第3話 遭遇

 スタダで麻衣とお茶をしていたら、すっかり夜遅くになってしまった。


 スタダというのは、スターダックスコーヒーと呼ばれる老若男女問わず人気のコーヒー店であり、昨今はSNS映えなるものを目指す麻衣のような女子高生には特に評判が良いカフェであり、また仕事や勉強を静かにゆっくり捗らせたい人たちには堪らないリラックススペースでもある。


 今日、彼女は新作の「トリプルグレープフラペチーノ」、私はいつものようにカフェモカを頼んで暫くは話をしていたのだけれど、予想以上に話が盛り上がってしまってふと窓の外を見たら日が沈みかけていたというわけだ。


 そして現在の時刻は午後七時二十分、慌てて店を出た私たちは麻衣が住んでいる高級タワマンの一階玄関前にいる。


「ここまで送ってくれてありがとう。正華ちゃんが隣にいると心強いよ」


「別にいいって。私は格闘技やってるし、人間相手ならほぼ負けることはないから」


「流石、空手、柔道の全国出場者は言うことが違う! 好き!」


「まあ、今はもうやってないけどね。勉強に集中したいし」


 麻衣の言う通り、私は空手と柔道の全国大会に出場しており、柔道は全国三位、空手に至っては全国一位を獲得している。けど、それも今は昔の話で、今は格闘技からは足を洗って技術保持のための定期的なトレーニングくらいしかしていない。


「それでも強いのに変わりはないでしょ?」


「そうだけど……。あまり過信はしない方がいいかもね」


「分かってるって。でも、一回は守ってくれたことがあるし、頼りにしてるってこと」


「はいはい、分かったって」


 男子相手でも負けない自信はあるけど、例えば軍人やスパイみたいな戦闘のプロが相手だったら分からない。ただでさえ、彼女は社長令嬢という狙われやすい立場にあるわけだし、実はそういうアニメや映画みたいな存在がガチで彼女を攫いに来たこともあるので割と冗談は言っていないつもりだ。


 そのときは、何とか勝てたけどね。


「でも、やっぱり正華ちゃんもここに住んだら? お父さん、今でも隣の部屋は正華ちゃん専用の部屋として空けてくれてるし。私、正華ちゃんと部屋が隣同士なら、毎日でもお泊り会したいんだけどなー?」


「前も断ったとは思うけど、それはないから」


「ええー」


「えーじゃない。私には部屋が広すぎるし、家事スキルもあまり高くないから部屋をすぐ汚したりしそうだし、第一高級タワマンってだけで傷一つ付けるのにすら躊躇いを覚えそうで住みにくそうだし。遠慮しとく」


 ここは地上三十階建てで家賃がひと月何百万円とかするセレブの巣窟であり、確か、彼女のお父さんがこのマンションの土地権利を有しているんだったか、知らんけど。それで、彼女のお父さんに「正華ちゃんなら、喜んで住まわせてあげよう。全国指折りのボディーガードが要れば安心だし」なんて言われてるのだけど、さっきも言った通り高級タワマンは身の丈に合わな過ぎるので丁重にお断りしているというわけだ。


 しかし、麻衣の方はお気に召さないようでぷくーっと頬をフグみたいに膨らませて拗ねている。


「私は気にしないのに」


「麻衣が気にしなくても私が気にするの」


「ちぇー」


 普段の麻衣を見ていると感じないけれど、住んでいるところや発言のスケールの大きさから偶に住んでる世界の違いを実感させられることはある。ただ、それでも麻衣と友達をやっていけているのは偏に幼い頃からの付き合いによる相互理解と、付き合いの長さから生じる信頼関係にあるのだと思っている。


