第2話 ちょっと待って


 やけに周りが騒がしくて、ゆっくり寝てもいられない。それが無性に嫌で、更年期のころを最後に忘れたはずのどうしようもない気持ちに襲われた。



「うわーん!」



 ちょっと静かにしてくれないかい、そう言ったつもりだった。けれど耳に響いたのは幼い子どもの泣き声だった。瞼を開ければ視界がぼやけていて、肌に触れるブランケットの感覚は懐かしくて心地いい。



「空琉? 父さん! 空琉泣いてる!」


風琉ふうる、ちょっと見ててあげて! すぐ行くから!」



 ぼんやりした視界の中で揺れる人影。その手が伸ばされると私の身体が浮かび上がった。驚いて声をあげると、また子どもの泣き声が聞こえる。


 これは自分の泣き声である。とりあえず、タイミングと骨に響く声からそう自覚するしかなかった。決して理解はしていないけれど。


 学生のころに流行っていた転生とやらなのか。泣きながらもやけにすっきりした頭で考える。



「よーし、よし。風兄ちゃんだよ。大丈夫だからね、父さんすぐ来るからね」



 ゆらゆらと揺れる温かい身体。少し気持ちが落ち着いて涙も収まってくると視界がはっきりしてきた。そして私の顔を覗き込んだこの腕の主の顔が見えて、固まった。



「あれ? 空琉? 今度は固まっちゃった?」



 グイッと顔を近づけてくるその顔は、見覚えどころではないほど知っている顔だ。


 美咲風琉みさきふうる。私の兄だ。けれど幼い。歳が離れているからアルバムで見た記憶しかないけれど、多分小学生のころの風にいだ。


 もしかして、と仮説を立ててキョロキョロと周りを見てみると、やっぱりここは私が育った実家だ。とするならば、私は転生ではなくて人生のやり直しをすることになった、ということなのか。いや、どうして?



「空琉?」



 私をベッドに降ろしてオロオロしている風にいの顔をじっと見つめると、風にいの瞳に映る私もやっぱり幼い。



「ふぅに」


「そうだよ、風にいだよ!」



 名前を呼んだだけで飛び跳ねて喜ぶ風にい。私が思った通りに話せないのは意識に身体が追い付いていないからだろうか。それにしても、どうしてやり直しなんてことになっているのか。太陽を抱えたまま眠ってから、今に至るまでの記憶が一切ない。



「海ねえ!」


「どうしたの? 風琉」



 海ねえ、ということは。私の前にしゃがみ込んだ顔は、想像した通り。風にいと同じクリクリした目に、サラサラの長い髪。どこをどう見ても美咲海琉みさきかいる、私の姉だ。



「今、空琉が俺のこと呼んでくれたよ!」


「うそ!」


「ほんとだよ! 風にいって!」


「今まで母さんのことしか呼ばなかったのに、すごいね! 空琉、海ねえだよ?」



 これはつまり、母さん以外の名前を初めて呼んで大喜びってイベントか。確かに、初めて呼んでもらえる瞬間って嬉しくて堪らないんだよな。蓮斗のときのことを思い出して感傷に浸っていると、海ねえが肩を落とした。



「ダメかぁ。やっぱり風琉の方が呼びやすいからかな」



 いけない、いけない。これは呼んであげた方が良さそうだ。海ねえを拗ねさせると厄介なことは昔から変わらないこと。



「かぁね」


「ねぇ、今の!」


「金って言った……わけじゃないよ、うん! 多分、いや、絶対海ねえって……痛い! 痛いって! ねぇ、俺ちゃんと認めたよね!?」



 海ねえ、目が怖いし、拳に血管浮き出てたよ。


 私もまともに呼べていなかったと思うし、風にいが言う通り金と言ってしまったと思うよ。まあ海ねえが喜んでいるなら良いか。風にいの肩を叩くバッシバシという音は聞き流す。



「かぁね、ふぅに」


「きゃあ! 空琉可愛い!」


「ぐぇふっ」



 ギュッと抱きしめられたと思ったら、力が強すぎて変な声が出た。海ねえは小学校に入学する前から空手を習っていた。そういえば、このころにはとんでもなく強かったと聞いたことがある。私の記憶がある中で1番古い記憶でも、中学校の全国大会3連覇を果たした強者だった。



「はいはい、海琉、そんなに力を入れたら空琉の骨が折れちゃうからな」


「大丈夫だよ、力加減はしてるって」



 どこかから聞こえた低い声。海ねえは特に気にすることなく力を強めてくる。なんということでしょう、骨が軋む音が聞こえるではありませんか。



「いやいや、空琉も変な声出てたじゃん」



 そう思うなら風にいも止めに入って欲しい。無理だろうけど。



「よいしょ。空琉、大丈夫? 海ねえは強いからねえ」



 キッチンから出て来て私を海ねえの腕から助け出してくれたこの目元がキリッとしたイケメンこそ、私の父、美咲圭人みさきけいと。私は父さんに似たから目は切れ長で、昔は、ああ、今の状況から言うと未来のことかな。中学校を卒業するくらいまでは目つきが怖いと言われ続けて嫌だった。そうだ、初めてそれをかっこいいと言ってくれたのは愛良だった。


 愛良。もしも同じように生きていけばまた会えるかな。約束、したから大丈夫だよね?



