第11話 希望

 哲平のトレーニングは天気に助けられ順調に進んだ。部長は言っていた通りあの後来ていない。そんな風に金曜日の朝を迎えた。

(二泊三日、二泊三日!)

 気合いが入っている。朝から肩に力が入っている。午後、外泊前の主治医との面談があった。主治医は一目で哲平の興奮を見た。

「宇野さん、興奮していますね。安定剤を出しましょうか」

「いえ! ……すみません、つい」

「それはいいんです。外泊が励みになるのはいいことなんです。私が心配しているのは失速です」

「失速……」

「始めに頑張り過ぎると続かないもんですよ。だからと言って興奮するのを止められるわけじゃない。外泊中に薬を変えられませんからね、頓服の安定剤を怖がらずに飲んでください。薬を飲まないことを頑張っちゃいけない。いいですね?」

「はい」

「しばらく二泊三日。様子を見ながら減らすこともあるかもしれません。私と二人三脚でやっていきましょう。そのためにもこれまで以上に話をしましょう。私に言いにくければ平田さんに」

「はい。ありがとうございます」

「楽しい外泊になるといいですね」

 病院側の助けがある。華と真理恵の助けがある。部長、R&D、宇野本家……たくさんの支えを受け止めたい。

 熱い思いが哲平の心を浸していく。

(俺は……幸せだ。千枝……俺な……今、幸せを感じてるんだ。いいんだよな? 俺が幸せを感じても。千枝と一緒にいた『あの幸せ』とは違う幸せだ。『あの幸せ』は……もう消えたからさ……でも和愛との幸せを……欲しいと思うんだ。いいかな、それでも)

 開け放った窓から風が入る。カーテンが揺れている。そのカーテンが窓際に立っている哲平を包んだ。千枝に……包まれたような気した。

(いいってことか? 千枝……俺……)

 幸せを感じることが裏切りにならないだろうか。千枝との幸せを穢さないだろうか。千枝との『あの幸せ』以上に幸せになったら……それが怖い。幸せになることが怖い。忘れそうで怖い、『あの幸せ』を。


 哲平の中で違う戦いが始まる。『外』と向き合うにはこの戦いを避けては通れない。千枝との、声にならない問答が哲平の喜びを苛なむ。

(分かってる。お前さ、そんな女房じゃないって、俺に幸せになるなって言うやつじゃないって分かってるんだ……でも……『いいよ』って言う声が聞きたいんだよ、千枝……)

 もらえない返事が欲しい。許可が欲しい。千枝の『バカねぇ』という声が聞きたかった。



 病院に華から連絡が入った。4時過ぎだ。平田がそれを伝えに来た。

「宗田さん、これから見えるそうですよ」

「はい!」

 薬をもう一度確かめようとしてやめた。

(何度も確認してるんだ、荷物は大丈夫だ。俺も……大丈夫じゃなくっちゃ)

そう思って打ち消す。間違えそうになる、頑張り方を。

(大丈夫になるんじゃない。違う、……そうだ、楽しむんだ、二泊三日を)

『楽しい外泊になるといいですね』

 そう言われたことを思い出す。


 開いているドアに馴染んだノックが響いた。

「来たよ!」

「とうちゃん!」

 真理恵の手から和愛を引き取り目を合わせた。その見つめてくる瞳に胸が詰まった。


(千枝……いた、千枝だ。千枝が和愛の中にいる……見つけた、千枝を)

和愛の中に生きているのだと素直に思えた。ならば和愛を幸せにすることが答えにならないだろうか。

「和愛とさ」

「なに?」

「生きていけるって思えるよ。生きていきたい、華」

 華には哲平の新しい変化が見えたような気がした。


 助けがあった。医師。華の家族。そして、自分の家族。

 二泊三日を二度ほど続け、次の土曜日本家から母と一知華が来た。

「ごめんください」

「はーい」

 真理恵がぱたぱたと玄関に行く音が聞こえた。

「母ちゃん?」

 和愛を抱いて玄関に出る。

「母ちゃん! いちぇ!」

 ごく自然に受け入れられた。華の言った通り、ここは境界線だ。華の家ではあるが、それは『外の世界への入り口』でもある。

「父ちゃんは?」

「今日は私たちだけ」

「そっか、上がれよ」

「なんだい、自分の家みたいなこと言って」

 普通の会話になっていることが嬉しいらしい。勝子の声が弾んでいる。一知華は少し複雑だ。本当に『我が家』は嫌なのか、と。


 菓子折りを一知華が真理恵に渡す。

「わ、ありがとうございます! みんな喜びます!」

 その一言でよそよそしさが消えた。一知華には新鮮だ。たいがい「こんなに気を遣わないでください」と言われてしまう。まぁ普通の返事なのだが、ストレートに喜んでくれるのは嬉しい。


