第3話 1歳児流の大冒険


 よたよたしながらもキッチンへの潜入を成功させた私は、新たな問題に直面した。


 今の身長じゃ、上まで手が届かない。それどころか見えもしない。


 私の今の身長の倍以上は上にあるガス台を睨みつける。向こうからこっちには来てくれないか。まあ、そんなことでガス台が降りて来ても困るから動かなくていいけれど。


 さて、困った。そういえば父さんが何か作っている途中だったけど、何を作っていたんだろう。


 背伸びをしても当然見えるはずがない。キッチンの上を見る方法が何かないか。


 ふと目に留まった海ねえたちの分厚いマンガ雑誌。あれを積んで椅子まで登れればテーブルに移ってキッチンの天板の上が見える、はず。


 棚の1番下の段に並べられている古い号から順番に引っ張り出す。古いものは定期的に母さんが古本回収に出すから、新しいものを使うよりは早く証拠隠滅できるはず。


 父さんを起こさないように、風にいに気が付かれないように。静かに雑誌を出しては運んで、というより引き摺って、積み上げる。


 雑誌の山は登れないから階段状になるように積み上げた結果、這い上って椅子に座ることに成功した。ちょっと疲れたから一息ついて椅子に凭れかかる。


 この椅子は黄色いクッションだから父さんの椅子で、左隣の青いクッションの椅子が海ねえの椅子。その向かいの赤いクッションが着いているのは風にいで、その隣のピンクが母さん。誕生日席にある形の違う椅子が私の椅子だ。


 けれど、おかしい。私が昔見た写真では海ねえのおさがりの白い椅子を使っていたはずだけど、あの青い椅子は確か、風にいが使っていたものだ。昔、物が捨てられない父さんの代わりに母さんと2人で倉庫の整理をしたときに聞いた記憶がある。


 年子の2人は使う時期が被るものだけそれぞれ専用の物を買ってもらっていたらしい。大体は母さんの趣味で海ねえは白かピンク、風にいは青。遅く生まれた私は、父さんが捨てられずに残していた2人のおさがりを使うことが多かったけれど、壊れていない限りには海ねえのものを使っていたはず。


 人生やり直しかと思ったけれど、何か違和感がある。


 まあ、記憶も曖昧なのに考えたところで答えは出ない。今は料理をすることに集中しよう。


 行儀が悪いとは思いながらも机の上によじ登ってキッチンとの仕切りに手をかけて中を覗き込む。蓋がされているフライパンを見つけて蓋を両手でずらすと、ほとんど完成している麻婆豆腐が入っていた。


 近くに置いてあった赤く染まったお皿とスプーンを引っ張り寄せて、一度身体をテーブルの方に戻す。筋力がないから仕切りに身体を預ける体勢でい続けないといけないせいで、頭に血が上ってクラクラしてきた。



「ふひぃ」



 クラクラするのが収まるのを待ちながらソファの方を見ると父さんはまだ寝ているし、風にいは課題を前に完全にフリーズしている。多分3分ぐらいすればペンが動き出すだろうと思うけれど、意識がこっちに来るまでは時間があるはず。


 もう1回身体を乗り出してさっき作った隙間からスプーンを差し込む。まだとろみがついてないかな。ちょっと掬って味はどうかと食べてみる。



「ぎぇやっ」



 水、水、水!


 慌てて水道の方に身を乗り出して蛇口を持ち上げる。近くに置いてあった新幹線の柄のコップに水を注いで勢いよく流し込む。6回それを繰り返して、何とか口がヒリヒリする程度に収まってきてコップを置いて後ろに寝転がった。


 父さん絶対味覚もおかしくなってる。その証拠に母さんしか食べられないレベルの、普段の父さんならあり得ない辛さの麻婆豆腐を作り出してしまっている。これは体調の悪い父さんだけじゃなくて、海ねえたちも食べられない。



「だぁう」



 とりあえず麻婆豆腐の辛さを何とかして、父さんには胃に優しいものを用意、できるかな。ゆっくり来た道を戻って、疲れたから冷蔵庫まで這って行く。しかしまあ、届かない。どうしようかと腕を組んでいると、突然脇に何かが差し込まれて身体が浮いた。



「あぅっ!」


「空琉、なぁにしてんの?」



 海ねえに抱き上げられてそのまま椅子に座らせられた。私の前にしゃがみ込んだ海ねえの笑顔の圧が怖い。そっと視線を逸らして風にいの方を見ると、海ねえが降りてきたことにも気が付いていない様子でペンを走らせている。



