第13話 靴が……

 ささいなことだった、きっかけになったのは。

「足、いたい」

 和愛が小さな声で哲平に抱きついた。

「足? 転んだか?」

 見てみるがどこがケガしているわけでもない。その時に泊まっていたのはありさのところだった。男の子と走り回ればいつもより疲れる。その疲れかとも思った。

「どれ、見せてごらん?」

 ありさが和愛の体を抱きとった。

「ああ、これは」

「三途さん、なに?」

「靴が合ってないのよ」

「靴?」

「ほら、踝と指先が真っ赤でしょ? 靴がもう小さいんだわ」

「明日にでも買いに行ったらどうだ?」

 池沢に言われて、(そうだな)と思ったがその時に思い出した。出産祝いで割と大きな靴をもらっていた。先々に使えるように、と。

「靴、あるんだ」

「じゃそれ持ってくればいいじゃない」

「俺の……千枝んとこにあるんだ」

「千枝んとこって……自宅?」

「……うん」

 三途に思い切り背中をバン! と叩かれた。

「じゃ、取りに行ってらっしゃい。和愛のためよ。取ってらっしゃい」

 ありさも池沢もそれが哲平にどんなに負担なことかをよく知っている。だから、だめで元々、と思っていた。

「考える」

 次の日は実家に戻った。あれっきりありさも靴のことは言わなかった。


「どうしたの、暗い顔して」

 勝子が心配する。

「なんでもないよ」

 勝子は不安になった。また症状が悪化したのだろうか。彦介にそのことを言うと、哲平を散歩に連れ出してくれた。

「どうした? なにかあったか?」

「……」

「言わないと分からないぞ。それとも言えないことか?」

「靴が……家にあるんだ」

「靴?」

「和愛の」

「ウチにもあるだろう」

「もう小さいんだ。足が痛いって言ってる」

「家にあるって、お前のところか?」

「うん」

 彦介は肩に手を載せた。

「新しいのを買ってもいいんだぞ」

「そう、なんだけど」

 彦介には今、哲平が分岐点にいるのだということが分かった。買いに行こうとしないこと。誰かに取ってきてほしいと言わないこと。これは行くことを躊躇っているからだ。つまり、行きたいのだ。だが行けずにいる……

「どうだ、このまま父ちゃんと取りに行くか」

 哲平の足が止まった。

「このまま?」

「ついでだよ、散歩のついで。お前、鍵を持ってるだろう」

 肌身離さず哲平が持っていることを父は知っている。

「ちょっと足を伸ばそう。いいじゃないか、天気もいい。ついでだよ、散歩のついで」

『ついで』

(そっか……ついでか)

なんとなく心が軽くなる。一人じゃない、父がいる。

「うん」

 電車に乗った。よく聞く駅名を素通りしていく。眩暈が起きそうになる。

「と、ちゃん」

「具合悪いか? ちょっと下りよう」

 顔色が変わっていく息子が心配でならない。

「う、ううん、このまま」

 目的の駅に着く。やっと下りてベンチに座った。

「頑張ったな! 哲平、今日はここまでにして帰ろう」

 それでもいいと彦介は思った。ここまで来ただけでも大きな進歩だ。これ以上はただの負担になるかもしれない。

「もう少し……座っていたい」

「いいとも。お前に任せる。何か飲むか?」

「冷たいお茶」

 父に買ってもらった茶を飲む。


 哲平には分かっていた。これで帰ればいつ来れるか分からない。不安に、怯えに包まれている自分……

(情けねぇ……)

 千枝の声が聞こえたような気がした。

『哲平、待ってるからねぇ!』


 哲平は立ち上がった。釣られるように彦介も立つ。

「俺、改札を出る」

 まるでロボットが挨拶しているかのような哲平の言葉を父は笑わなかった。後ろをついて行く。いつ倒れても掴むつもりで。

 ファーストフードを過ぎる時、哲平は振り返った。

「父ちゃん」

「どうした」

「ここで……待っててくんないか」

「一緒に行かんでいいのか?」

「一人で行ってくる。千枝が……待ってるから」

「そうか。いつでも呼んでいいんだからな」

 彦介は哲平に携帯を見せた。それに頷いて、哲平は我が家に向かった。



 たっぷり2分は眺めただろうか…… マンションの外観だけで震えが来そうだ。

(千枝……今から行くぞ)

意を決してエレベーターに乗ろうとした。

『点検中』

(なんだよ、それ!)

