第10話 大きな変化

 哲平には目標が出来た。大きなものじゃない、小さなものだ。2泊3日にいきなり増やすということに、医師は思っていたより難色を示したのだ。

「急に増やすのはどうかと。もうしばらく1泊2日でやっていきませんか?」

「子どもが不安定になると思うんです! たまにしか会わないからわずかの時間しかいない父親が子どもの環境を振り回しているようで。今、3歳になりました。もういろんなことが分かってくる時期なんです。もっとそばにいてやりたいんです!」

「帰ってきたばかりですから、話はまたにしましょう。外泊したばかりだから、今度は病院に対しての気持ちが不安定になっている。これはね、シーソーと同じなんですよ。ちょっとずつ体重をかける位置をずらして、絶妙のバランスを保つ。そこに到達することが目標です。お子さんもですが、肝心のあなたのバランスも大事なんですよ」


 その夜は引き下がった。『大丈夫』をいくら繰り返しても医師はおいそれとは患者の言い分を聞いてくれはしない。

(刑務所みたいだ。……保護観察中ってとこだな)

 その考え方は良くないと分かっているが、足枷を喜んでつける人間がいるわけがない。

(ただ大人しくしてたって駄目だ、何か考えないと)

目標は2泊3日を勝ち取ることだ。自分の不安定さを感じるから医者はいい顔をしない。

(明日からだな)

その夜はぐっすりと眠った。明日からのために。



 次の朝、6時20分に看護師が行くと、すでにベッドの寝具が畳まれていた。

「今日は早起きですね」

「はい。血圧と検温が終わったら、朝食まで外に出てもいいですか?」

「朝食の後はどうですか? 付添いのスタッフも手が空くし」

「グランドでいいんです。そこでちょっと体を動かしたくて」

「待っててください。聞いてみますから」

 看護士も最近の哲平が落ち着いてきているのを知ってはいる。すぐに聞いてくれて許可が出た。

 そうやって、安定した患者が何人もグランドで体を動かしている。


 哲平は昔部長が行っていた『ストレッチ』というのを思い出そうとしていた。

『間違ったストレッチには何の効果もないんだ』

 そう言う部長をよくからかった。

『昨日、腰が痛いって言ってませんでしたっけ?』

 あの頃の自分を取り戻したいと思う。

 ある程度体が温まり、哲平は走り出した。時計が欲しいと思う。仕方ないから歩幅と足の上げ下げのリズムだけを頼りに走る。1歩は1メートルより長い。それを200数えてそこで足踏みをした。ゆっくり速度落とし、ストレッチ。これを5セットだ。

(しばらくはこれでやろう。河野さん、今度いつ来るかな。アドバイスが欲しい)


 嬉しいことに、そう日を置かずに部長が来た。いつもの通り、ビジネスバッグを持っている。

「和愛と楽しい時間を過ごしたんだって?」

「華のヤツ、情報垂れ流しですか」

「そう言うな、あいつだってよほど嬉しかったんだろう」

 そう言う部長自身がとても嬉しそうに見えて、有難いと思った。


「実は教えてほしいことがあるんですよ。朝ジョギングを始めたんですが、ストレッチとか知りたくて」

「お前、俺のことバカにしていたクセに」

「謝りますって。ね、いいでしょ?」

 部長はこういう時、その真剣さをとんでもなく発揮させる。

「いや、陸上やろうってわけじゃないから」

「ストレッチは基本だ。筋肉の動きを確かめながら話しかけるんだ」

「話しかける?」

「そうだ。今日はこれくらい走るぞ、気合い充分か? ってな」

「そんなのぶつぶつ言ってたら個室に追いやられっちまいますよ」

 ふっと部長が顔を向けた。

「一緒に走るか」

「え? 一緒?」

「そうしよう! 今度から着替えを持ってくるよ。一緒にグランドを走ろう!」

 そしてあっという間にその計画は決まってしまった。部長は看護師を通じて主治医にその許可をもらうと、「早速だが明日来るから」と帰って行った。

 その夜。ベッドで何となく嬉しくて天井を眺めていた。

(結局誰も俺を放り出したりしないんだな)

