夏のお話

七月二十五日

夏休みに入りました。大量の宿題が出ました。ワークが十冊くらい。今年も答えを写そうと思ったのですが、たかいが一緒に宿題やろうと言ってきたのでそうしました。公園で宿題をしたのですが、なんだかんだでたかいがほとんどやってくれました。七月中に宿題が全部終わりました。こんな事は初めてです。ぼくはこれから何でもできます。でも、一体なにをすればいいのでしょう。


しーちゃんにとって、いや小学生にとって宿題が七月中に終わる事はこの上ない幸運であろう。しかし大変珍しい事に、不幸な事に彼は折角の夏休みをどう過ごしたもの分からなかった。

しーちゃんは宿題をしにたかいが待っている図書館に行く途中、五人くらいで騒ぎながら歩いている同じくらいの男子を見た。肩には虫取り網、カゴがぶら下げられていて、ゲーム機を持つ子供、腕を振って足踏みしたり手持ち無沙汰な子供、でもお互い仲良く話あっているのだった。

しーちゃんはちらとそちらの方を見た。ぼくは一人だ、と思ったけれど自分が一人になったのは、はぶられたからじゃない。ぼくは自分から一人になったんだ。


   *


「ねーつれ。遊びに行こうよ」

びんぼうゆすりをしながら言う。

「今日はいいよ」

「なんで?」

「今日は何となく、いいよ。暑いし」

しーちゃんは身勝手だと思った。徒は大人だし、大人である以上仕事をしなければならない。でも徒は仕事をしていないから自分と遊ぶのがその代わりだと思った。

しかし最近徒は本ばかり読んでしーちゃんの遊びには付き合ってくれないのである。当然しーちゃんは独りである。

それは徒も分かっているはずなのに、ましてや彼は自分のせいでしーちゃんが独りになってしまったことすら分かっているのにしーちゃんの遊びには付き合う事が少なくなっていった。

「ねえつれ」

「何?」

「つれは仕事をしなくていいの?」

「だから言ってるだろ、僕が仕事をしなくたって世界は回るんだ。だから僕は強いて仕事をする必要なんかないんだ」

「うそだ」

徒は本から目を離してしーちゃんを見る。しーちゃんからそんなはっきりとした言葉を聞くのは数少ない事であった。

「つれは、つれは、それはつれが仕事をしてない理由にはならないよ。お父さんとお母さんが働いてるのはぼくとか家族を生かすために仕方なくやってるんだ。だからつれが仕事をしていないのはおかしい」

「しーちゃん。まさかしーちゃんからそんな言葉が出るとはね」

「つれはどうして働いていないの」

「しーちゃん。君は大人が自分や家族を生活させるために働いていると、そう言ったね?しーちゃん、君はそんな事言わないでいい。そんな事考えなくていい。だってしーちゃんは」

心なしかいつも飄々として喋る徒に感情がこもっている気がした。彼は言葉を止め、それから先を喋らなかった。

またしーちゃんの頭にあの言葉が浮かんだ。【しーちゃんはね、神様なんだよ】

「しーちゃん、おいで」

しーちゃんは徒の方へ駆け寄っていった。徒はそれを胸で受け止めてしーちゃんの頭を撫でた。やっぱり乱暴に撫でた。髪の毛がぐっちゃぐちゃになるくらいに乱暴に、しーちゃんは少し痛みを感じた。

徒の体からは匂いがしなかった。徒は無臭だった。それでやっぱり彼のシャツは真っ白で、どれだけしーちゃんが深くまで入り込もうがそれは変わらなかった。けれど、もしかしたら徒は掴みどころのない靄のようなものかもしれなかった。


「しーちゃん。君はこの世界で何処を隈なく探したって換えの聞かない、世界で最も尊ぶべき存在さ。しーちゃん。僕の声が聞こえるかい。聞いてくれているかい。僕の言った事、分かったかい」

しーちゃんは徒のあまりに深い抱擁によって口を塞がれ何か喋る事が出来なかった。


しーちゃんは徒の言った事がわかる様な気がした。でも、やっぱり言葉を反駁すると分からなくなった。徒の言った事はでもやっぱり相変わらず大した事なくて、時間が経てば気に留めるのも馬鹿馬鹿しくなった。それでそのうちすぐに忘れてしまうんだろうとしーちゃんは思った。


