第4話 姉、兄、弟


 下腹部に感じた違和感。つまり尿意を伝えようと風にいの方に手を伸ばしてはたと気が付く。そもそも自分の年齢が分からないからこういうときにどう振る舞うのが正解か分からない。


 キッチンでのことは特に怪しんでいる様子もないから良いとして、いや、何であの状況を疑問に思わないのかは問題だと思うけど。まあいい、それは置いておく。とにかく今はトイレに行きたい。


 でも今自分が何歳なのか分からない限りには、普段オムツに出しているのかトイレに行っているのか、そもそも自己申告ができるのかどうかすら分からない。かといってそれを知る手段も焦る頭では思いつかなくて、余計に焦る。


 85年間培ってきたものが一瞬どこかに行ってしまった感覚に陥って恐怖を感じた瞬間、風にいの腕に自分のぷにぷにした手を重ねた。もう無理。



「ふぅに、なか、たいっ」



 お腹に手を当てながら必死に訴えると、私と目を合わせた風にいは慌てふためきながら私を抱き上げた。



「海ねえ! ちょっと空琉をトイレに連れていくね!」


「え? いやいやいや、空琉はまだトイレの練習なんてしてないよ!」


「でも、お腹痛いって!」


「いつもオムツにさせてるじゃん」



 火を止めてキッチンから出てきた海ねえが風にいの手から私を取り上げてお腹を擦ってくる。



「やぁ、でちゃっ! とぉれ!」


「えぇ? トイレ、行くの?」



 動かない日が増えてもトイレだけは自力で行っていた私のプライド。周りの目を気にする余裕を失って、そのあとに残ったのは小さくて強固な大事と言えば大事で、ちょっとどうでも良いかもしれないもの。



「海ねえ、連れて行ってみよう」


「でも……」


「トイレトレーニングもいずれしないといけないって、この間の誕生日のときに母さんも言ってたでしょ? 一発クリアしちゃえばすごくない?」



 風にいは私の記憶にある以上に私のことを信じてくれる。私の物心がつくころにはつっけんどんな態度を取られていた記憶しかないからすごく新鮮な気がする。大きくなるにつれて思春期特有のものだろうということは分かったけど、嫌われている不安は大人になるまで続いた。


 小さいころはこんなに愛されていたんだと思うと、なんだかこそばゆい。けれど嬉しくて堪らない。でも今は、それは置いておこう。


 とりあえずトイレに連れて行ってください、お願いします。本当に限界です。



「ふぅに、うぅ……」


「ちょ、空琉! 海ねえ!」


「あぁもう! 分かったわよ!」



 海ねえに抱えられたままトイレに直行すると、ズボンを脱がされた。その間に風にいが設置してくれたおまるの上に降ろされて座ると、目の前にあるグリップを握らされた。



「ここ掴んでれば落っこちるとかなくて安心だからね」


「頑張れ、出せるか?」



 2人から熱い視線を送られてやりにくいことこの上ない。けれどもう限界。羞恥心で顔が熱くなるのを感じながらも力を抜く。水音と独特な匂いがすると同時に身体は楽になって、緊張が解けたら眠たくなってきた。ふわっと欠伸をすると水音が止まって、お腹の不快感も消えた。



「たぁ」



 あまりにも眠くて適当に報告すると、また海ねえが私を抱き上げて、風にいがトイレットペーパーで拭いてくれた。けれど何やら違和感。なんか、違くない?


 恐る恐る下を見ると、一気に眠気が吹き飛んで行った。



「ぎゃぁぁぁっ!」



 おぅ! ポークビッツッ!


 私の身体にはあるはずのないものを見つけて絶叫した瞬間、風にいは尻もちをついてひっくり返った。その反動でふらついて便器の中に落ちかけた私を海ねえが支えてくれたおかげで災難を逃れた。



「あぁと」


「どういたしまして。あ、そういえば、風琉は大丈夫?」


「大丈夫だけど、もう少し早く心配してくれても良くない?」


「ごめんごめん。ついね」


「俺だって弟なんだからね?」


「分かってるって。風琉も空琉も、私の可愛い弟だよ」



 海ねえに抱きしめられながら、私は自分の状況をようやく理解した。


 海ねえと風にいの弟。それが私の、いや僕の今のポジションだ。


 何がどうしてそうなったのかは分からないけど、それが分かればなんとなくこれまで感じていた違和感も説明がつく。おさがりが海ねえのものじゃなくて風にいのものだったのは、男の子にはかっこいいものを使わせたい母さんの意思がそのまま表れていたにすぎなかったんだ。


