第2話 地方芸術祭と都市伝説村
越後妻有大地の芸術祭、瀬戸内国際芸術祭を筆頭に2000年代から日本各地に乱立した大小様々な地方芸術祭。
その地方芸術祭と「都市伝説村」は共通の祖先を持つのではないか。
都市伝説村とは〈杉沢村〉〈犬鳴村〉〈樹海村〉等のいわゆる「地図に無い」村にまつわる、主にインターネット上で語られる怪異譚の総称である。それらは概ね隔絶された集落に偶然迷い込んだ旅行者が、現代社会の倫理感や法の及ばない住民と遭遇してしまうという筋書きを持つ。
まずは地方芸術祭と都市伝説村という兄弟の、偉大な祖父の話をする。
18世紀半ばに端を発する「資本主義」が社会を急激に発展させる一方で貧富の差を拡大し、伝統的な文化や共同体を破壊する側面があることを人々は問題視し始める。
この資本主義に対抗する社会構造として共産主義と、ファシズムが考案された。
それは極めて雑な言い方をすれば、お金に支配されない「村」を自分たちで新しく作ろうという試みでもあった。
大都市たる資本主義から隔絶された美しい村を創る試みは、しかしその多くは掲げる理念と裏腹な末路を辿ることになる。
封建社会に先祖返りしてしまった村や、独裁と恐怖政治に支配された村、非科学的な迷信にすがるようになってしまった村。
それらの村々の苦い記憶と反省は、それでもなお、いや、そうであればこそ人々の中で「あり得たかもしれない美しい村」の幻影といまだ密かに結びついている。
世界大戦を経て国家サイズの村づくりが頓挫するまでのあいだ、学生運動全盛の日本にも無数の「小さな村」が試みられたが、武力による革命を志した若者達の村の終焉の悲惨さは、当時の同世代の者達の村づくりへの思いを萎えさせるに十分だった。
その後の連合赤軍に関する一連の報道は、社会の多数派とは異なる「独自の価値観を持つ村」への忌避感を醸成する。
村に対する幻想と忌避感。相反するイメージは想像を掻き立て人々を惹き付け続けた。
自給自足を標榜する農業コミューンやヒッピーカルチャー、新興宗教、さまざまな小さな村が起こした違法行為と破局の報せが人口に膾炙する一方、都市への人工集中と地方の過疎化は進行する。
辺境の地の社会基盤の維持は立ち行かなくなり、廃校、廃寺、廃道、そして廃村が増加していった頃、インターネット上で「都市伝説村」が語られ始める。
そして兄弟のもう一方の話。
格差社会を忌避する者の共同体が結局は小さな格差社会に収束するということと、正義と権力の混同が暴力の歯止めを失わせるという教訓を、かつての学生運動の闘士達は学んだ。
のちに闘士達の中に、正義を主張せず、権力を志向せず、自らは道化を装いつつ寓意的に反資本主義の理念を拡める試みに取り掛かる者達がいた。
芸術家に身をやつした彼らはしかし売買可能な商品としての芸術作品を忌避し、美術館という権威にすら背を向け、都市から離れた過疎地域に「非定住の仮設の村」を立ち上げる。
「地方芸術祭」のはじまりだ。
さてここからは前回に引き続き、芸術家達による屋外展示、屋外公演が通りすがりの目撃者によって超常的な怪異と誤認された可能性について考える。
「地方芸術祭」と「都市伝説村」を繋ぐ第三項、
1960年代「アングラ演劇」の隆盛である。
寺山修司ひきいる天井桟敷と、新宿花園神社境内にサーカスのような「紅テント」を設置した唐十郎の状況劇場。時おり警察沙汰を起こした両者は共に既存の劇場の外、日常に異物を出現させ現実と虚構の境を曖昧にする創作を旨とした。
1975年の天井桟敷による市街劇「ノック」ではのべ30時間に渡り東京阿佐ヶ谷の各所で予告なく「上演」が行われ、上演マップを受け取っている観客を除いた一般市民達は突如常軌を逸した出来事を目の当たりにすることになる。