 迷惑をかけている、そう思うのを止めようと思った。今は助けてほしい、最愛の娘と共に暮らせる日のために。

  


 部長は約束通りに来てくれて、さっさとトレーニングウェアに着替えた。

「お前の分も持ってきた。靴は昨日の帰りに宇野さんのお宅でもらってきたから」

 泣きそうになる。それを堪えてウェアに着替え、運動靴を履いた。

「うわ…… ズボン、なげぇ……」

「裾、折り曲げればいいじゃないか」

「すっごい屈辱……」

「しょうがない、俺の方が足が長いんだから」

 言い返すのを止める。言えば言うほど敗北感が募るだけだ。


 ストレッチは20分間、みっちりとやらされた。走るペースは合わせてくれた。インターバルもきちんと取ってくれる。結構広いグランドを一周するとスポーツドリンクとタオルを置いていたベンチに戻る。

 スポーツドリンクを飲んでいると、驚いたことに部長が足をマッサージしてくれた。

「い、いいですよ、そんなに疲れてないし」

「いや、必要なことだ。結構走ってたんだな、筋肉が思ったより柔らかい」

「朝、走ってますから。ホント、いいですよ」

「もうちょっとな。こうやって足を大事にしてやれ」

「……はい」

 こみ上げてくるものがある。ここまで自分と向き合ってくれる人が上司だ。

「俺、早く職場に」

「そんなこと、今は考えなくていい。一つずつだ。自分をコントロールする。和愛と普通に暮らせるようにする。それでいい、欲張るな」

「はい……」

 我慢していたのにとうとう雫が落ちる。

 隣に部長が座った。

「いいか、焦るな。もし職場復帰してくれるのなら心も体も万全の体制になってからだ。それまでは忘れろ」

「でも俺、こんなに迷惑」

「哲平…… ここまで回復してくれるとは思っていなかったんだよ、俺は。でもな、急すぎる。良くなるペースが、だ。きっとその反動も来る。今の勢いで決めるな。それは後でお前を苦しめることになる。戻ってくれるなら待ってるから。いくらでも待つ。でも俺に遠慮して戻るんなら願い下げだ。働くお前より、お前自身の方が俺には大事なんだ」

 言葉が出ない。だから何度も頷いた。


 それからさらに2周 してジョギングは終わった。

「今日のジョギングをベースにしろ。少しの間、来れないかもしれない。ペースを上げるなよ。足に相談するんだ、上げてもいいか? ってな」

 部長は帰る間際までアドバイスをくれた。

「そのウェア、置いていくから。裾を折り曲げて使ってろ」

「何度も言わなくたっていいですから!」

 部長はにやっと笑ったまま帰って行った。けれどそのやり取りのお陰で、それほど申し訳ないと思わずに済んだ。

(これも……河野部長、ちゃんと考えてくれたんですね)


 栗原医師はそんな様子を考慮してくれたのだろう。

「頑張ってますね。いや、頑張り過ぎはよくないんですが、目標を持ったことがいい結果を生んでいます。いいですよ、金曜の夜から2泊3日。しばらくこれで進めてみましょう。でも必ず、とは言えません。まだ波があるかもしれない。そこは分かってください」

 自分で勝ち得た2泊3日。これが哲平の大きな原動力になっていく。



 華は迎えに来て驚いた。

「哲平さん、なんかすっきりしてる! ダイエットした?」

「ああ、ジョギングの成果だろうな」

「ジョギングなんてしてんの?」

「河野さんに指導を受けたよ。言ってなかったか?」

「なにも聞いてないよ」

「……そういう人なんだよな」

 和愛を抱いた後部座席で哲平はぽつりぽつりと部長とのやり取りを話した。 

「そうだったんだ…… 部長さ、足ひきずってたんだよ」

「え、ジョギングのせい?」

「違う、違う。その前の日にさ、廊下の角で前見て歩いてなかったやつがいてさ、そいつが部長にもろぶつかったの。そのせいで湿布貼って仕事してたんだけど。あ、今日は普通に歩いてたよ」

『お前自身の方が俺には大事なんだ』

 あの言葉を思い出す。また涙が流れた。

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