第3話 コンセプチュアルアート信仰

1917年、既製品の男性用小便器にサインを書いただけの「作品」が美術展に出品された。

マルセル・デュシャン作「泉」である。

古典的な絵画、彫刻作品と区別される「現代美術」の始まりとして語られることが多いこの便器は、作品の成立条件をその作品そのものではなく、それを見た観客の内面に起こることを操作しようとするもくろみ、つまり「コンセプト」と不可分なアートとしてコンセプチュアルアートとも呼ばれることになる。


ところでこの便器は未使用の新品なのか、それとも中古品なのか?

物理的な「汚れ」に限定されない『穢れ』の概念が根強く残り、また西洋と比較して古来からの生殖器信仰が根強く残る本邦にあって、便器はその浄と穢、陰と陽あわせ持つ象徴性から我々日本人の深層心理にコンセプチュアルアート=信仰対象という直感を根付かせたのではないだろうか。

「泉」が結局出展を拒否されたのち行方知れずとなったことも霊験あらたかさを演出している。


そもそも明治時代に西欧からアートの概念が輸入された時にはすでに、「美術」と訳されたそれは新たな客神の一柱としてアニミズム的宗教観へ習合される形で日本人に受容された可能性がある。


20世紀初頭、西欧に近づこうと急ぐ日本の美術信仰は、政治や法や歴史すら呑み込み近隣諸国を巻き込んで質量を備えた神話世界へと再構築を始める。

国土と民は神の肉体であり、その完成形は美術作品として示された。

それは後に同盟を結ぶナチスドイツにおける美術信仰が、土地に根ざさぬと見なしたユダヤ人を排斥する、ある種の土地神信仰であったこととも共鳴する。


敗戦により美術は政治と分離されるが、民族的アイデンティティーを背負った神話としての性質を保ったまま、近代以前の信仰形態へと先祖返りしていった。


戦後における具体例を挙げよう。

1954年に結成された「具体美術協会」のアートパフォーマンスはすなわち神前に奉納される神楽舞である。

天井から提がる手綱に掴まる白髪一雄が足で絵の具を掻き混ぜる様は古事記冒頭の原初の混沌であり、絵の具瓶をキャンバスに投げつける嶋本昭三と、巨大な白紙を全身で突き破る村上三郎もそれぞれ創世神話を再演する。

まばゆい電気服を纏う田中敦子が天の岩戸開きの場面を担うのは言うまでもない。


1960年代の「もの派」と呼ばれる作家達は、さらに率直に原初的な自然信仰へ回帰した。

関根伸夫による円筒状の穴と、そこから掘り出した土による同型の塔「位相—大地」。

李禹煥によるガラス板の上の石「関係項」。

小清水漸による石を割る「70年8月石を割る」。

成田克彦による炭「SUMI」。

多くを語る必要は無いだろう。一木一草、鉱物にもゴムにもプラスチックにすら霊魂は宿る。

建築物や偶像に拠らない「神域」の在り様は、沖縄の御嶽ウタキにも近い。


1963年の高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之らによるハイレッドセンターは、白衣を着て銀座の路上を勝手に清掃する「首都圏清掃整理促進運動」、顔面白塗りの男が電車内でオブジェを懐中電灯で照らし、下車して後にそれを舐め回す「山手線事件」などの“ハプニング”を行なったが、彼らの活動は同時代の寺山修司、唐十郎らと共に、諸国を遍歴し民草に信仰を拡めたひじりとも呼ばれる修験者や遊行僧になぞらえられるだろう。


渡来神「美術」に仕える神楽舞の舞手、シャーマン、山伏、毛坊主、まつろわぬ祭司たち。

やがて修行を終え後進を育成する立場となった彼らは、日本各地の美術大学教授に職を奉ずることとなった。

日本の美術大学における美術教育とは即ち神の依代となる人材の育成であり、ことに女性作家には「神懸かりの巫女」の素質が望まれる。

異界への交信の業は論理に拠らず、ただ内なる暗がりを探究する密儀として暗に示されてきた。

しかし教授たちのように霞を喰って生存可能になる秀才は限らており、多くの学生は流行に合わせた手頃な値段の縁起物を檀家、氏子衆にあたるアートコレクターに売り付けることで糊口をしのぐ。

そうしてもはや俗世の職に就けない美大卒業生たちは、各地のアーティストレジデンス(地方芸術祭の滞在制作)を渡り歩きながら修行を続けた。


ここでも再び日本における信仰の伝播の在り様がなぞられる。

中世から近代まで存在した流浪の芸能者達。

各戸をまわり門付け芸を披露する傀儡くぐつ廻し達は、エビス人形を操り鯛を釣り上げ見物人、家、土地を祝福する。

根無し草である彼らのえびす舞、人形浄瑠璃は、しかし各地に引き継がれ、年毎の祭で舞われてきた。

漂泊の民に対する神聖視は蔑視や差別と表裏一体であるが、そうであるが故に土地のしがらみに縛られず信仰の伝播のメディウムたり得たのだろう。

越後妻有大地の芸術祭、瀬戸内国際芸術祭を筆頭に2000年代から日本各地に乱立した大小様々な地方芸術祭。それらを発表の場とした有象無象の美術作家達はかつての芸能者達の末裔であり、彼ら彼女らそれぞれの名は忘れられようとも、土地に撒かれた種は共感する者に啓示を与える。

その土地に居場所の無い者に、美術の神は祝福を与える。

県立美術館に恭しく祀られた美術作品とは違う。

いい年の大人が、粗大ゴミみたいな現代アートとやらを近所の神社や休耕田や校庭に設置しているのを子供達は見る。

大人とは毎日働くものではなかったのか?

あのよそ者達はどうやってメシを食っているのか?

あんなものなら自分にも作れそうだ。


そうして呪いは拡散する


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る