   *


八月十日

神さまって、なんですか。

神さまって、誰ですか。

神さまって、いるのでしょうか。

いまのぼくから見ても昔の話です。おばあちゃんが言っていました。お前の行いは神さまが天から全部見ていて、お前が死んだ後、お前を地獄にやるか、天国にやるか決めるんだよ。でも、クラスの女子が言っていました。神さまがいたら世界はこんな犯罪に満ちていないよ。だからぼくの中で神さまはあやふやです。

最近、ぼくは神さまについて考えています。【しーちゃんは、神さまなんだよ】って言葉が思い浮かびます。時々、ふとした時にその言葉が浮かびます。つれに聞いたら、神社には神さまがいて、寺には神さまがいないそうです。日本には神さまがたくさんいて、いろんなものに宿っているそうです。トイレにも、リモコンにも、携帯電話にも、じゃあお母さんや、つれにも、たかいにも、ぼくにも宿っているのでしょうか。【しーちゃんはね、神さまなんだよ】って言葉はそう言う意味なんでしょうか。ちがう気がします。この町の伊吹神社には神様がいるのでしょうか。神様っていうのは、みんなが神様の事を口に出すのは必死なとき。お願いするとき。叱るとき。みんな神様って言います。それにぜんぶ答えてくれる神様って本当にすごいんだろうなと思います。ぼくが神様なんて、それならなおさら分かりません。ぼくはまだ子供なのに。


   *


公園には、サッカーにいそしむ子供たちがいる。しーちゃんはそれを眺める。本当は混ざりたいのか、しかし

今更もといた場所に戻るなんてできない。しーちゃんは友達がいない。あつまってかけっこをしたり、ボールで遊んだり、今頃だったら虫取りにでも行っていた事だろう。別にはぶられた訳じゃない。何回か遊びの誘いを断ったら、そのうち誘われることもなくなったのだ。あの時どうして遊びの誘いを断ったのか、それはもう忘れてしまった。なんとなく遊びたくなかったのかもしれない、それとももしかしたら居心地が悪かったのかもしれない。少年にとって時間や思い出とはとらえどころのない物であり、しーちゃんにとって今が西暦何年か、とか今日は世界でなにが起きたかなんてどうでもよかった。一月は正月、四月は学期の始まり。七月は運動会、十月は誕生日。十二月はクリスマス。

あの時、彼らと話さなくなったのはいつ頃だっただろうか。幼稚園児に戻りたい、大人のまねをしてませた口調ではなたれる言葉には彼らにとって苦い思い出がいつの間にか消え去り、明るい思い出ばかりが過去に飽和しているからだ。

しーちゃんにとって、子供にとって考える事とは苦痛である。

どうしてつれは働かないんだろう。どうしてぼくは勉強をしなきゃならないんだろう、あの子はなにを思って遊びに興じていのか。この手はどうして動いているのか。自分は自分の手を、どうやって動かしているのだろうか。喋るとりとめのない言葉が、ひとつひとつ明確な意味をもって、どうして人に意図を伝えられるのか。


「しーちゃん。なにしてんのー」

「コトノ」

公園で腰かけていたら、アマキ・コトノがいつの間にか隣に腰かけていた。アマキ・コトノはやっぱりTシャツにパンツという薄着で、足をむき出しにしていた。Tシャツには【色即是空、空即是色】とかかれていた。

