夏のお話・其の二


運動会が開かれた。

しーちゃんにとって運動会とはあまり良いイベントとはいえなかった。運動は苦手な方だったからである。もしかしたら最初は人よりちょっとだけ才能がなかっただけだったかもしれない。五十メートル走はだいたい五人くらいで並んで競争しながらタイムを測る。隣で必死になって走るみんなの顔をしーちゃんは見た。走った後に自慢したり、『本気出してねーし』と強かったりしているクラスメートを見た。それを見てニヤニヤしている先生を見ていると、なんだか思惑に乗せられた感じで、どこか気に食わなくて、それでしーちゃんは運動会を頑張る事をやめた。徒が来てから、徒に運動の事を聞けば、僕は全然頑張らなかった。だってやるきがなかったからさ。それでもみんなは僕を置いて盛り上がっているし、だから僕が強いて盛り上がる必要はないんだよ。


結局徒の言う通りでしーちゃんが運動会で困ることはなかった。しーちゃんのしたくない百メートル走とか、リレーとかそれらは運動好きにこぞって取られたからだ。しーちゃんは玉入れと障害物競争をすることになった。

そうして何事もなく運動会当日になったのである。


それで今しーちゃんは玉入れをしている。弾は投げども投げども籠の入らない。けっして玉いれが得意な訳ではないのだ。加えてやる気もない。そうなってしまえばどうしようもなかった。


「あちゃー、ぜんぜん入ってないわねー、玉」

遠くから眺めてアマキ・コトノが言う。校庭の端に設けられた観客席にシートを敷いて腰を下ろし、しーちゃんを眺めている。

「そうだねえ、しーちゃんは僕より運動出来るんだけどなあ」

「はあ。じゃああんたどんだけ運動出来ないのよ。もしかして歩けないんじゃないの」

「馬鹿か君は。だったら僕はここにはいないだろ」

「分かんないよー?世界には神秘が溢れているから、もしかしたら宇宙人に運んで貰ったのかも」

「身も蓋もないな」

彼女の隣には徒がいる。もともとここには徒としーちゃんの母がいたのだが、偶然通りがかったアマキ・コトノがここに勝手に居座っているのだ。しーちゃんの母は徒とアマキ・コトノのやり取りを微笑みながら眺めている。しーちゃんの父はと言えば、彼はこの日と仕事が重なってこられなくなったそう。彼にとってもしーちゃんの運動会は見に行きたかったが、そうもいかなかった。徒と母がいるから、という点も大きかっただろう。


「君は、あれだね。五月の時に車に乗って煙草をふかせてた」

「そーよ。あんたは必死に自転車を漕いでいた」にべもなく彼女は答えた。

「まったく、よく覚えているね。君はもう少し馬鹿なんだと思っていたよ。君の噂はかねがね、お化けみたいな女だと」

「ふーん」

アマキ・コトノは慣れた手つきで素早く煙草とライターを取り出し、たちまち煙草を吸い出した。

息をポッと吐く。

「やめろ。煙草の臭いがついちゃうだろ」

「あらあら、そんな事気にする相手がおりまして?」

アマキ・コトノがしてやったりと言った具合で笑う。

「おいまさか君、それをするためだけに煙草を吸ったのか。とんだ捻くれ者だな」

「ホホホ。煙草を吸いたいから吸ったのですよ。俗世には疎いみたいねおぼっちゃま」

「似合ってないぞその口調」

「なんか耳がくすぐってえなあ」

また、大きく徒のほうに煙を吹きかける。

徒はそれを一生懸命に払う。シャツを叩き臭いを落としている。

「ああもう、くそ」

アマキ・コトノは笑っている。徒は立って、座っている彼女の事を見下ろした。

「君、番の取っ替えが早いだろ。あの時いた彼とも別れた筈だ。それもそうだ、君はかまってちゃんだから。この前の彼との別れ文句は多分こうだ。あの人はマイノリティでいる自分が好きで、それしか見てない」

