第21話 黒い、絵の中で
「あ! 触っちゃダメ――」
インクや古紙の匂いが充満する部屋に、その館の管理人であるリリーの声が響く。壁の一面を埋め尽くすほどに巨大な傑作。嘗て、ペスティモンテが直面した、黒死病の凄惨さが描かれている絵。
私は、リリーの声を無視してそれに手を伸ばす。
「……やっぱりか」
その場にいた4人のうち、私だけが気づいた。リリーでさえも気が付かなかった点。
「え、え? 手が。絵が……手が、絵が!」
絵に触れたはずの私の手は、表面で止まることなく、なんの抵抗もなく裏側へ突き抜けた。
「波紋が広がったように見えたのは気のせいじゃなかったな。奥に空間があるよ」
振り返ってそう言う私の目に映ったのは、まるで餌をねだる鯉かのように口をパクパクさせるリリーと、不思議な現象に顔をしかめるローウェン。そして、何かを察したであろうウィル。
「ようやく見つけられたかも知れないな。ウィル、少し行ってくるから、ここで待っていてくれるか?」
「いえ! 僕も行きます!」
やる気は十分といった声音のウィルだが、絵の裏、若しくは中がどうなっているのか分からない。最悪危険を伴う可能性もある。ただ、先程から手を突っ込んだままなのに何も起きないという事は、案外大丈夫なのかもしれない。
「そうか。なら一緒に行こう」
私は空いた手をウィルへと伸ばす。そして、ウィルが掴んだのを確認して、2人は絵の中に飛び込んだ。
絵の中に入るというのは、変な感覚だった。
一瞬、水の膜をくぐったと思ったら、一切風の流れない、暗い部屋にいた。
「ん? 黒いだけ?」
真っ暗だと思ったそこでは、繋いでいる手も、金色の長い髪の後ろ姿もはっきり見える。ただ、それ以外が見えないだけだった。
「うおっ、気持ち悪いなこれ」
「えー……本当になんなんですかここ」
先に入った2人に続き、ローウェンとリリーも絵の中に足を踏み入れた。
前を行くカミラは、手を伸ばし、ここの壁を探そうとゆっくりと進む。10歩くらい進んだところだろうか、急に足が止まった。
「ようこそ。お待ちしておりました。カミラ様」
聞き覚えのないしわがれた声に、僕はカミラさんの背から顔を出す。
そこに居たのは、僕より少し背の低いくらいの、やけに歳をくった様な顔。極めつけは、人間とは思えない、長く尖った鼻を持つ、人型の何かだった。
「ヴィクセン様より
「いいや、無い。が、はっきり言ってここが何処だろうと興味は無い。それより、自己紹介くらいしたらどうだ、ゴブリン」
「これはこれは、失礼致しました。お連れ様方には、覚えのない姿に御座いますね」
カミラは特に動揺もなく、それを『ゴブリン』と呼んだ。そのゴブリンは、小さい体で綺麗な礼を執り、頭を上げて、そのまま言葉を発す。
「
ゴブリンの自己紹介は簡潔で、まるで貴族かのような品があった。しかし、その場にいた2人、僕とリリーには衝撃的な出来事だったため、内容までは頭に入ってこない。
「ご、ゴブリンって何!? 子供……いやいや、そもそも人間なんですか? その長い鼻とか、病気?」
衝撃的な出来事とはいえ、慌てふためくのはただ1人、リリーだけだ。僕の方は、カミラさんと出会ったあの日から、知らない世界があるのだということを痛感している。
「さて、自己紹介も終わりましたので、課題について説明させて頂きたいのですが、よろしいですかな?」
僕は隣に立つカミラさんを見上げ、カミラさんはリリーを、そしてローウェンもリリーを見る。
「あー、彼女への説明は俺からしとくよ。そっちは2人で進めといてくれ」
気を使ってかは知らないが、ローウェンが未だ動揺しているリリーを連れ、部屋というか絵の中というか、とにかく真っ黒な部屋の後方で腰を下ろす。
病院でされたように、直人では知りえない世界について説明がなされるのだろう。向こうは任せて問題なさそうだ。
「それでは、説明させて頂きます」
ゴブリンは僕たちに背を向け、空中に手を伸ばす。――チョンッ と小さな音が聞こえたかと思えば、真っ黒だった空間に色が広がってゆく。それで出来上がったのは、今入っている絵程の大きさの
「まずは、課題として私に預けられるようになった経緯について、ご覧いただきたく存じます」
ゴブリンはキャンバスへと手を伸ばす。すると、先程までは色が付いただけだったものが、徐々に意味ある映像へと移り変わる。
「え、あれって……」
キャンバスに映し出された映像にあったのは、2人の人影。うち1人は、見覚えのある鎧を身に付けていた。
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