梅雨から三か月たった。しーちゃんにとってはかなり長い歳月だったが、つれと遊んでばかり。学校ではたかいと話してそれだけ。

「いーじゃない、たくさんなにかがある人生なんて本当は珍しいかもよー」

彼女はしーちゃんがボール遊びに加わたい素振りを見せていた所を見ていた。

「しーちゃんはあそこに混ざりたいのー」

「いいや。別に混ざりたくなんてないし」

「ほんとーかね」

彼女が急に、顔を近づけてきた。しーちゃんの目をじっと見る。しーちゃんはたじろいだ。よろけて後ずさる。

『こういうやつをアバズレっていうんだよ』たかいが言っていた言葉を思い出す。

「だったらしーちゃんはどうしてあっちをむいているのかにゃ」

「なんとなく」

「なんとなくねえ。しーちゃんは一人ぼっちで寂しくないの」

どうしてか彼女はしーちゃんの傷をえぐる。愛撫をするようにじゅくじゅくとしつこく。

「ねえ、本当はあそこにまざりたいんじゃないの?」

「ねえねえ素直になりなよしーちゃん」

「別に、混ざりたくなんかないよ」


「嘘」

毅然とした声がしーちゃんの耳に凛と響いて、彼を捉えた。その言葉が耳の中で反響して、永遠に消えない様な気がした。

しーちゃんはべつに嘘をついたつもりはなかった。だってかつていた友達とは、遊びたくないから遊ぶのをやめたんだから。どうしてまた昔みたいな事をしなければならないのだ。

でも、アマキ・コトノがあまりにはっきりとそれを言ってのけたからしーちゃんも自分がまるで本当は遊びに混ざりたいのに我慢して隠していると思っているんじゃないかと自分を疑う様になった。

「ほんとうに混ざりたくないんだよ」

「いーや嘘ね」

「嘘じゃないよ。混ざりたくなんかない」


珍しくアマキ・コトノは伏し目がちで、何やら浮かない表情をしている。彼女はそのうちポケットから煙草とライターを取り出して吸い出した。ポッと息を吐く。白い煙が臭いを醸しながらしーちゃんの目前を通り抜けていく。

また彼女は息を吐く。ぶわあとしーちゃんの顔面に煙をぶちまけた。

しーちゃんは咳ごんでその煙を一生懸命手で払いのける。

「急に何すんだよ!」

アマキ・コトノは安心した様に笑った。

彼女の表情は何処か不安定で、でも一貫して気が抜けている様だった。しーちゃんにはそれが異様に思えた。

「ねえねえしーちゃん」

「なに」

ぶっきらぼうに返事が返ってくる。

「しーちゃん。汝に啓典を授ける。この言葉をよく覚えておきなさい」

「どうしたの急に」

「まあ聞いておきなさい。セブンスターを吸ってる奴はバカ、メビウスを吸ってる奴は貧乏、ウィンストンを吸ってる奴はバカ、マルボロもバカ、ピアニッシモはまあまあかな、ハイライトもバカ、キャメルを吸ってる奴は、センスある」指を折りながら彼女が言う。

「何言ってるの?そんな長いの覚えられる訳ないじゃん」

「しーちゃん。君の人生に役立つ知識だよ」

アマキ・コトノは笑いながら煙を吹き出す。ぼふぼふぼふと口から歪な煙が出た。

彼女は急にベンチを立って両手を高く上げてピースした。ピースが薄暗い橙と鈍色を奏でる夕空に逆光を伴いながら旗の様に掲げられた。

彼はそれが何かに似ているなと思った。倫理の授業で見た、でもいつの何処でやったのか思い出せない。一枚の絵が思い浮かぶ。今から革命するのよ、旗を掲げた女の人がおっぱいを片方丸出しにして後ろの人たちを導いている絵画。たかいに聞けば分かるのだろうか。


「しーちゃん、これなーんだ!」

彼は見上げる。彼女は笑っていた。今度は清々しい笑顔だった。

「わかんない」

「これはねしーちゃん。これは平和っていうの!」

彼女を見ていればそれが何となく分かったきがした。彼女は手を下ろしてまたベンチに座り直した。先の笑顔はすっかり消えていた。

「ねえしーちゃん。聞いてよ」

「なに」

「あたしさ、彼と別れたんだ。ねえ覚えてる?あの映画館の帰り車運転してた人。なーんか気が合わなくてさあ。結局あいつは自分が大好きなんだよ。あたしのことなんかどうでもいいわけ。全部自分、自分まみれ。ロックが好きな自分が好き。絵画が好きな自分が好き。マイノリティの自分が好き。ねえしーちゃん。そんな奴が結局あたしのことなんかみちゃーくれないのよ。最低よ。だから別れちゃった。しーちゃん、しーちゃんはああはならないでね。ねえしーちゃん。君はあたしの事しっかり見てくれる?」