 言わずもがな、私は麻衣がお金持ちでも、例え貧乏であったとしても友達を続けられる地震があるくらいには麻衣のことを大事に考えている。


「まあ、仕方ないよね。気が変わったらいつでも言って。その時は、パパもきっと

喜んで対応してくれると思うから」


「そんな日は来ないと思うけど、そのときは頼んでおく」


「分かった。それじゃあ、私が言うのも何だけど気を付けて帰ってね。夜は冷えるし、暗いからなるべく寄り道せずに」


「分かってる。そもそも、寄り道するような用事もないし。何かあってもこれで解決するし」


 私が拳をグッと突き出すと、「だよねー」と同意される。私が強いことは麻衣が一番よく知っているだろうし、私自身も驕りではないがそれなりに強いとは思っているし。


「じゃあ、気を付けて。本当に寄り道しちゃ駄目だからね?」


「はいはい。じゃあね、また明日」


「うん、また明日ー」


 胸元で手を振ってくれる麻衣に小さく手を振り返して帰路に着く。麻衣の言う通り少し肌寒いと感じたが、この時間でも人通りがまだまだ多い夜道のおかげで心は安心感で温かくなっている。


 大通りに面しているせいで車道からは車の行き交う騒音が途切れることなく鳴り響くと共に、街灯だけでなくビルの灯りや車のヘッドライトの明かりで周囲が照らされているから特に怖いと感じることもない。


 どうしてこんな話をするのかと言えば、私は親友にすら話したことがない恐れているものがあるからだ。


 ちょっと道を曲がって住宅街の方へとやって来ると、それは大層怖いと感じる雰囲気を漂わせてくる。雑踏による喧騒も、車の走行音も、あるいはカラスや鳩といった動物の鳴き声や何かの機械音であっても、ざっと括って考えてみれば賑やかしには丁度よく、むしろ夜で視界が不安定な状態でこそ多角的な方向から他覚的情報を摂取することで安心感を得ていた。


 しかし、こうした住宅街は小説内だとしばしば閑静なという形容詞的用法が用いられるのがどうして多いのか分かるくらい静かだと、ぽつぽつと並ぶ街灯の光のないところは一人影踏みをしているかのように誰かにつけられている浮遊感を覚えることもある。そう、私は幽霊や超常的な存在に潜在的な恐怖を持っているのだ。基本的に、人間や動物相手なら自分の技が通じるのでどうとでも対処はできるだろうが、幽霊といった得体の知れないものは何をしてくるか分からないという点で非常に恐ろしいと感じるのだ。


 もしも、自分の技が通用しなかったらただのか弱い女の子だし、権力や武器といった強い力を持っていた人間がそれらを取り上げられたら一般人に成り下がるのと同じことだ。


「お化け、出ないよね……?」


 一人、ぼつりと呟いてみても誰かが言葉を返してくれることはない。これならいっそ、怪しい人物だろうが何だろうが一人くらいは居てくれた方がまだマシだと思える。理系なのに超常現象を信じているのは言うまでもなく、幼い頃に経験した怪奇現象が原因だ。


 あれさえなければ、私はお化けを怖がるようなことは微塵もなかっただろう。それと同時に、理系の道に進もうと即決即断することもなかっただろうけどね。


「は、早く帰ろう……。家まであと五分くらいだし、すぐ着くよね……」


 時折、薄っすらと街灯に照らされて顔を覗かせる自分の影から逃げるように速足になっていき、それに伴う心拍数の上昇は恐怖感の増幅と比例関係にありそうだった。しきりに辺りへと視線を散らして何もいないことを確認しながら進んでいくのだが、もうあと目と鼻の先に自分の家が見えた十字路でふと視線を向けた先に奇妙なものが映ってしまう。


「何、あれ……」


 思わず呟いて、急いでいた足がピタリと止まり視線が「それ」に釘付けになる。十字路を右に曲がり、ちょっと進んだところの壁が暗い中でも奇妙な色合いを発していたので実に不思議な現象だと興味関心をそそられる。未知なるものに畏怖を抱くのは私だけれど、また未知なるものを目にするとどうしようもなく気になってしまうのは理系の性とも言えることだった。


『本当に寄り道しちゃ駄目だからね?』


 別れ際、麻衣に念を押されて言われた言葉が脳裏を過ったので、自然と「それ」に向かおうとしていた足が鎖に繋がれたみたいに引き止められる。分かっている、怪しい物には近づかずに真っ直ぐに家へ帰ることが正しいことくらい頭では理解している。


「……でも、ごめんなさい、麻衣。少しだけだから」


 別に触れたりする必要はない、ほんの少しだけ観察するくらいなら問題ないはず。そう思って私は謎の色合いを放つ壁に近づいてみる。


 よくよく近くで見てみると、それは赤や青、黄色といった七色の色彩が楕円形の波紋になって繰り返しグラデーションを変えている本当に不思議な壁になっていて、こんな現象は初めて見るので何が起きているのかよく分からなかった。


