第9話 外へ ―2
和愛は人見知りをしない。だから真理恵に抱かれて ”じぃ” と” ばぁ” に「ばいばい」が出来た。
三人が出て行った玄関で、泣きそうになる勝子を労わるように彦介は肩を抱いた。
「勝子。帰ってくるんだから。きっといつか哲平も和愛も揃ってこの家に帰る日が来るから」
子ども部屋で華月と華音が遊んでいる。茅平の母、時恵がその面倒を見てくれていた。和愛を見てすぐに立ってくる。
「分かっていただけたのね?」
「うん。辛かったと思う。でも哲平さんのためにって」
「そう……」
茅平の家でも哲平のことは分かってくれている。
「母さん、ありがとう! 明日のことだけど」
「大丈夫。朝から来るから。安心して和愛ちゃんと哲平さんを迎えに行って」
「ありがとう、お義母さん。助かります」
「やぁねぇ、華ちゃん。他人行儀よ」
そう華の肩を叩いて、時恵は帰り支度を始めた。
「そうそう! 明日のために子どもたちのおかずをいくつか冷蔵庫に用意しておいたから。それから華ちゃんにはキンピラを。レンコンだけどね」
「わ! ありがとう! すぐ食べる!」
「ま! キンピラならすぐ食いつくのね」
笑い声を残しながら時恵は帰って行った。
「そろそろ子どもたちを寝かせようか」
もうすぐ9時になる。真理恵と一緒に子どもたちの寝る支度をした。
(明日は哲平さんと和愛が寝るんだ)
庭に面した部屋。そこに二人で寝てもらう。
「哲平さん…… 来てくれるよな」
「大丈夫! きっと和愛ちゃんと一緒に病院を出てくれるよ」
自分が抱く、というより真理恵に抱かれるようにして華は眠った。
朝から哲平はそわそわしていた。体温も血圧も正常だ。持ち帰る薬も何度も確認した。預かった病院のケースワーカーの電話番号ももう一度見る。携帯電話を使う許可は出ていない。だからこれは華に預けなくちゃならない。
「宇野さん、大丈夫ですよ。いつもより順調に進んでるじゃないですか。ちゃんと着替えて持ち物もチェックできているんですから」
そう看護師が励ましてくれた。
(こんな状態で…… 俺はこの先和愛と生きていけるんだろうか。このまま父ちゃんと母ちゃんに任せた方が和愛のためにも)
その思いを中断された。
「おはよ! 来たよ、哲平さん!」
ちょっとした怯えが顔に出たらしい。華の足がそこ止まった。だが声がした。
「とうちゃん!」
「かずえ…… 和愛!」
抱いている真理恵からそっと和愛を抱き上げる。
「こら、叩くな。手がびちょびちょじゃないか」
よだれまみれの和愛の手だ。なかなか指しゃぶりを止められないのだ。それがまるで両親を恋しがっているように見えて、華は涙が出そうになる。
哲平がその小さな濡れた指をぱくっと口に含んだ。
(哲平さん、ちゃんとお父さんじゃないか!)
