第9話 外へ ―1
哲平の実家への外泊は順調にはいかなかった。一日度目は怖くなって土壇場で『帰りたくない』と言い出した。
「まだ用意が出来てなかったようですね。無理はやめましょう」
それでさらにもう一度流れた。
今日はだいぶ昔に納品した開発の仕様書を持ってきたジェイ。
『見舞いがそれ?』
『だってもう思いつかないんだもん』
笑われながら持ってきたが、哲平は熱心に読んでいた。
「哲平さん、怖いの?」
ジェイの言葉で顔を上げる。
「何が?」
「帰るってこと。お父さんとお母さんのところ」
「怖いって…… 別に俺は」
「いいことなんだと思う。帰るか帰らないか迷えるってこと。ずっと帰れなかったでしょう? 良かったね、考えられるようになって」
「ジェイ……」
「まだ迷子になってるんだもん。帰り方が分かったらきっと帰れるよ」
ジェイが帰ってから考えた。
(俺は…… 贅沢だな。お前は安心して帰れる場所が無かった時があった。そうか、俺は選べるんだよな……)
翌日の2時過ぎ、相変わらずのリズムをドアが響かせた。
「ちはっ!」
「華!」
今日は木曜日。忙しいはずなのに華は仕事を抜け出してきたのだ。
「お前、仕事」
「大丈夫、20分ほどで帰るよ。ね、明日夜、迎えに来るよ! どう?」
「お前が?」
「そ、俺が。で、俺んち行こう!」
「華の、家」
「そうそう。初夜は俺と過ごそうよ」
「バカ言ってる!」
「いいじゃん、ちょっと俺んとこで慣れれば。緊張してんでしょ? しばらく世捨て人やってたら人見知りになっちゃって、このぉ。哲平ちゃんって可愛い! ……きもちわるい」
「お前が言うな!」
「ってことで、明日夕方迎えに来る。いい? すっぽかしは無し!」
両親、姉妹に囲まれることに怖気づいていた。きっとあれこれ聞かれる、言われる、返事を求められる。そのやり取りに自信が無い。和愛と一緒にいたいのに相反する気持ちに揺れている。
そのことを華に細々とした声で言った。
「簡単な話じゃん! 俺んとこに和愛連れてくればいいんじゃないの? あのさ、何が大切って、哲平さんがここから外に出ることだって思うんだよ。余計な話したくないの分かるし、家族だからこそそういう会話増えると思う。その点和愛だけならなにも言わない。だから哲平さんも気が楽だと思う」
「でも…… 宇野でなんて言うか」
「哲平さんの十八番、言わせてもらう。『任せろ』って! 言ったでしょ、哲平さんのためならなんでもやるって。心配ばっかりしてると脳が枯れるよ。今日はゆっくり寝ること!」
哲平の不安な顔が華の胸に突き刺さった。哲平から溢れるほどにあった『自信』が枯渇しているのだ。きっとそれを再生できるのは和愛だろうと思う。だが果たして宇野の本家でいいと言ってくれるかどうか。
(マリエも一緒に連れて行こう。和愛を責任もって預かるんだ、ちゃんとご挨拶しないと)
オフィスに戻ってからは口も利かず猛スピードで仕事を片付けていく。澤田が寄ってきた。
「なにサボってたんだよ」
「うるさい」
「トイレにしちゃ長かったよな」
「便秘で下痢」
「澤田! お前のデータが遅れてるぞ!」
部長の厳しい声で空気が震えそうだ。
「いけねっ、すぐ送ります!」
部長がそばにきた。
「すみません、助かりました」
「哲平が絡んでるんだろ? そうじゃなきゃお前が仕事を抜け出すわけがない」
部長に腕を引っ張り上げられた。
「仕事、」
「休憩も取らずに業務をするのは管理者として見過ごせん」
「今さら」
「いいから来い。澤田、データ送る前に三度中身をチェックしておくこと!」
「そんなぁ……」
4階に連れていかれて緑茶を買ってもらった。
「お前には美味くないだろうが他のもんよりマシだろう」
「ありがとうございます」
熱い茶を何口か飲んだ。ほっとする。そう言えば1時間ほど前になにか飲みたいと思ったがそのまま忘れていた。
「それでどうしたんだ?」