「光の屈折? となるとブロッケン現象辺りが怪しい? でも、ここは高山じゃないし……。別に視界がぼやけてるわけじゃないから蜃気楼でもないし……。虹が見えるのとも理屈は違うし、そもそもこの波紋はどうやって説明すれば……。単なるペイント……、なわけないし……」


 あれやこれや考えていても仕方がないと思い、とにかくスマホで証拠の写真を撮ろうと制服のポケットから機体を取り出したその時だ。後ろから何者かにポンと背中を押されて体が前に倒れ込み、手からスマホが離れる感覚と共に壁の中に自分の体が飲み込まれた。


「ちょっ、なにこれ!? やばっ……」


 しかし、起き上がろうと藻掻いても態勢が元に戻るどころか、どんどん壁の中に吸い込まれていく。結局、私はどうすることもできずに視界一面が虹色の世界を暫く進み……、やがて、怪物の口から吐き出されるみたいに壁の外へと放り出された。


「いった……。顔面から落ちるとか最悪なんですけど……」


 とにかく、自分の顔を触って感触を確かめてみたけど別に鼻が折れてるとかいう大事故には至っていないようで一先ずは安心した。手元を見たらスマホはなく、ポケットを探してもないので落としてきたらしいことはすぐに分かった。


「スマホもなし……。取り合えず、来た道を戻って……。できるわけないか……」


 振り返れば、そこはただの壁だった。というか、よく見ればここはさっき見たのと同じ壁……、っていうか周りを見ても私の家の近くの景色なことに変わりはなかった。おかしなことがあるとすれば昼夜が存在しない赤みがかった謎の色合いと空に浮かぶ黒い雲、そして周囲には人の気配が微塵もしないことだった。


「何か、既視感があるんですけど……。デジャヴってやつかな……? もう、怖いのは勘弁だって言ってるのに……」


 私、理論寺正華。まさかの人生で二度目の怪奇現象に遭遇、しかも全く同じ現象で正直笑えない。ここまで来ると運命というか、あるいは何か呪いにかけられてるんじゃないかって疑うレベルの災難だった。


「つうか、明らかに悪意のある誰かに押されたよね背中! 一体誰だし!」


 まあ、不用意に怪しいものに近づいた私が一番悪いんだけど……、それにしたって酷いよね!? おかげで私の顔に一生消えない傷が付くところだったし!


「いつか見つけたら、絶対に一発ぶん殴ってやる! 首を洗って待ってろよ!」


 ふんと拳を振ったら、隣にあった壁から何かが砕ける音が響いた。ゆっくりと首を回してみると、どうやら怒り余って自分の拳で他所様の土地の塀を壊してしまったようで、もはや修復不可能な傷を負わせてしまったらしかった。


「……まあ、いいか。どうせ、誰もいない場所ってことは分かってるし……」


 悪いことではあるけれど、切り替えって大事だもんね。こんな状況だし、もし誰か所有者がいたとしても謝って許してもらおう。


「それより……。せっかく、こんな場所に来ちゃったんだから少しは成果を持ち帰らないと。ここがどこかも分からないんだし、まずは情報収集が先だよね」


 私は自分の両頬を手でパンパンと叩い、そして気合を入れるためのいつもの台詞を呼吸するかのように言う。


「とりま、やる全一択でしょ。締まって行こう、私」

 誰にも聞かれないからこそ、独り言もいつもより自然と大きくなった。そうすることで、胸の内に絶えず流れ込んでくる不安や恐怖が少しでも晴れると信じて。


「暫く住宅街を歩き回ってみたけど、本当にいつもの街の風景だ……」


 この赤黒いペンキを塗りたくったような世界は、そっくりそのまま向こうの世界と同じものだ。言うなれば、「裏世界」みたいなところだと思われる。


 この裏世界は景色は表と全く変わらないけれど、代わりに人や動物といった生き物が全くおらず、風も吹かなければ木々に近づいても匂いのようなものは一切ない。


 例えるなら、等身大のジオラマの中に放り込まれたような感覚がずっとしている。


「そして、出口も無いと……。どうしう、前はどうやって出たんだっけ……」


 魔法少女ライジングと名乗った稲妻を纏った彼女と過ごしたのはほんの数分だけだったし、もう五年以上も前の出来事だ。


 彼女が雷と一緒に空から降ってきたのが印象的過ぎて、ぶっちゃけ会話の内容やどんな道を歩いたかとかほとんど覚えてない。


 ……と、そこまで考えてピタリと足を止めた。ライジングさんと出会ったことやここをどんな方法で脱出したかも重要ではあるけれど、彼女がやって来たのにはそもそも理由があってのことだった。