それほど嬉しかった、その行動が。
「マリエ、哲平さんの顔を拭いてやって。全くもう、親子で舐め合うつもり?」
哲平の手が塞がっているから真理恵がタオルを濡らして哲平の顔と和愛の手を拭いた。
「すまん」
「いいえぇ、どういたしましてぇ」
のほほんとした真理恵の返事が良かったようだ。片手抱っこにすると哲平はバッグを持ち上げた。
「いいよ、俺が持つから」
「あ、これ、ケースワーカーの電話番号」
「了解。聞いてるよ、哲平さんが助けが欲しくなった時に電話すればいいんだよね?」
「変な話だが……ホームシックじゃなくって、 ホスピタルシックってのがあるんだってな。それになったら」
「電話ってことだね。何時でもいいって聞いてる。だからいつでも言って。夜中でもなんでも」
「悪いな、だらしなくって」
「なに言ってんのさ! 『初めてのお出かけ』ってのでしょ? 気負わない、気負わない!」
病院の玄関では院長も見送りのために待っていてくれた。
「取り合えず一泊だね。無理しなくていいから。行ってらっしゃい!」
「行ってきます」
(病院に『行ってきます』なんて…… そんな寂しいこと、言わなくて済むようになろうね、哲平さん)
リハビリは始まったばかりだ。今日が外出トレーニングの始まりだ。
「久しぶりだな、車に乗るなんて!」
華は下唇を噛んだ。真理恵が返事をする。
「少し窓を開けてみたらどうかな」
するっと窓が下りると風が哲平の顔に当たった。
「うわ、こんなだったっけ」
(そんなに時が経ったわけでもないのに)
辛くてたまらない。華は頬を払った。
「ね! ちょっとファミレスでも寄ってく?」
「……それ、どうかな」
途端に哲平の声から勢いが落ちていく。
「自信、無い?」
「……」
「コーヒーでも飲んで一息つくとかさ」
「コーヒーとか刺激物、飲んじゃダメなんだよ」
「そっか……」
「もうちょっと外の雰囲気に慣れてからにするよ」
また真理恵が引き取った。
「そうだね。いっぺんに無理しなくってもいいよ、ね、華くん。しばらくはウチと行ったり来たり。哲平さんの気が向いたら言ってね」
「悪い。ありがとう」
「悪くなんかないって。俺が焦ったの。ごめん!」
努めて明るく言う。
(今からこんなじゃだめだ)
そう思い、気を引き締めた。その腕を真理恵が撫でる。ちょっと肩の力が抜けた。
家に着く。そこでまた哲平の「久しぶりだ」が出る。
「ようこそ、我が家へ!」
手ですいっと玄関の中へと哲平を促した。和愛は車の揺れもあってか、哲平の胸にもたれてぐっすり眠っている。その小さな手が、哲平のシャツを掴んでいた。また、鼻の奥がツンとする。
「おう、お邪魔する」
時恵が奥から出て来た。
「お帰りなさい。哲平さん、いらっしゃい」
「お邪魔します」
普通のやり取りだ。ただそれだけなのに、哲平は嬉しかった。自然に言えた。
華が聞く。
「ね、何なら飲めるかな」
「リンゴジュースあるよ」
華と真理恵が同時に言う。それを聞いて哲平の唇がわずかに震えた。
(俺たちも……よく声が被ったよな、千枝……)
「じゃ、それもらうよ」
哲平も努めて明るく答えた。
「あらあら、硬くなってるの? それじゃ疲れちゃうわよ。のんびりなさい。じゃ、華ちゃん、真理恵、私は帰るから」
「あ、お茶」
「いいの。このまま夕食の買い物していくから。お父さんったらこの頃好き嫌いばかり言って。真理恵も今度怒ってちょうだい」
(夫婦……俺はこれからたくさんの夫婦を見ていくんだ。……これもリハビリか)
そんな些細なことが辛い。いや、哲平にとってそれは『些細』なことではないのだ。
時恵が帰って、リンゴジュースを飲み干した。
「ちょっと疲れたよ。横になっても構わないか?」
「あ、待って、支度するから」
「すまん」
「いいって。今回はお客様にしてあげるよ。次からは自分でやって」
「分かった」
華は布団を敷くために哲平用の部屋に入った。押入れを開けて布団を掴んで。そこでその布団に頭をつけた。
(俺がしかりしなきゃ。今日はリハビリの入り口なんだ、次を怖がらないようにしないと)
勢いよく布団を持ち上げて用意をした。
「お待たせ。和愛とのんびりしてよ。布団、一つで良かったよね?」
哲平が嬉しそうな顔をした。
「そうか、和愛と一緒に寝れるんだよな!」
「そうそう。眠かったら寝ちゃえば?」
「そうする」
さっきはもうケースワーカーに電話してもらおうかと思った。けれど和愛を抱いて布団に座るとその気持ちをもう忘れていた。
そっと布団におろして、その横で体を伸ばす。
(病院のベッドと違う)
隣を見た。和愛がいる。少し自分の方に傾けている寝顔を見ながら哲平はいつの間にか眠っていた。
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