「空琉? 熱かな?」



 父さんの少し湿ったひんやりした手がおでこに当てられて熱を測られる。父さんこそ頬が火照っている気がすると思って短い手を伸ばす。ギリギリ触れたのは頬だけだったけど、とても熱い。



「とぅさ、あっち」


「えぇ?」



 そうかなぁ、と頬に触れる父さんの目はあからさまに泳いでいる。これは自覚があったな。



「はい、熱あるみたいだね」


「うん、まさか空琉に呼ばれたことにも反応しないなんて」


「えぇ? あ、そうだ、初めてだ!」



 喜びながら私を抱き上げた父さんが、体調不良を誤魔化すように明るく言う。今思えば手も熱い。



「はい、父さん。それは良いからここに寝て」



 海ねえがポンポンとソファを叩くと、父さんはキョロキョロを辺りを見回す。キッチンの方を見てハッとした顔になると私をソファに降ろした。



「そうだ、夕飯作ってる途中だった」


「はい、熱あるのにキッチンに立ったら母さんに怒られるよ」


「大丈夫だよ、熱なんてないって」



 アハハッと笑う父さんを見て3人で視線を交わすと、風にいが両手で私を抱き上げた。



「海ねえ」


「ラジャー」



 抵抗虚しく、父さんは海ねえの手によって私が座っていたソファに寝かされた、というより沈められた。私を父さんの上に重しのように座らせた風にいは、風のような速さで取ってきた救急箱の中から取り出した体温計を父さんの脇に挟む。ピピッと鳴るまでの間3人でじっと父さんを見ていると、さすがに観念したらしい父さんは重たそうにぐったりとソファに身体を預けた。


 ピピッと鳴った体温計を海ねえが引き抜くと、ジトッとした目で父さんを睨んだ。海ねえが風にいに渡した体温計を私も見ようと前のめりになると、お尻の下で父さんの呻き声が聞えた。



「こんなに熱があれば呻くほど辛くもなるって」


「いや、空琉が動いたからでしょ」



 笑っている海ねえに抱き上げられて膝の上に乗せられる。その間に風にいが体温計の電源を切って仕舞ってしまった。私がまだ見てないのに。



「さてと、母さんが帰ってくるまで父さんは寝かせておくとして、私は洗濯物でも畳もうかな」


「じゃあ俺は……」


「風琉は夏休みの宿題終わってないでしょ。やってきなよ。また明日からサッカーの練習もあるんだから、やらなくなるだろうし」



 グッと言葉に詰まった風にい。風にいはスポーツ万能、だけど勉強は好きじゃないから言われないと最低限もやらないタイプ。海ねえは空手以外は運藤音痴、勉強は好きじゃないけれど最低限はやらないと不味いことは理解しているタイプ。


 海ねえは父さんが眠っていることを確認すると、私の頭を撫でた。



「空琉、ちょっとの間父さんのこと見ててね」


「あい!」


「いい子だ。可愛い」



 海ねえは私の頭をこねくり回すように撫でると、風にいの手をがっしりと掴んで2階に上がって行った。


 私が父さんの顔を覗き込みながらのんびり待っていると、風にいは夏休み帳とペン立てを持って戻ってきた。



「風琉、部屋でやらなくて良いの?」


「こっちでやるよ。父さんのことも空琉のことも俺が見てるから」


「じゃあ、お願い。私、2階で洗濯物畳んで来るから」



 風にいの頭をポンポンと撫でた海ねえは階段を上がっていく。



「よし、空琉。風にい頑張るからな」


「あい!」



 とは言ったものの、どうしようかな。風にいは一度勉強を始めると周りが全く見えなくなる。父さんは寝てるし海ねえは2階。



「りょぉ、しょぉ」



 歩けるのか少し不安だったけど、少しの間ソファに掴まりながら歩いていたらバランスもとれるようになった。これなら移動も問題ないけど、頭が重たい。それに視界も低い。手も小さくてぷにぷにしているからものも掴みにくい。


 さて、これで料理ができるだろうか。


 

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