第9話 外へ ―3
真理恵はチキンカレーライスにするつもりだった。だが刺激物がダメだと聞きクリームシチューに変更。サラダと鶏肉のバジル焼きにする。
「いい匂いだな!」
振り向くと、いつの間に起きたのか、哲平が和愛を抱っこして立っていた。
「おはよ! あら和愛ちゃんも起きたのね」
「和愛に起こされたんだ。な、お腹が空いたんだよな」
その声がひどく優しくて、真理恵まで華のように胸に迫るものを感じた。
哲平は和愛が愛しくて愛しくて堪らない。10人の子どもの夢は叶わないが、10人分でも20人分でも愛せるような気がする。
(どうして病院に戻ろうなんて思ったんだろう)
眠る前の切迫感が消えていた。もう病院になど戻りたくない。
夕食は賑やかだった。哲平が和愛、華が華音、真理恵が華月に食事をさせる。華音はえらく我がままで華は手を焼いていた。
「それは華くんが悪いんだよ。甘やかし過ぎたんだから」
「そう言っても、あ、華音ちゃん、そのお手々拭きましょうね」
哲平が声を上げて笑う。今までにないような笑い声で、和愛がびっくりしている。
「ごめんごめん、驚いたか?」
「とうちゃん」
「うん?」
「抱っこ」
ベトベトの両手を哲平に伸ばしてくる。すかさず真理恵が和愛の手を濡れタオルで拭いた。
「悪いな、真理恵」
「いいのよ、華月もべったべた!」
ちょっとの間、和愛を抱っこして下ろす。子どもたちを脇で好きなように遊ばせた。
膝に乗せて食事しようとして真理恵に怒られたのだ。
「食事中に膝に乗せる悪い癖をつけちゃいけません」
「ウチの母ちゃんより厳しいや」
華は『家にはいつ戻る?』と聞きそうになって我慢した。宇野の家ではみんなが待っていることを知っている。けれどまだ早すぎる。まだ外泊一日目だ、そんな言葉を聞いたら哲平がパニックを起こしそうな気がした。
そして次のことが心配になる。
(病院に行きたくないって言ったらどうしよう)
二人の様子を見ていたら、自分のすること……父子を引き離すという残酷な役目を果たすことが重苦しくなってくる。
まるで華の苦しい心が聞こえたように真理恵が声を出した。
「昼間、あんなに寝ちゃって夜は眠れそう?」
「薬があるから。だからいいんだけど、夜中に和愛がぐずったらどうしようかと思って」
「そうだなぁ。和愛ちゃんは手のかかる子じゃないけど、父ちゃんと一緒で興奮してるかもしれないね。もし哲平さんが起きれなかったら私がいるから大丈夫だよ」
「悪いな、申し訳ない」
「やだぁ、哲平さんはもっと図々しい人なんだからね」
哲平が苦笑する。
部屋で絵本を読んでやった。和愛は胡坐の中で聞き入っている。
「もっと」
何度でも要求されるから、何度でも読んでやった。そのどれもが初めて読むような気持ちだ。分かるわけがないだろうに、読む合間合間に、主人公がどういう気持ちなのか、とか、周りの風景をもっと脚色して読む。
その内、くるっと哲平の胡坐の中で方向転換をした和愛は、むっちりとした両手を首に回して「とうちゃん」と言い肩に頭を預けた。
「どうした?」
「おんも」
「おんも? お散歩か?」
もう今は5月半ば。哲平は窓を開けて縁側から外に出た。残念ながら月はない。だが暑くも寒くもなくて外にいるには持ってこいだ。
外に出ていろんな話をしてやる。
「今度ディズニーランドに行こうな。そうだ、夏は海に行くか? 山は虫がいっぱいだもんな。スイカも一緒に食べよう」
哲平の喋り方がいいのか、声がいいのか。和愛の可愛い口が大きく開く。
「おねむか? 父ちゃんと一緒に寝ような」
中に入るとお盆に水差しとコップがあって上からふきんがかかっていた。多分真理恵が来たのだろう。
