第2話 修羅場

 イオレクの部屋を出たエリシアは廊下の端に人が立っているのが見えた、自分の一つ年下、チェインと同い年の弟ジャッキーだ。


 鉄面皮のエリシアとは違い、いつも笑顔を絶やさない人懐っこい弟の顔に笑顔がない事にエリシアは気づいた。


「どうしたジャッキー、浮かない顔をして」


 エリシアは努めて明るく声をかけた、ジャッキーはウェザーラ王国王直属近衛兵団の歩兵隊長。


 そして、チェインとは無二の親友でもある。




 エリシアとチェインのあの・・話しが昨日の今日で耳に入っていてもおかしくはない、エリシアはそれを分かっている。


「姉さん、聞いたよ、その、チェインとの話」


「そうか、お前にも気苦労をかけるな。まあ、あまり気にしてくれるな。婚約が流れることは貴族や武家にはままある事だ」


 確かに、親の都合で婚約が流れることはある。だが、周りから祝福されていた婚約が破談になるのは珍しい。


 ジャッキーは姉が努めて明るくしている事に胸が傷んだ。


「チェインに夜、酒を飲もうって誘われたんだ。アイツに酒場へ誘われるなんて初めてでさ、珍しい事もあるもんだって思ってたんだ」


 チェインがもう自分との事を弟に話したのかと思い、エリシアの表情がさらに固くなった。それを見て取ったジャッキーが急いで付け加える。


「いや、姉さんとチェインの事を聞いたのはアイツからじゃなくて別の奴が話しているのを聞いたんだよ。そしたらさ、確かにアイツの表情がいつになく冴えなかったから。それでだったのかって納得して、何て言うか、チェインも本意じゃなかったのかも知れないからさ。姉さんさえ嫌じゃなければ、この話、俺が間に入ってもいいかな?」


 エリシアの心が浮き上がった。


(チェインも、気を落としている? なぜだ? 自分から婚約破棄をしておいて……。そういえば、チェインにしては珍しく昨日の軍事演習には身が入っていなかった。それは私との婚約破棄を演習後に言い渡すと決めていた事が原因だったのか? では、やっぱりなにか理由があって、仕方なく婚約破棄となったのか……。なら、なぜあんな風に人前で言って私に恥をかかせた?)


「姉さん?」


「あぁ、すまない」


 長く黙り込んでいたことに気付かなかったエリシアはハッとなった。


「わからない、少し待ってくれ。お前が間に入って話しをしても、まるで私が未練がましくお前に復縁の話しをチェインに持っていって貰っているように周りには映るだろう。私としては、部下の面前で恥をかかされた部分もある。確かにチェインとはまだ話しをしなければいけない部分はあるが、私はチェインから声がかかるのを待つ方が得策だろう」


 打算的に言いつつ、エリシアの心は先程までとは嘘のように軽くなっていた。チェインが自分と別れ話をした後に暗くなっていたと聞いただけで。


「そっか、とにかく、今日は誘われたから行ってくるよ。わざわざ誘ったってことは、何か言いたいことがあるんだろうし」


「そうか、私から何か言うこともないが。チェインにも何か事情があったのかもしれない、よく話しを聞いてやってくれ」


 ジャッキーは姉の言葉を聞いて内心で苦笑いを堪えた、「エリシア副官が部下の前で婚約破棄されて酷い恥をかいた」という話しを聞いていたからだ。


 そんな恥をかかされて、その次の日に元婚約者に対して「なにか事情があったのかもしれない」と労る姉。


(まったく、"鋼鉄の副官"なんて呼ばれててコレだもんな、俺から見たら姉さんはちょっと能天気なくらいのお人好しだ)


「分かったよ姉さん、帰ったらまた話せるかな?」


「もちろんだ、それじゃあ後でな」


 歩き去るエリシアの足取りはいくぶん軽くなっていた。



 ~~・・~~・・~~・・~~



 日が暮れて一刻がたっぷり過ぎた頃、エリシアの部屋の扉が控えめに叩かれた。


 エリシアが「どうぞ」と声をかけると扉が開いた、そこには酒で顔を赤くしたジャッキーが朝よりも浮かない顔でたっていた。


「どうしたジャッキー、とにかく入りなさい」


 エリシアは立ち上がり、部屋に置かれた椅子を示した。


 ジャッキーは頷いただけで重い足取りで椅子に座った、エリシアはすぐにでも話しを聞きたい自分を抑え、コップに水差しからたっぷり水を注いでジャッキーの前に置いた。


「随分と飲んだようだな」


 ジャッキーはうめき声を一つ上げてコップを掴み、喉を鳴らして水を飲み干した。


「姉さん、アイツから色々と話しを聞いてきたんだ」


 そこまで言って、ジャッキーは躊躇うように黙った。


 アイツとは間違いなくチェインの事だ。


 エリシアは急かす事もなく、ジャッキーの前に座った。


(なにをそんなに躊躇っているのか、言いづらいのか、ここへ来たと言うことは、チェインから何か言伝てがあったのだろう。婚約破棄を超えて今さらこれ以上ショックな事もないだろうに……)