「はあ。あんたにそんなの関係ないでしょ」アマキ・コトノが平坦な口調で言う。

「僕の言った事、全部あってるだろ。そうだ僕は嘘をつかない」

「何よあんた。全然分かってない」

「拗ねるなよ。全部図星だからって」

「バカだね。だいたいその歳で自分の事僕って、ちょっと痛々しくて見てられないわよ」

「はあ、それは僕の一つの特徴だよ。それでしかない。総合的に人を評価できない点が君の人間としての欠陥だ。一面的じゃなくてもっと人をよく見た方がいいんじゃないかな。そうしたら彼も長持ちするよ」

「はあー?なんであんたにそんな事言われなきゃならないの。あたしは自分の事僕って言う奴が子供っぽくて嫌い。それだけ」


一通り会場を眺めまわしてからまた、飽きたようにアマキ・コトノは呟いた。

「もしかしてあんた馬鹿なんじやないの?」

「どうしてそうなるのかな。馬鹿は君だよ」

二人は顔を合わせず、しーちゃんを見た。玉入れは丁度終わったところだった。しーちゃんのクラスが優勝し、周りのクラスメートが喜んで手を上げる中、しーちゃんは何ともないかのように突っ立っていた。しかし本人の気持ちは別として、それを見る身になってみれば寂しそうに見えざるを得ないのだ。

「どうした?どうして何も言わない。逃げたな。君の負けだ」

「はあ?何。勝負してたのあたしたち。全然知らなかったんだけど」

「何だと。大人ぶったって無駄だよ。君はもう僕に口で勝てないって分かったんだから」

「あーそう。はいはい、そう言うことにしておけば」

彼女の面持ちは憤りを懸命にひた隠し平静を装っている、彼もまた、口の端が震えている。それはいかにも子供らしい態度だった。


そんな時、三人を彼女が見つける。母はたかいにこんにちはと穏やかにあいさつした。母がたかいに会うのはこれが初めてだった。

「あれ、アバズレと徒だ」

「誰がアバズレだガキ」

たかいは丁度出場競技の合間の時間で、手持無沙汰だった。それでとうぜん話す友達もおらず、会場をとぼとぼ歩いていたら偶然に三人を見かけたのだ。

「たかい君。時間があるならここで少し休んでいったらいい。ちょうどしーちゃんの出番だ」

玉入れと障害物競争はたて続けに開催される予定だ。今彼は玉入れが終わったから退場したが、またすぐにそこに戻るだろう。

「たかい君は何にでるんだい?」

「私はあとリレーかな」

「リレーとは。凄いね、たかい君は」

四百メートルリレーは運動会の目玉である。彼女は自分の運動神経を機械があれば存分に発揮するべきだと考えていたから立候補した。当然女性陣からは妨害御工作が入ったが、こういう事に関しては無駄に素直で、厳密さにこだわる男子陣によってそれは食い止められた。彼らとて、たかいの実力はしっかりと認知していたのだ。

「頑張ってね」

「うん」

「はっどうせ言う程速くないわよ」

アマキ・コトノが水を差す。

「君は、嫌味を言うにしたってもうちょっと捻って発言しろよ」

「はあ、なにまた突っかかってくるって訳」

ファンファーレが鳴った。今日で何度目だろうか。何度も同じものばかりで誰もかれもがうんざりしている。ともかく、障害物競争を始めるべく生徒が入場した。もちろんその中にしーちゃんも混ざっている。

ピストルの音が鳴り、それぞれのクラスの生徒が並んでスタートする。『障害物競争ってさ、そんなに足の速さ関係ないらしいよ』そんな文言が生徒のなかで流布していた。実際それに納得している生徒は多く、今走っている彼らの中に足の速い人は少ない。