 混乱したままズボンを履かせてもらって、また海ねえに抱きかかえられてリビングに連れ戻された。それからソファに座らされてまた風にいと遊んで、いや、風にいに遊ばれていると少しずつ頭がすっきりしてきた。


 僕。一度そう自称してみるとやけにしっくりきて、少しだけホッとした。成長するにつれて性別の間にあった格差は軽減されていったから、そのあたり僕の中ではかなりボーダーレスな感覚だ。だけど私が高校生、大学生になるまではあまりそういう話題に関して意識されることもなかった。正直なところ、周りに格差的な意識があったことは否めない。


 つまり僕から歩み寄らないと、周りとの温度差が激しくなってしまう。なんて考えたわけだけど、ひとまず僕の心まで男性的になっているなら違和感なく周りに馴染みやすくなる。


 ホッとしながら風にいに頬をいじられていると、ふとカレンダーが視界に入った。月めくりだから正確な日付までは分からないけど、自分がまだ1歳だということは分かった。


 そして、今は8月。絶賛夏休み中だ。そういえば風にいも夏休み帳をやっていたし、半袖を着ている。部屋の中はしっかりクーラーが効いているから涼しくて居心地がいいけど、外には陽炎も見える。



「ん? 外見てるの?」


「ゆら、ゆら」


「ほんとだ。ゆらゆらだね。暑そうだなぁ」



 ゆらゆら、と言いながら僕を膝の上に乗せて揺らす風にいに、そっと身体を預けた。僕が男になった世界でも風にいが中学に上がって僕を避けるようになるならもっと甘えておきたい、なんて思っていることは風にいは知らないだろうけど、腰に回された腕の温かさが嬉しい。



「ふぅに」


「ん-?」


「しゅぅき」


「ほぁ!」



 一度は言ってみたかったことを言ってみただけなのに、風にいは後ろに倒れてしまった。腕を目に当てているポーズがソファで寝ている父さんとそっくりだ。顔は似てないけど、性格とかこういうちょっとしたところはそっくり。


 可愛い顔して性格優しくて包容力があって、その上クール。私が生きた人生の中では風にいはモテモテだった。きっと僕が生きるこの人生でもモテモテになっていくんだろう。愛良と出会うまで恋愛経験皆無だった私には羨ましい限りだ。



「ねえねえ、空琉、もう1回言って!」


「んぅ?」



 起き上がった風にいがキラキラした目で見てくるけど、何を言えば良いのか分からなくて首を傾げる。



「俺のこと、好き?」


「ほぁ……ん! しゅぅき」


「可愛い! 俺も好き! 最高!」



 こんな風にいは初めて見た。キャラ崩壊が著しい。


 けれど、すごく嬉しい。



「ふぅに、しゅぅき!」


「ほぉぁっ! くぅ……俺の弟世界一可愛い」



 またしても崩れ落ちた風にいの姿がプライト、2058年に発売されるプラズマで発光するペンライトを振り回してアイドルを応援する大晴の姿と重なって見えた。好きなものには一直線の愛情を注げる風にいが今は自分に夢中になってくれている。それはかなり嬉しい。



「海ねえ! 空琉が俺のこと好きって言ってくれた。どうしよう、可愛くて泣けてきた」



 風にいが父さんのことを気にしながらもキッチンに向かって叫ぶと、キッチンで鼻歌を歌いながら料理をしていた海ねえの歌も手も止まった。



「へぇ」



 重苦しい声にビクリとして僕の身体は硬くなったけど、風にいは気が付いていないのかそのままキッチンの方に向かっていった。風にい、命の危機だよ。



「そうだ、風琉これちょっと味見して? ヨーグルト入れて辛さの調節はしたはずだから」



 はずって何? はずって。



「うん、いいよ」



 何のためらいもなく差し出されたスプーンを口に入れた風にいはまた崩れ落ちて、同時に床に赤が飛び散った。再放送が早すぎる。



「あれ? まだ辛かったかあ」



 風にいにコップを渡した海ねえは、ニヤリと笑いながらヨーグルトの容器の蓋を開けて、内蓋をベリッと剥がした。


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