遠い日の記憶

私は暫く母の元へ通い続けることにした。


本当に私を覚えていないのか?


それともフリをしているのか?


だとすれば何故?


様々な疑問は残ったが何度か


話をすれば状況が変わるかもしれない。


そんな期待も込めての判断だ。


今日で4度目の訪問となる。


私の現状については一通り話した。


そろそろ母のことを聞いてみよう。


『また来てしまいました。』


「あら!お母様は見つかった?」


それには答えず、


『この病院には、もう長いこと?』


今度は彼女が黙った。


『ご家族は?』


「・・・・。」


やはり記憶は残っているのでは?


そして思い切って父のことを伝えた。


『私の父は、先日亡くなりました。』


彼女から目を離さず観察したが


ほとんど反応はなかった。


僅かにため息をついたかもしれない。


「それは残念でしたね。」


声にも動揺は見られなかった。


それでも私は続けた。


『どうしようもない父でした。』


『仕事もせず酒浸り。』


『小さい時から殴られ続け。』


『12歳で殺されかけました。』


いつもの微笑を湛えたままだ。


しかし何も答えない。


一切の感情を


忘れてしまったかのように。


やはり私と父の記憶だけ


抜け落ちているのか?


諦めかけたが最後の切り札に賭けた。


一つ深呼吸をしてから


『実家で遺品整理をしました。』


表情は変わらない。


『父の机に日記が残されていました。』


微笑は変わらず。


『その日記には…。』


母の日記を順を追って伝える。


あの壮絶な内容を聞いても


彼女は最後まで表情を崩さなかった。


もう手札は残っていない。


ここまでか。


せっかく再会した母と。


いやこれで再会したと言えるのか?


ようやく人並みの感情を


取り戻したかもしれない私の心は


再び急降下していく。


少し期待し過ぎたのかな?


最初からいないものと思って生きてきた。


振り出しに戻るだけだ。


『帰ります。貴女もお元気で。』


そう言って立ち上がり


病室のドアに手を掛けた時、


「…カラスは山に…。♪」


微かに聞こえる歌声は母の方からだった。


「…七つの子があるからよ。♪」


「かわい、かわいとカラスは鳴くの。♪」


私の瞳から突然、涙が溢れてくる。


懐かしさ。温かさ。


心が温もってくる。


遠い、遠い昔、


母の背中で聞いた優しい歌声。


「やまの、ふるすへいってみてごらん。♪


まあるいめをしたいいこだよ。♪」


「カラス、なぜなくの? ♪」


何度も繰り返す母。


私は母を振り返える。


相変わらずの微笑を湛え


しかしその瞳からは涙が溢れていた。


さっきまでとは違い


本当に小さくなってしまった母を


私は力の限り抱き締める。


半世紀の時を越えて引き離された二人。


それぞれが歩いてきた壮絶な日々を


熱い涙が全て洗い流す。


まだやり直せるだろうか?


それは分からない。


今はこの瞬間を感じていたい。


一生味わえないと思っていた母の温もりを。


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遠い日の記憶 ミクタギ @mikutagi

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