「あーつまんね」

「だったら帰れよ君」

「うるさいにゃあ。あたしはしーちゃんが必死なところがみたいの」

しーちゃんは麻袋を履いて走る事になっている。それは順番にして四番目で、跳び箱、ネット、前転の次だ。

今走者は必死でネットの下を匍匐前進している。

たかいは徒の隣に座った。

「やっぱり少年は必死でなんぼだよねー。しーちゃんはちょっと苦しんでるくらいが一番かわいいんだから」

「ねえどうしてしーちゃんが頑張ろうとしているのにそんなこと言うの」

本気で嫌そうな顔でたかいが言う。

「なによ、あんたも心の底ではそう思ってるさ」

「そんなことない」

アマキ・コトノは笑った。人というか、女としてたかいを見下して笑った。

「あんたはー、まだ分からないのかもね」

【心の底ではしーちゃんが苦しむことを望んでいる】あまりにその言葉が確信の元に放たれたものだから、たかいは考えた。そんなことない、たしかに一見弱そうだけど、しーちゃんはいつも泰然として、どんなことがあったって倒れない。たかいはしーちゃんのそんな所が好きだ。

「ほんと、適当いわないでよ」

そんなことをしていたら、いつの間にかしーちゃんが麻袋を履いて跳ねながら進んでいる。よろよろと何度も倒れそうになりながら懸命に前に進んでいる。

「頑張れ!しーちゃん!頑張れ!」

たかいは立って応援する。でも会場のみんなが声を立てているからたかいの声はかき消される。

「ねえ!二人も応援してよ!」

二人はあぐらをかいてふんぞり返って偉そうにしーちゃんを眺めている。しーちゃんの母は慌てたような、怯えるような落ち着かない表情で黙ってしーちゃんを見守るのだった。

「なによ。心の中で応援してるわ」アマキ・コトノが言う。彼女はニヤニヤしていてとてもそうには見えない。

「ねえ!しーちゃんがびりになっちゃう!」

「あのね、こんな三人が声を張り上げた所でしーちゃんには声は届かないよ。みんな叫んでいるし、そのうえ彼は集中しているから何にも聞こえていないよ。ねえ」

「ねえなんでよ!なんで応援してくれないの!」

「ホラ、コトノ某。たかい君の言う事を聞いて遣れよ」

「なによ。たかいはこいつにいってるんだよねえー?」

「二人ともだよ」

全くろくでもない二人である。そんな時、しーちゃんはついにころんだ。

「あちゃー」

「あら」

「ねえ!ころんじゃったじゃない!二人のせいで!」

「まあったくお熱い事で」

「あのねたかい君。別に僕が何か言ったって彼はいつかころんださ。僕と彼の負傷には何の関係もない」

【苦しむことを望んでいる】【苦しむことを望んでいる】やっぱり全くそうは思えない。ころんで苦しそうに立ち上がるしーちゃんは可哀そうだ。アマキ・コトノの横顔を見る。なんとなく彼女の表情が読み取れなくて怖かった。

結局障害物競争の我がクラスの順位は三位に終わった。しーちゃんはなんだかんだ頑張ったのである。でもしーちゃんは相変わらず一人でさっさと会場から引っ込んでしまった。


それで暫くしたらしーちゃんが四人の方に来た。

「お疲れ様」

「乙」

「おつかれー」

「おつかれさま、しーちゃん」

四人が口々に労う。しーちゃんはこともなげに聞き流した。

「別に、頑張ってなんかないよ」

「そんなことない。しーちゃんは頑張ったよ」たかいが言った。


   *


最期にリレーがあった。たかいはリレーのアンカーを任されていた。一着で彼女はバトンを渡された。バトンを受けっとった彼女はすたすた駆けてゆく。胸をはって、手足を大胆に振りながら。髪が靡いた。彼女のおでこが露わにって、それも気にせず走り抜けていく。

ただただ彼女は走っていた。

それをしーちゃんは茫然と見ていた。彼女を目で追えば、観衆は置いて行かれる。彼女の足は跳ねる。ぐんぐんと他を引き離していく。

「がんばれたかい」彼は呟いた。


   *


・八月二十二日

夏祭りがありました。伊吹山の神社に開かれるお祭りです。今年は四人で行きました。たかいと、つれと、コトノです。


夏祭りは賑やかだった。喧騒が、灯の光が、全てが騒がしく集っている。この町は別に賑やかじゃない。断然田舎の方だ。でもこの日だけはそんなこと忘れるくらいに賑やかだった。暖かい、人の光で溢れている。それが集まって混ざり合う。それはしーちゃんすらも取り込むかに思えた。