「……ちょっと待って。これがもし、あの時と同じ出来事なら……。いるってこと? あの怪物が……?」


 一瞬、過った恐ろしい出来事のリフレイン。自分の実の丈より何倍も大きな怪物が殺意も持たずに地面を踏み鳴らすのと同じ要領で私を殺そうとした、かつての光景が再現される?


「あはは……。まさかね! そんなこと、幾ら何でもあるわけないよね!」


 乾いた笑いと一緒に飛び出た中身のない言葉には、吐き出されるべき感情が一切籠っていない。それどころか、自分のことを元気づけようとすればするほど蟻地獄にでも捕まったみたいにネガティブな感情が冗長されていく。


「……まさか、ね?」


「ウアアァァ……」


「っ!?」


 どこかで聞いた事のあるゾンビのような呻き声が閑静な住宅街に木霊する。音は前方に見える十字路の左方面から聞こえてくるが、さてどうしようか。


「このまま逃げるか、もしくは覗くだけ覗いてみるか……」


 ここに来る直前で一度、覗くだけ覗いて危険な世界に迷い込んでるし……。今回はこのまま静かに立ち去ろうかな。


 好奇心はあるけれど、命あっての物種ってものだし。他に出口がないか、別の通路から探してみよう。不要な足音を立てないように引き下がろうとして振り返ると、私の足元に見慣れない兎のぬいぐるみが置かれていた。


「今度は何? ぬいぐるみ……?」


 しかも、凄く変わった兎のぬいぐるみだった。奥行という奥行きが存在しない二次元な体つき、ルビー色に輝く瞳と体を覆う黄色い体毛、そして額に瞳と同じ色の宝玉を嵌めた長いうさ耳を持つアニメキャラのような容姿だ。


 変なぬいぐるみ、というのが正直な感想だ。急に現れて気味が悪いし、さっさと通り過ぎて……。


「失礼だな、君は。僕はぬいぐるみじゃないよ?」


「ひゃあ!? ぬ、ぬいぐるみが喋った!?」


「ぬいぐるみじゃないって。僕は、カーバンクルっていう妖精の一種」


「妖精……。カーバンクル……?」


 というか、こいつ……。私が喋っていない言葉に反応した気がするのは気のせい?


「気のせいじゃないさ。僕たちは人の心を読むことができるんだ」


「ほ、本当に聞こえてる!?」


「面白い反応をしてくれるのは嬉しいけれど、いいのかな?」


「いいって、何が?」


「君の後ろ。もう来てるよ?」


「は……?」


 彼の言葉を聞いて恐る恐る首を斜め後ろに向けると、視界の端に入ったのは黒くて大きな謎の巨人の姿だった。あのとき見たのとほとんど同じ容姿、同じ気配……。


「ウアアァァ……」


「やば……。逃げなきゃ!」


 私は咄嗟に駆け出そうとして、傍にいたカーバンクルを拾おうかどうか迷いそうになる。でも、怪物は目の前まで来てるのに迷っている時間なんて……ない! 結局、さっと身を屈めてカーバンクルを腕の中に抱きかかえると住宅街を全力疾走で駆け抜ける。


「僕を連れて行くんだ、君は」


「あの状況じゃ連れていく以外に選択肢はないでしょ! あんた、ここのこと詳しいの!?」


「それなりにはね」


「なら、この状況を何とかする方法を教えて! 今すぐ!」


「一つ良い方法がある。あいつと戦うんだ」


 住宅街の三つ目くらいの十字路を右に曲がって塀の影に隠れ、肩で息をしながらゆっくり歩いて呼吸を整えつつ突っ込みを入れる。


「無理に決まってるでしょ! あんなのとどうやって戦うの!」


 明らかに既存の生物とは構造そのものが異なる黒い影を纏った何かに対して、私の格闘技が通じるとは到底思えない。仮に効いたとして、私があれに勝てる想像自体ができないでいるので結局は同じことだ。