当時はインターネットも存在せず〈正体は前衛芸術作品であった〉というような市民へのタネ明かしも期待できない市街劇は、経済発展のとば口に立つ日本に「奇妙な噂話」という都市伝説の種をばら撒く。
ノックは現在に至るまで後進の作家達の間に半ば伝説的な作品として語り草となり、また路上公演そのものの模倣は容易であることから、演劇、舞踏、映像、現代美術など各分野に数知れない亜種を発生させることになる。
そこから、90年代半ばにかけて主に噂話と読者投稿雑誌文化を媒体とした「口裂け女」「人面犬」「トンカラトン」「テケテケ」「ターボババア」などの都市伝説の系譜にも【寺山路上演劇型】とも呼べる繋がりを見いだせそうだが、いったん都市伝説村に話を戻そう。
1970年代、東京で寺山修司と唐十郎らが乱闘し留置所にぶち込まれていた頃、西の大阪では松本雄吉を中心に「劇団維新派(結成当初の名称は日本維新派)」が産声を上げる。
公演に際して大掛かりな野外劇場を仮設し、同時に集落のような屋台村を作ることで知られる劇団である。
結成初期頃の写真を見ると、遠景に現代的なマンション群の立つ広大な河川敷に、そこだけ異世界のような巨大バラック建築が見られ、半裸に白塗りのメンバー達が並ぶ。
東京と大阪、空襲によって家を失った親世代が自力で作り上げた「バラック建築」を身近に育った当時の若者達にとり、安価に入手できる廃材、木材、竹、テント、工事用の足場(余談だが、現在工事現場で見られるような組み立て式の鉄製の足場は1950年代から日本に輸入され普及し始めた)などを使って自分たちだけの劇場を建てるのはごく自然な流れであったと思われる。
劇場を、美術館を自作してしまう技術は、ある種の無頼の精神と共に後進作家達へ受け継がれ、美術大学に於いても先輩から後輩へと(バリケードや立て看板も含め)実践を持って伝授されてきた。
地方芸術祭に参加した作家が採算を度外視した熱意と労力を持ってバラック小屋の群れと、その内部に安置される謎オブジェと、その周りで執り行われる謎の儀式を制作してしまう。
それは彼が、無謀な村作りを夢見た者達の末裔たる所以である。
そして何も知らずに彼の所業を目の当たりにした旅行者は言う「地図に無い村で異様な祭が催されていた。」と。
最後に、筆者が関わった事例を一つ挙げたい。
2017年に福島県いわき市泉町周辺で開催されたカオス*ラウンジ新芸術祭、市街劇「百五〇年の孤独」である。
寺山修司オマージュのタイトルを掲げたこの芸術祭は、約150年前の明治期の廃仏毀釈によって仏教文化が途絶し、その後なぜかほとんど復興が成されなかったという泉地区の土地の記憶を掘り起こす試みであった。観客は地図を頼りに泉に点在する会場と歴史の残骸を辿っていく。
(筆者は第一会場で観客に地図を渡す役であった。)
その終着地点、丘の上にある墓所と観音堂の間の広場に鐘つき堂が建っており、暗銀の鐘が佇んでいる。
実はこの鐘つき堂は美術作家である市川ヂュンの作品であり、鐘本体も作家本人がアルミ缶15000個から鋳造したものである。
大晦日には除夜の鐘を鳴らしたこの作品は会期終了と同時に撤収され、地面には支柱の跡を微かに残すばかりであった。
ここからは完全に筆者の妄想である。
芸術祭の会期中、年の瀬の帰省で祖父母宅へやって来た小学生がいる。
近所を探検するうちに丘の上の墓所と小さな観音堂と、小振りな鐘堂を見つける。
数年後、彼はなにげなく祖父母に丘の上の鐘について訊ねるが、そんな物は昔から無いと言われる。
記憶を辿り再訪した丘の上には、あの日確かに見たはずの鐘堂と、暗い銀色の鐘が、どこにも無いのだった。
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