「ほらしーちゃん。好きなものを買っていいよ」

徒が言う。しーちゃんは綿あめを買ってもらった。

「あらあら、綿あめなんて以外に可愛いものを食べるのね、しーちゃん」

アマキ・コトノが言う。アマキ・コトノは相変わらずの恰好だった。Tシャツには【力拔山兮氣蓋世】と書かれていた。

しーちゃんは綿あめを口いっぱいにほおばる。一人でふてくされて、寂しそうでも彼は子供だった。山頂にたたずむ神社に続く石段にそって祭囃子が開かれている。伊吹神社に至るまではおよそ三百段の石段がある。寂れた鳥居を何回か通り抜ける。つれはもうばてていた。「なにはあはあいってんの?欲情してんの?」

徒は何も言わなかった。彼女に反応している余裕などなかったのだ。膝に手をついて肩で息をしている。汗が彼の首筋を走る、しかし相変わらず臭いはしなかった。

どうしてこんなにつかれているのだろうかしーちゃんは不思議に思った。

「いやいやなんたって重い訳だよ。君なんかとは脳味噌に入っている本の冊数が違う」

「みっともないわね」アマキ・コトノが笑う。

「ねえたかいは?」

そもそもこの夏祭りの集まりの言い出しっぺはたかいだった。運動会の後に彼女が夏祭りににいかないかと恥ずかしそうにぼそりと言ったのだった。アマキ・コトノはそれにすぐ賛成した。しーちゃんもせっかくなら行きたかった。徒も吝かではないようだった。そうして四人で夏祭りに行くことになったのだが、当日になって肝心のたかいがいない。連絡もよこさない。

「心配いらないわよ。どうせいつか来るから」

アマキ・コトノはそう言っているが彼女の言葉はいつになってもしーちゃんにとって信頼できるものではなかった。

やがて山頂にある神社が見えてくる。提灯と紅白幕で暖かく彩られた神社がある。笛や太鼓による囃子の音が騒がしく耳を掻き立てる。屋台を取り巻く熱気が、たこ焼きの焦げる音、綿あめの甘い匂い、気の抜けたような射的の銃の発砲音。しーちゃんは今、二人と喧騒の中にいる。

「たかいちゃんはね、山頂で待ってるって」

石段を登りきるまであと少し。

「たかいちゃん!出ておいで」

「たかい。たかい!」

石段の先に着物の少女が見える。カラフルに、水風船をあしらった着物、髪を繊細にまとめて、花を象った髪飾りでとめている。髪飾りが提灯の光を反射して光る。

しーちゃんは目を開けたまま。その人を目に焼き付けるのだ。祭りの喧騒が、騒ぐ人々が、暖かい光の混交が彼女の光景に溶け合って彼女の立ち姿が、この一瞬一秒、かけがえのない、目を閉じたら消えてしまうような儚さと美しさをもって彼の元に去来した。

だから、しーちゃんは目を閉じなかった。その場から動かずそこでたかいを見ていた。

バトンを受け取ったらスタスタと走り去ってしまう。観衆すら気にかけずに全部を置いてけぼりにして、彼女は彼の元からいなくなってしまいそうで、こんな時間が一瞬でも目の前に存在するのが奇跡のように思われた。


「しーちゃん、ここまで来て」

彼女が石段の上から言う。瞼が動いて彼の方を見る。

彼の、しーちゃんの心臓は射抜かれた。

もうめちゃくちゃだ。何もかも。彼女の素振りが、今まで積み上げてきた彼女の印象が、この光景で一瞬にして砕け散る。

彼女は誰?どうして、あんな嘘なんてついたの?どうしてぼくに話しかけてくるんだろう?しーちゃんには彼女にとってのなにもかもが頼りないものに思えた。あるのはただ、この瞬間の消え入りそうな美しい彼女だけ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る