軽く外に出たことで哲平の気持ちも穏やかだった。和愛を寝せて薬を飲む。哲平の寝顔には小さな笑みが浮かんでいた。
朝はすんなりと目が覚めたが、隣を見て和愛の姿が見えずがばりと起き上がった。
「和愛、和愛っ」
ぱーん、と襖を開ける。ちょうど真理恵が和愛を連れてくるところで、哲平の剣幕に驚いた。
「ごめんなさい、お腹空いたみたいだから朝ごはん食べてたの。よく寝てたから」
相手が真理恵なのにまるで引っ手繰るように和愛を取り上げてしっかりと抱いた。腕の中に和愛を感じて、やっと哲平はほっとしたようだ。
「ごめん、真理恵、焦ったんだ」
「ううん、ちゃんと起こせば良かった。ごめんなさい」
真理恵にもよく伝わった。まだまだ哲平は不安定だと。
「華は?」
「向こう。子ども部屋でね、華月と華音と格闘してるの」
「格闘?」
「行ってみて。面白いから」
行ってみると、本当に格闘だ。華音は勝手におじやの中にスプーンを突っ込んで、だらだらと垂れ流しながら食べている。一方華月はパンツを持って追いかける華から逃げるのが面白いらしく、けらけらと笑って逃げていく。
「華音ちゃん、食べるの待ちなさい。華月! こら、逃げるな! ちんちんが風邪ひくぞ!」
哲平がくすっと笑った。
「和愛はお利巧さんだな。一番いい子だ。華、頑張れ!」
「ちょ、哲平さん、手伝ってよ!」
「さっさと追いかけろ、ちんちん風邪ひくぞ。はっはっはっはっ」
朝からいいものを見た、とばかりに哲平の気分が高揚した。
「哲平さん、食事の支度出来てるよ」
「俺が最後か? 悪かったな、すっかり寝坊した」
「ううん、華くんがまだ。哲平さんと食べるんだって。でも」
「手伝ってやれよ。和愛に食べさせてたから華は一人で頑張ってるんだろ?」
真理恵の笑顔が温かかった。宇野の家に行っていたらこんな気持ちになれただろうか。
(父ちゃん、母ちゃん、ごめん)
だが今はどうにもならない。それが自分でも歯がゆい。
ようやく落ち着いた華と朝食になった。
「美味いな、味噌汁!」
「哲平さんって好き嫌い無いよね」
「無いよ。勿体ないだろ、なんでも食わなくっちゃ」
「そうだけど」
と言いながら"おから"に入っている白滝を器用に避けている華。哲平は呆れたように、その弾かれた白滝をさらって食べた。
「ありがとう! 残すと怒るんだよ、マリエが」
「そりゃそうだ、こんなの避けるのお前くらいだ」
だが、こんな朝食の時間が嬉しい。一人で病室で食べる食事は侘しい。
「華、……今日な、病院に」
「帰り、時間いっぱい和愛といなよ。そして今度は金曜の夜に迎えに行くから。そしたら2泊3日じゃん? しばらくそれでやろうよ」
哲平にだって分かっている。これじゃ華を困らせるだけだと。自分のためにあの手この手と尽くしてくれる華に申し訳ない。茶碗と箸を置いて頭を下げた。
「華。ありがとう。お前がいるから夕べ和愛と寝ることが出来た。お前のお陰だ」
「やだなぁ! ほら、哲平さんって器用じゃん? 早く治ってもらって縁側を直してもらわなくっちゃならないからさ」
また茶碗と箸を持つ。冗談ごとにしてくれる華が有難い。
「縁側、どうしたんだ?」
「端っこの方、腐っちゃってるみたいなんだよね、土台が。だから修理したいんだけど」
「約束するよ。俺がしっかり直してやる」
「うん。お願い」
天気がいいから午後は外へ散歩に。ずっと病院生活だった哲平の世界に、少しずつ『外』がはいりこんでいく。
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