 和愛を下して、テーブルを哲平が出す。

「哲平さん! これ!」

 布巾を受け取った哲平がテーブルを拭く。ちゃんと日常生活が出来ている。真理恵にお茶を出されて、ほっと一息ついた。

「元気そうだね」

「うん、元気だよ。そうだな……次の外出、本家に行くよ」

 その言葉は哲平からすんなり出た。

「本当かい!?」

「俺さ、準備が必要だったんだ。病院でもない、実家でもない準備。でももういいような気がする」

「そうかい、そうかい。父ちゃんが喜ぶよ」

 涙が落ちそうになる母にテーブルを拭いた布巾を渡してくる。

「なんだい?」

「いや、泣くかと思って」

「バカだねぇ、この子は!」

 それをみんなで笑った。

「先週さ、職場の連中が来たんだよ」

 哲平の様子が知りたい仲間たちが、我慢できないと言ってここに来た。池沢、ありさ、澤田、なぜか浜田。

「久しぶりに大騒ぎしちゃったよ」

 そんなことが出来るようになった…… 一知華がとうとう涙を落した。

「いちぇ、泣くなよ。俺、行くからさ。待たせちゃってごめん」

「いいのよ。ね、宗田さんは?」

「華?」

「今、買い物に行ってくれてるんです」

「あんなにいい男が?」

「母ちゃん! 関係ないだろ、それ」

 どうもあのきれいな男性が買い物だなんて信じられない、と思う勝子。きっとデパートに違いない。

「ただいまー」

「あ、帰ってきた!」

「里芋が安かったよ! あと、ブリ! 大根買ったからブリ大根で……お母さん、いらしてたんですか!」

「この顔で、ブリ……」

 真理恵が笑い転げてしまった。華にはなんのことか分からない。

 挨拶をして、なぜ笑ったのかを話すと華は真っ赤になってしまった。

「好物なんです」

「普通のスーパーなんですか?」

 勝子はどうしても知りたいらしい。

「はい。一つ向こうのスーパーだと安いので」

「安い……」

 そのギャップに真剣に驚いている。

「母ちゃん、いい加減にしろよ。華が困ってるだろ?」

 そこに真理恵が余計なことを言う。

「向こうの方がよく割引してるんです」

「割引…… あんた、偉い! きどってデパートでも行くんだろうとばかり思ってたけど、いや、ホントに偉い! 真理恵さん、いい旦那さんだねぇ」

 真っ赤になっている華以外はみんな笑っていた。



 次の週には華の家から本家に行った。医師にも強く言われている、本人のペースに合わせて、と。だから彦介も夕食の後、華の家に戻るのだと聞き落胆の色を見せないようにした。

「来られただけでも良かった! 宗田さんは?」

「表で下してもらった。久しぶりなんだから家族水入らずでいろって、華が」

「そうか、そうか……いろいろ考えてもらって有難い……」

 華には自分たちの寂しさをちゃんと分かってもらえているのだと、彦介は心で涙した。


 仰々しくしないようにしよう、としばらくは姉妹は2階のまま。居間で親子が茶を啜る。

「なんか久しぶりだなぁ」

「そうだよ、ホントに。あ、和愛が寝そうだね。今布団敷いてやるよ」

 脇の方に布団を広げて和愛を横にする。3人が揃って和愛を見つめる。その目には愛情が溢れていた。そして2人、両親はその視線を哲平に向けた。

(帰ってきたんだねぇ……こんなに元気になって……)

勝子は涙が零れそうになって慌てて立った。

「母ちゃん?」

「洗濯もの干すのを忘れてたよ。ちょっと干してくるね」

「あ、手伝うよ」

「男が」

「いいって、なんなら母ちゃん座ってなよ」

 学生の頃にはこんなことは普通のことだったと、哲平の背中を見送りながら勝子はまた、涙が零れそうになる。

「勝子」

「分かってるよ、分かってるんだよ。でもねぇ、父ちゃん」

 2人の思いは一つだ。あの頃の哲平の姿をこの家の中で見る。一時期はもう諦めていたことだ。


 階段を下りて来る音がした。途中でしゃがんだ二知華が「まだ早い?」と小声で聞いてくる。

「いいよ、もう」

 それを聞いて、一知華、二知華、茉莉が下りてきた。

「あれ? 哲平兄ちゃんは?」

「洗濯もの干すってさ。今洗濯機のところ」

「え、今朝かけたヤツ?」

「そうだよ」

「やだっ、私のブラが入ってるっ」

 茉莉がすっ飛んで行った。離れた場所で大声で言い合っているのが聞こえてくる。


「私のブラ、触らないでっ」

「なに言ってんだ、たいした膨らみでもないのに、ご大層に胸当てつけちゃって」

「兄ちゃんっ」


 二知華がぽつんと呟いた。

「哲平だ」

 一知華の声が続く。

「哲平だね」


 ブラのお陰で茉莉がけたたましく兄に文句を言っている。ただそれだけなのに嬉しくて。

「まったく! いつまで『ブラ』って叫んでんのかしら、茉莉は」

 仕方ないとばかりに二知華が立った。勝子が あ という顔をする。

「なに、母ちゃん」

 一知華に、うっかりした、という顔を見せた。

「二知華のブラジャーも一緒だったよ」

 途端に声が響く。

「哲平! その右手に掴んでるのはなに!?」

「なにって、二知華姉ちゃんのブラ。さすがだな、茉莉の倍はふくらんでる」

 ブラ騒動のお陰でその後の宇野家はもう昔のままだった。哲平が頭を擦りながら電話をかける。二知華からゲンコツをちょうだいしたのだ。


「華? 俺。悪いな、今夜はこっちで過ごすよ」

『分かった。ゆっくり休んで』

「おう。華、ありがとな」

『どういたしまして』

 華は哲平の布団を用意しておかなかった。きっとこうなるだろうと思って。

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