母の日記

《 1965年 3月16日》


今日、このあばら家に越してきた。


仕方なくではあるけど。


あのボロアパートにも


長く住んだがもう限界だった。


毎日あの男が繰り返す暴力。


食器の割れる音や怒鳴り声。


隣近所はよく我慢してくれたな。


働かない彼の目を盗んでは


私に声を掛けてくれる。


食事やお金の面倒も随分みてくれた。


しかしそんな生活も終わりを迎えた。


あの男がタバコの不始末で


火災を起こしたのだ。


幸いボヤで済んだが、


住み続ける訳にはいかなかった。


そして隣人関係を疎ましく思った彼は


こんなあばら家に越してきた。


一軒家。もう誰も助けてくれない。


《1965年 5月20日》


ここに来てどのくらいかな?


あの男は外出しなくなった。


その代わり酒量が格段に増えた。


仕事も全くしない。


だから私が働かなければならない。


それなのに時折、


動けなくなるまで殴り付ける。


回復するまで休み、また仕事への繰り返し。


顔を殴らないのは証拠を残さないため。


5年間耐え続けたがもう限界だ。


何故今まで逃げなかったのか?


自分でも分からない。


逃げよう!


《1965年 8月22日》


何てことに! 生理がこない。


それだけは避けなければと


気をつけていたのに。


ああ!どうしたら。


明日、病院に行ってみよう。


どうか、間違いでありますように。


《1965年 8月23日》


妊娠していた。


“ おめでとうございます ” と言われた。


堕胎すると決めていたのに、


そう言えなかった。


あんな男の子供など産めるはずがないと。


そう思っていたのに、言えなかった。


お腹に宿った新しい命があの男と


繋がっているとは


どうしても思えなかった。


何とかこの子を守れないものか?


《1965年 9月2日》


迷った挙げ句、


今日あの男に妊娠を伝えた。


予想外だった。喜んでいた。


子供のために全てやり直すと。


酒も止め、仕事も探すと。


本当なのか?


でも今まで見たこともない嬉しそうな顔。


信じてもいいかな?


《1965年 11月8日》


あれから2ヶ月。


彼は別人のようになった。


毎日仕事に向かい、酒も止めた。


信じられない。


この子が幸せを連れてきてくれた。


毎日が幸せだ。彼も幸せそうだ。


ありがとね。早く産まれてお顔を見せて!


《1966年 4月19日》


産まれた。男の子。


今日やっと家に帰ってきた。


1週間経つが元気だ。


母乳も良く飲む。


大きく元気に育って欲しい!


ただそれだけを願っている。


あの人が帰ってきた。


今日は何を買ってくるのだろう?


《1966年 7月29日》


この子は元気に育っている。


“ 賢也 ” と名付けただけあって賢い。


私の語りかける言葉が分かるらしい。


それに合わせて笑ったり泣いたりする。


親バカかな? 笑


《1967年4月2日》


随分久しぶりの日記になった。


賢也もまもなく一歳を迎える。


思えば去年の今頃は幸せだった。


人間の本質とは、


やはり変わらないのだろうか?


あの男も賢也が産まれて暫くは


真面目に働いていた。


しかし徐々に会社を休みがちになり


1年経った今では元の木阿弥。


酒浸りの日々。私にも時折、手を上げる。


幸い、賢也には優しい。


また働きに出なければならない。


賢也をどうしたら?


《1967年5月15日》


勤め先が決まった。


やはり水商売しかなかった。


小さなスナックだが、


ママのお母さんが


賢也の世話をしてくれる。


あの男に預けるよりは、ましだろう。


夜の8時から深夜1時まで。


何とか頑張ろう。この子のために。


《1968年5月12日》


また暫く振りの日記。


この1年、何とか頑張ってきた。


週4回、スナックで働きながら


賢也の世話をして、働かないあの男に


暴言や暴力を受ける日々。


最近はお客さんとの関係を疑っている。


どこにそんな暇があるのか?


賢也も2歳を過ぎた。


物心がつく前に環境を何とかしたい。


でもどうすれば…。


《1969年2月15日》


あの男に見られてしまった。


お客さんを見送る際に


不意を突かれキスされたところを。


たぶん時折やってきて


様子を見ていたのだろう。


家に帰ってから散々殴られた。


何度も説明したが聞くはずもない。


もう疲れた。賢也だけが支えだ。


《1969年4月6日》


あの日から毎日のように


あの男から暴力を受け続けている。


最近は賢也にも暴言を吐くようになった。


守らなければ。賢也だけは何としても。


でも私自身、どうなるか分からない。


もう限界です。


誰か助けて!




この日で日記は終わっている。


この後、どうなったのか?


母は必死で私を守ろうと


してくれていたように思う。


何故、私と離れることになったのか?


「賢也君。今後についてお話しましょう。」


自治会長がやってきた。


『会長。お世話をお掛けしました。』


『ところで先程、母の日記を見つけました。』


『母について、何かご存知では?』


私が尋ねると、少し表情を曇らせ


「どこまでご覧になったのかな?」


私は日記の内容を説明した。


自治会長は、暫く考えてから


ゆっくり、ゆっくり語り始めた。


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