な顔を向けてくるようになった。

「大島も別に悪いひとじゃないわよ。しーちゃんも友達すくないんだから仲良くしよ」

彼女は何を考えているのだろう。どうして彼女から大島に仲良くしているのだろう、あの時の嘘は何だったのだろうか。別に大島は悪い奴じゃない。ただ一緒にいれば気まずいだけだ。でも、わざわざ仲良くする義理もない。


九月十三日

とうとう大島がぼくに話しかけてきた!


「しーちゃん、久しぶり」

「大島も久しぶり」

それから二人は沈黙した。二人はなにを話したものかわからなかった。なんで、なんで大島はぼくに話しかけてきたんだろう。話す事なんてないのに。

「しーちゃん。どれくらい俺たち話してなかったっけ」

そんなこと聞いたって一体なんになる、しーちゃんは苛立っていた。いまさら大島と話す事なんかない、すぐにでもたかいから大島を引き離したかった。

「さあね、半年ぶりくらいじゃない?」

「そっか」


「ねえなんでしーちゃんはさ、急に俺たちと話さなくなったの?」

「そんなの、どうでもいいでしょ」

「そんなことない!しーちゃんがいなくなったこと柴咲だって、山岸だって心配してたんだぞ」

心配だって、善人のふりをして。しーちゃんにとって以前の友人である三人は悪人だった。彼がそう断定するのにも理由がある。三人は、虐めていたのだ。


最初は仲良くしていた。しーちゃんにとってそれは紛れもなく楽しい時間だった。四人でゲームをして、虫取りに行って、宿題を回して、いつだって一緒にいた。一年に満たない時間ではあったが、四人は友達だった。


でも、決定的にかみ合わなくなり始めた時期が訪れる。

この町は田舎だからそもそもこの学校にはクラスが二つしかない。それぞれ三十人くらいだ。それで以前同じクラスだった奴をこいつらは虐めた。そうはいっても、こいつら暴力をふるったりはしなかった。言葉で彼のことを軽くなじったり、馬鹿にしたりした。

それはしーちゃんから見れば虐めだったが、こいつらにとってはそうではなかったのだろう、ともすれば当事者である彼にとってすらもいじめではなかったのかもしれない。でもとにかくしーちゃんは居心地が悪くなった。先生だって別に何とはなしに傍観していた。先生は見て見ぬふりをしていたのかもしれない。先生にとってもその程度の事だったのかもしれない。でもしーちゃんにとってそれは不愉快だった。『ホラ、しーちゃんもこいつに何か言ってやれよ』しーちゃんは何にも言わなかった。というよりかは何にも言う事が出来なかった。『こんなに苦しいことをしなきゃぼくは君たちと仲良く出来ないのか。友達っていうのはそういうものなのか。こんなに苦しいものが友達だっていうのならぼくに友達はいらない』しーちゃんは心でそう呟いた。その言葉やがてがしーちゃんの脳内を支配し、三人との関係は決裂した。

それ以降、しーちゃんはたかいに会うまで一人だったのだ。

心配しているだと、かってに心配していろ。君たちはそういう人間なんだ。人を虐めてしまうような、そういう人間なんだろ。ぼくには出来ない。そんなことを出来るくらい人の気持ちに鈍感になれないよ。ぼくは繊細なんだよ。だからお互いもう触れ合わないようにしようよ。

「大島。大島はまだ仲いいの?二人と」

大島は笑顔で答える。

「うん。毎日遊んでるよ。だからせっかくだししーちゃんもまた戻ってきてよ」

繋がっている、俺たちは繋がってる。それを心地いい物だと思っているし、誇りあるものだと思ってる。そんな顔をしていた。

「とにかくぼくは戻らない。それだけ」


   *


静かな夕方の出来事だった。彼は珍しく一人で帰っていた。たかいとは帰らない。そもそも彼女の家は反対方向だったのだから。だからまた、春の前のように彼は一人で帰り道を歩く。家に帰っても誰もいない。徒はもう家を出ていってしまったから。橋に差し掛かると自転車を二人乗りしている人をみた。男女の二人組で、一人は単発のどこにでもいそうな男の人。もう一人はアマキ・コトノだった。アマキ・コトノは彼にもたれかかって安らかな顔をして僕の前を通り過ぎた。彼女は、多分しーちゃんの事を気付いた筈だ。でも彼女は無視した。そのまま何にもなく彼女は過ぎ去っていった。こうしてみるとまるで最初からしーちゃんと彼女の間には何にもなかったみたいだった。自転車の車輪がカラカラと回る音が聞こえる。それが遠ざかっていく。


何事もなかったみたいに。彼女の晒された太ももに結局意味はなくなった。横日が顔に当たって眩しい。しーちゃんは暫く二人の事を目で追っていたがお似合いのカップルだと思った。そのまま幸せになってくれればいいなと素直に思ったのだった。それ以降、彼女に会うこともなかった。お化けみたいな女は幻みたいにしーちゃんの前から消えてしまった。


不意に、しーちゃんは寂しいと感じた。今までだって一人になることはあった。寂しいと思うことはあった。でもそれは彼にとって邪魔なノイズでしかなかった。

でも今回は彼が自分から寂しいと、その感情を受け入れたのである。『たかいがいないと、ぼくは寂しいんだ』夏祭りのあの瞬間から彼にとってのたかいは変わった。以前と比べてしーちゃんはたかいにじぶんから話しかけることが多くなったように思う。

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