「大丈夫だよ、絶対にできる」


「どうしてそんなことが言い切れるの!」


「君が魔法少女になれば、全部解決だ」


「……はあ?」


 興奮して頭に血が上っていたのに、唐突に飛び出た伏線無しの急展開発言に冷や水を浴びせられたみたな気分にさせられる。持久力があまりないから走らないで彼の話に付き合ってはいるけれど、今のところ何一つ現実味のある発言を聞けていないから信用もへったくれもない。


「別に信用してもらう必要はないけれどね。ただ、このままだと確実にあれに殺されるよ?」


「あれって……。あの黒い怪物のこと? 一体、何なのあれは……」


「あれが何なのかを知るよりも、今はこの状況をどうにかする方が先だよね? 君が魔法少女になるって決断をするなら、すぐにでも力を貸してあげる。どうする?」


 何、この半ばどころか九割九分脅迫めいた魔法少女への勧誘の仕方……。魔法少女系のアニメとかドラマは結構見たと思うけど、少なくとも皆自分から魔法少女になってたのにこんな展開ってあり得ないでしょ……。


「ウアアァァ……」


 さっと後ろを見てみれば、いつの間にかあいつも角を曲がり切ってこっちに向かってきている。このままの歩調で進めば、接触まであと三十秒もないかもしれない。


「……もう、何なの!?」


 あまり持久力がない私にとって足の筋肉に結構な痛みが走ってはいたけれど、それでも無理矢理足を前に突き出して黒い怪物から遠ざかれるよう懸命に走り出す。


「分かった! 魔法少女になる! ならないといけないなら、なるよ! だから、この状況をどうにかして!」


「状況を打開できるかどうか君次第なんだけど、まあいいよ。それじゃあ、代償を貰おうかな」


「だ、代償?」


「うん。ちょっと手首貸してね」


「はあ? 手首って何を……」


「ガブッ!」


「いったああああああああ!?」


 突然、この兎モドキは手首に鋭い犬歯を突き立てて思いっきり噛みついた。ホッチキスを自分の指に間違って止めたときのような突き刺す痛みが全身を駆け巡り、涙目になって滲んだ視界に薄っすらと自分の手首から赤色の液体が零れているのが映る。


「血を、吸われてる……?」


「ゴク、ゴク……。ぷはー」


 カーバンクルは満足したのか鋭利な歯を抜くと、今度は口から何かを吐き出した。それはどうやら十字架の形をした首から下げられそうなペンダントらしく、十字の交点には彼の額と同じ色の宝石が輝いていた。彼はそれに備え付けられたボタンを押すと、十字架の下側の方から今度は極細い長さ一センチくらいの針が飛び出してきた。


「あんた、今度は何をしようとしてんの?」


「見て分からない? お注射の時間だよー。さあ、まずは一番大切な人の名前を思い浮かべてねー?」


「急に何なの!? ……麻衣だよ、麻衣! 桜木麻衣!」


「はい、じゃあそのまま彼女のことをよく考えておいてねー。はい、ブス!」


「っ……!?」


 注射が刺さると同時に私の体内に何かが流れ込んでくるのを感じた。心臓の鼓動がやけに大きく聴こえ、七色のネオンライトの点滅が視界を埋め尽くし、思考が滞ると共に自慰行為をしているときのような心地よい電撃が体中を伝播する。口の端から涎が飛び出しているのに静止させることはせず、自分が走っているのか、歩いているのか、それとも止まっているのかも分からなくなる。もはや耳なんて機能していないし、トリップした体では全身の快感を抑えるのに精一杯で触覚や嗅覚も完全に失われている。


(ああ、気持ち良い……。このまま、楽になりたい……)


 徐々に暗い海の底に沈んでいくかのように意識は失われていき、フワフワとした夢見心地の気分に支配されて眠る様に視界が黒く染まっていく。


 私の意識は徐々に暖かな闇に抱かれながら深く、深く黒鉄色の海に沈んでいった。

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