「1人でキッチンは入っちゃダメだよ? って、言っても分かんないよなぁ。あいつめ、見てるって言ったくせに」



 悪態をつきながらもせっかく集中している風にいの邪魔はしないようにしている優しさが滲み出ている。


 さて、私は分からないふりをするべきか、頑張るべきか。


 悩んでいる間に私が積んだ雑誌と、使ったコップとスプーンに気が付いたらしい海ねえの目に困惑の色が浮かぶ。怒られる前に、と静かに椅子から降りて父さんの方に逃げようとしたところをまた後ろから捕まって、片腕で抱っこされる。普通の小学生の腕力じゃないよ。



「空琉、逃げないよ」


「やぁ」


「ヤダくないよ」



 正面から見つめられてどうしようかと思うけど、これを誤魔化す術は私にはない。とはいえ、今しゃべれる範囲で説明するのは無理がある。



「終わったぁ!」



 考えている間に突然向こうで大声が上がった。海ねえと揃って顔を向けると、立ち上がった風にいが天に拳を突き上げているのを見てため息を吐いた海ねえが唇に人差し指を当てた。



「風琉、父さん寝てるから」


「あっ、ごめん。あれ、海ねえいつの間に?」



 コテッと首を傾げた風にいに手招きをした海ねえは、キッチンを親指で指し示すとニコリと大きく唇を引きつらせて笑った。これは口裂け女もびっくりするはず。



「え、ナニコレ」


「空琉がやったみたいなんだよね。風琉、宿題するのは偉いけど、見てるって言ったよね?」


「ごめんなさい」



 風にいは私が作り上げた惨状にあんぐりと口を開けていたけれど、海ねえの拳を見て息を飲んだ。そして素直に頭を下げるとテキパキと雑誌を片付け始めた。なんだか申し訳ない。


 けれどこれでキッチンから離されてしまうと麻婆豆腐も父さんのご飯もどうにもならない。母さんが帰ってくるのを待っても良いけど、できることはやっておきたいのが70年以上キッチンに立ち続けた人間の性と言いますか。



「よぉう、ぐぅ」


「よぉうぐぅ? あ、ヨーグルト欲しいの? 食べたいのかな?」



 風にいが私の意図を半分汲み取ってくれたから頷いておく。食べたいわけじゃないけど、取って欲しいのは事実。麻婆豆腐の辛みを抑えるのに使いたいんだけど、取ってもらえても入れられるかはまた別問題。



「うーん、ご飯前だし……」


「でも、いつもならこの時間に食べさせたら怒られるけど、今日は母さんが帰ってくるまでお預けだろうし良いんじゃない?」


「ん? でも父さんあれ作ってあるよ?」



 海ねえが指さした先にあるフライパンを覗き込んだ風にいは、スプーンを手に取って大きく1口掬い上げた。



「めぇっ! やぁっ!」


「ちょ、空琉! 落ちちゃうよ!」



 私の抵抗も虚しく、風にいの手からスプーンが落ちて金属音が響くと同時に床に赤が飛び散った。首を抑えてもがき苦しむ風にいを見て固まってしまった海ねえの腕をペしぺし叩いて水道を指さす。少しの間のあとに動き出した海ねえがのた打ち回っていた風にいにコップに入れた水を差し出すと、風にいはそれを一気に飲み干した。


 5杯水を飲み干した風にいがヨロヨロと立ち上がる。その唇が赤く腫れていて痛々しい。



「大丈夫?」


「なんとか。これヤバいよ」


「よぉぐ、ぽい!」



 目から生気がなくなった風にいに向かって、フライパンにヨーグルトを入れるように念を込める。手でフライパンを指し示すと、風にいは死んだ顔のまま、ギギギッとフライパンを振り返った。



「ヨーグルトで辛さを緩和させろってことか。空琉は賢いなぁ。まあ、言われたところで、俺は料理できないけど」


「私がやるよ。少しならできるし。父さんと空琉の分も別で何か作らないといけないしね」



 風にいなら意図を読み取ってくれるかもと思ったけど、そういえば大人になっても料理ができなくて喚いてた。料理とかお菓子作りは海ねえの得意分野で、私も母さんと海ねえから教わって料理ができるようになったんだ。


 なんて考えているうちに海ねえの腕から風にいに手渡された私はそのままキッチンから連れ出された。



「だぁう!」


「はぁい。空琉はこっち」


「火を使うからごめんね」



 抵抗虚しくソファまで戻されてしまった。


 頬を膨らませて拗ねているアピールをしていたのに、風にいに空気を抜かれた。しばらくそうして遊んでいると、下腹部に違和感。これは、あれだ。


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