「……。姉さん、すまない、チェインを殴っちまった」


 ジャッキーがテーブルの下で拳をさすりながら呟いた、エリシアの表情が険しくなる。


 ジャッキーとチェインが喧嘩をしている所はよほど幼い頃ならあったが、幼少期からもエリシアはほとんど見たことがない。


「なにがあった?」


「それがさ、俺からはちょっと言いにくいんだ。チェインは謝ってたよ、姉さんに恥をかかせてすまないって。それで、アイツ国を出るつもりなんだ」


「なんだって!? 国を出るだと、なぜそんな話しになる?」


 エリシアは咄嗟に椅子を蹴って立ち上がっていた。


 ジャッキーは唸り声を上げた。


「その辺の事情は俺からは言いづらい。俺は自分で姉さんに謝りもしない、事情も説明しないまま俺にだけ事情を話して出ていくってチェインが言うから、それで腹が立って手を出しちゃったんだ。その、今考えたらアイツの事情も結構あれだったから。もう少し話すべきだったって後悔してるんだけど」


「それで、チェインはもう発ったのか?」


「いや、俺の前でも相当飲んでたし。時間が経って俺もちょっと頭を冷やしてさ、気になって飲んでた店に戻ったんだけど。もうチェインは帰ってたんだ、店主に聞いたらその後もアイツ店の樽を空にする勢いで飲んでたって言うから明日は家にいるはずだよ」


「……。そうか」


(一体、チェインになにがあったと言うんだ……)


「姉さん、明日の朝一番にアイツの家まで言って話しをしてくれないか? 酔い醒ましでも持ってさ、二人で話した方が良いよ。アイツは一人で抱え込んでるけど、これは二人の問題だから」


 ジャッキーはうなだれて、エリシアの顔も見ずに話し続ける。


「ごめん姉さん、言伝ては預かったけど、チェインと姉さんが二人で会って、それでもアイツが喋れなかったら、その時は俺から話すよ」


 ジャッキーは疲れた顔で立ち上がり、「おやすみ」と言って部屋を出ていった。


 それから少ししてようやく、エリシアは自分が立ったままでいることに気づいた。



 ~~・・~~・・~~・・~~



 エリシアは酔い醒ましのアロエを煮詰めた飲み薬を持ち、誰も起き出していない早朝に屋敷を出た。


 朝霧の立ち込めた街中を足早に歩く。


(……。婚約破棄をされておいて、こんな時間に顔を見に行くのは気が引けるな)


 エリシアは背筋に力を込めて歩いた、チェインの家は街の郊外、そこは一万騎隊長マルズバーンの家にしてはあり得ないほどに小さな家だ。


 屋根が一つに部屋が一つ、そこはかの人魔大戦の英雄、勇者バルハラーの生家だった。


 母親と父親と三人で過ごし育ったバルハラーが愛した家、英雄となった後もバルハラーはチェインを引き取り二人で過ごした家だ。


 チェインにとっても思い入れは深く、バルハラー亡き後もそこに住み続けている。


 そのくたびれているが良く手入れのされている屋根と優しいオレンジ色の壁が見えてエリシアは心臓の鼓動が早くなる。


 扉の前に立ち、躊躇う前にノックした。


「おーい、チェイン。生きているか?」


 エリシアは明るく声をかけた。


 そして、普段ここへ来るときと同じく、返事を待たずに扉を開く。


(酔った状態でどんな風に寝ているのか見てやろう)


 エリシアはそんな事を考えながら全開に扉を開いた。


「ジャッキーから昨日は散々飲んでいたと聞いた、それでジャッキーにお前から話しを聞いてやってほしいと言われて来たんだが……」


 チェインと目があった、目が合い、エリシアは目を疑った。


 手に持っていた包みを落とした事に気付かないほど、エリシアは頭が真っ白になった。


 チェインは何も着ていない、裸だ。


 裸でベッドの前に立つチェイン。


 手には慌ててはこうとしていたらしいズボンと下着を持っている。


 そしてベッドには、年端のいかない少女がシーツで体を隠している。


(あぁ、そういうことか、そういうこと、だったのか)


 エリシアの顔に浮かべていた作り笑顔がスッと消えた。


「……。邪魔したな」


 それだけ言うとエリシアは渾身の力を込めてドアを閉めた、何もかもを叩き壊したい。


 そんな気分だった。


(いや、もう壊れているのか。チェインを愛していて、自分もチェインに愛されていると思っていた。チェインの別れの言葉は、何かの間違いだと思っていた)


 後ろから、チェインの声が聞こえてエリシアは振り返る。


 振り返ったが、玄関の横からチェインは見ているだけだった。追いかけても来ない。


 すぐに目を逸らした、そして気がついた。自分が涙を流している事に。


 婚約破棄をされた日から、一度も流さなかった涙。


 涙を流さなかったのは、きっと何かの間違いだと思っていたからだ、チェインはまだ自分を愛していて、あの言葉は何かの冗談だと思っていた。


 それが、それが自分の幻想だと今打ち砕かれた。


 ほとんど走るように屋敷に帰り、自分の部屋に入るとエリシアはベッドに突っ伏して泣いた。


 エリシアの人生でこれほど涙を流したのは初めてだった。

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