「見てるよ。しっかり」

しーちゃんは彼女の方を向いて、じっと彼女を見つめた。

彼女は惨めな気持ちになった。どうにもならないような、よりによってどうしてこんな子供にこんなことを言ってしまったんだろう。それを覆い隠す様に取り繕って笑顔を作った。その笑顔をしーちゃんはやっぱり自分の気持ちが届いたんだと素直に思ったのだった。それでまた彼女は笑った。

彼女はベンチを立った。

「ねえしーちゃん。いいことしてあげるよ」

日が暮れる頃になって、いつのまにか広場で遊んでいた少年たちは帰っていた。

「ほら、しーちゃんも立って」

彼女は茂みの方へ歩いて行った。しーちゃんもつられて茂みに歩いていく。葉が頬に擦れ、服に塵がこびりつく。木々に囲まれた狭い空間にしーちゃんはアマキ・コトノと二人でいた。アマキ・コトノから、普段からは感じない雰囲気を感じた。しーちゃんの目にはアマキ・コトノしかいなかったから彼女しか見る事ができなかった。しーちゃんは彼女をじっと見つめていた。

「ねえしーちゃん。目をつぶって」

言われるが儘、目を瞑った。

「しーちゃん。そのまま、目を瞑ったままあたしを見て」

「出来ないよ。そんなこと」

「出来るのよ」

がさごそとコトノの方から音がした。静けさの中にその音だけが響く。しーちゃんはまだ馬鹿正直に目を瞑っていた。やがて音が止んだ。

「しーちゃん。もういいよ」

彼女はいつしかやったかくれんぼのようにしーちゃんに声をかけた。

しーちゃんが目を開ければアマキ・コトノは裸だった。裸。昔日の風呂に入っている母の裸が思い出された。

でもアマキ・コトノの裸は違った。いや、違ったのはしーちゃんなのだ。

アマキ・コトノは丸かった。アマキ・コトノはつるつるだった。たかいの腕には産毛が生えている。でもアマキ・コトノには毛が綺麗になかった。それどころか彼女の肌はきめ細かく、しーちゃんにとっては現実のものの様ではないかに思われた。

気付いたら、腰をついて座っていた。

「しーちゃん。あたしの名前を呼んで」

どうして、彼女がこんなことをするのか分からない。本当に分からない。裸を他人にみせるのは恥ずかしい事ではないのか。彼女の声はいつも腑抜けているのに、今ばかりはしっかり聞こえた。

「しーちゃん、ホラ、早く」

後ずさる。

「しーちゃん」

彼女の肉が、しーちゃんの頬に触れる。ゆっくり、深々と混ざり合うよう、擦れ触れ合う。やがて彼女の肉が、しーちゃんを包み込んだ。しーちゃんは柔らかさを感じた。

それで暫く二人はそのままにしていた。


「しーちゃん。あたしには一つだけ才能があってね。まず目の前の人がいるでしょ。それで目を瞑ってさ、またその人を見るの。それでぎゅっと抱きしめる。たぶん最初ちょっとだけは躊躇うんだろうけど、肌と肌が触れ合ったらもうおしまい。しーちゃんあたしね、その気になれば十秒くらいならどんなに知らない人間だって世界で一番愛してあげる事が出来るの。やっぱりそれって才能じゃない?」

彼女は自信たっぷりに言う。

「コトノ。こんなのぜんぜん良くない」

「嘘。これはみんながほしいものよ。無条件に、全人類が、古今東西いつだって三百六十五日二十四時間喉から手が出るほど欲しがっているものの筈なんだから」

「コトノ・・・」

アマキ・コトノは柔和に笑っているつもりだったが、やっぱり無表情だった。こんな子供相手に何をやっているんだろうと思った。【こんなのぜんぜんよくない】まだ性徴すらおこってないような子供に、私は一体なにをやってるんだ。しーちゃんを見ているとおかしくなる。どうしてかは分からないけど、こうして裸で抱きしめる事だって彼にそうしてやりたかったから。だからアマキ・コトノは【こんなのぜんぜんよくない】という彼の言葉にしっかり傷ついた。しょせんは子供の戯言なのに。

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