決した『意』が逃げて行きそうになる。

(待て待て、ちょっと待て、これじゃ何のために来たか分からん)

 もう一度、意を決し直して階段を上がった。5階が近づいてきて足が重くなってくる。

(あと二段だって!)

足を叩いて、上り切った。ここで帰ってもいいんじゃないか? と悪魔の囁きが聞こえてくる。

(頑張ったよな……頑張ったか? 今度いつ頑張るんだ?)

 自問自答が続く。ゆっくりだがいくつかの玄関を通り過ぎた。だが後一軒が越せない。

 どうするか決めかねている時にその家の玄関が勢いよく開いた。

(うわぁぁぁあ!)

 声に出なかったのは、腰が抜けそうなほどに驚いたからだ。出てきたのは園部さんという奥さん。

(えらいことになった!)

 この園部さんは、とにかくお喋りだ。どこか壊れてるんじゃないかと思うほどに喋る。哲平でも相手をするのに気合いがいる人だ。だが今の哲平には気合いなど無い。あっという間に渦に巻き込まれた。


「まああああ、宇野さん、お久しぶりですねぇ、どうしてらしたんですか? 奥さんがあんなことになってパタッと音が聞こえなくなったでしょう? そりゃもう近所の皆さんもひどく心配して! 何度かお母さんやお姉さんが掃除にいらしてましたね、あまりお話も伺えなくて残念でしたけどそうですか、お帰りですか! それとももうずっといらしたのかしら? 水臭いわ、言ってくださいな、なんでもお手伝いしますから。今買い物に行くところなんですけどお掃除でもして差し上げましょうか? 今夜は煮魚にするんですよ。後でお持ちしますから。まあまあ、本当にお元気そうでなによりで」

 そこで明らかに息を継いだから、それっ! と割り込んだ。

「園部さん、今日は荷物を取りに来ただけなのですぐまた出ます。いろいろご心配ありがとうございます。またいずれ改めて」

 それだけ言って、急いで鍵を開けて滑り込んだ。もう汗びっしょりだ。


 中に入って顔を洗い、タオルで拭いて水を一杯飲んだ。やっと落ち着いて椅子に座る。

 徐々に笑いがこみ上げてきた。しまいには大笑いだ。

「千枝、ごめん! 園部さんに負けた!」

 こんなつもりじゃなかった。歯を食いしばり、涙を抑えて、『千枝』と心で語りかけて入るはずだった。だが園部さんの剣幕に気圧されてあれだけ躊躇した家に逃げ込んだのだ。これを笑わずにいられようか。

 一人家の中で笑い声をあげる。

「はっはっはっは……」

 立ち上がって箪笥の上の家族写真を手に取った。涙は落ちなかった。

(千枝、ただいま。ごめんな、遅くなった)

何一つ変わっていない。きっと母ちゃんも姉ちゃんたちも、物を動かさないでくれたのだ。

(そうだ、先に靴)

 靴を出しながらちょうど今着れそうなものを出す。部長からのもらい物が多い。

(この積み木、面白そうだ。あ、この本もういいんじゃないか?)

そんなものを引っ張り出す。

 次々と引っ張り出したものを腕組みをして眺めた。

(これ、持ってくより……)

 哲平は靴だけを持って外に出た。


「心配したぞ、大丈夫か?」

 哲平の帰りが遅くて心配でならなかった。

「参ったよ、喋り殺されるとこだった」

 父に事の顛末を話して聞かせる。屈託のない顔……

(園部さん。喋り倒してくださってありがとうございます!)

どんなものにも使い道がある、というものだ。

「それでね、今の和愛にちょうどいいものがいっぱいあったんだよ」

 彦介はふむふむと頷いた。

「だから今夜和愛を連れて帰って来ようと思う。本とか積み木とかさ、部長にもらったもんがずいぶんあるんだ。持ってくより和愛を連れてきた方が早そうだから」

 彦介は目を見開いた。

「ここに戻るのか?」

「うん。俺の拠点だからね。また泊まりに行っていいでしょ?」

「もちろんだとも! そうか、戻るか」

「千枝を……一人ぼっちにしてなにやってたんだろうな。まだ『大丈夫』って言いきれないけど。俺、一人じゃないから。和愛がいるから」


 大きな一歩を踏み出した哲平を、愛しく思う父だった。

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