部長は今週病院に行く時間が取れなかった。華は哲平の状況を話した。
「怖がってんです、聞かれたり喋んなくちゃいけないってこと。そういう意味じゃまだ早いんだ」
「そうか…… 華、お前のところに泊めてもらえるのは有り難い。俺からも頼む、そうしてやってくれないか」
部長は背中を伸ばして頭を下げた。華は慌てた。
「そんな、俺が言いだしたことだし」
「適任っていうヤツがある。今の状況の哲平を受け入れられるのはお前のところしかないと思う。あいつもお前のところなら安心するだろう。真理恵さんには申し訳ないが、俺も改めて挨拶に行くから」
「いいって! ウチはなんでもOKですよ!」
「そんなわけにはいかない。きちんとお願いに行く。もちろん、宇野のお宅にも伺うよ。俺はあいつに最善のことをしてやりたい」
切ない思いがする。戻ってきてほしいと一番望んでいるのは部長だ。けれど部長は『自分の好きな通りに生きろ。仕事なんて拘る必要ない』と言ったと聞いた。
(どんな思いだったの? 帰って来い、そう言いたいだろうに)
「さ、仕事するぞ。お前今日はあと何が残ってるんだ?」
「石尾んとこの事前プレゼンやります」
「それは俺がやる。他には?」
「広岡さんから回ってきた秀英企画の情報をまとめます。結構めんどくさいとこで」
「俺に資料全部投げろ。やっとく」
「でも」
「ジェイもいる。こっちは困らん。宇野さんのところに話に行かなくちゃなんないだろう? 遅い時間じゃ申し訳ない、行って来い」
「……ありがとうございます。甘えます」
「俺はお前を甘やかしているんじゃない。部下のストレスを減らすのも俺の仕事だ」
華は笑った。
「天邪鬼!」
「お前に言われたくない」
この業務指示でとばっちりを食ったのは石尾たちだ。事前プレゼンが部長になってしまった。
あとを全部部長に託して、華は真理恵に電話をかけた。
「勝手に決めたけどいいかな?」
『もちろんだよ、いいに決まってるよ! すぐ支度する! 一緒に宇野さんにお願いしようね』
「頼む」
『やだなぁ、華くん。それって他人行儀だよ。好きじゃないな、そういうの』
「……分かった! 日曜の夜、たっぷりマリエを愛したい。何度でも満足させてあげるから」
『……やだぁ、華くんのえっちぃ!』
真理恵に笑って電話を切られたが、結構華は真剣にそう思っている。
(たまには真理恵がくたくたになるまでしたい!)
「ごめんください」
夫婦で揃って行ったことで、かなり緊張した空気が宇野家に漂った。哲平の両親だけじゃない、姉の
「すみません、夜分に」
仕事が終わってからいったん家に戻ってスーツを取り換えて来た。真理恵もきちんとした服装をしている。
「いえ。哲平のことですから」
父の彦介が言葉少なに答える。
「この家には、今時間というものが無いんですよ」
母の勝子も言葉が少ない。哲平が拒んでいることが苦しい。
「で、どんなご用件でしょう」
華は座布団を避けた。真理恵もそれに倣う。
「和愛を、和愛ちゃんを週末お預かりしたいとお願いに伺いました」
手をついて頭を下げた。
「私からもお願いします」
真理恵も手を突く。だが顔はまっすぐに彦介と勝子を見ていた。
華が手をそのままに顔を上げる。
「それはどういう……」
勝子が言おうとして彦介に止められた。
「話を聞かせてください」
「はい」
華は稽古の時のようにきちんと膝に手を置いた。
「哲平さんはこの家に帰れずにいます」
勝子が下を向いた。
「辛いんだと思います。帰りたくないんじゃない、帰れないんです。俺も何度も哲平さんと話をしました。どう…… 家族と会話をしていいのか分からないと言っていました」
一知華の目に怒りが宿る。
「でも私たちが家族です。宗田さんには本当にお世話になっています。けど」
「待ちなさい、一知華」
また彦介が止める。だが一知華は止まらない。
「私たちは哲平の身内です。なにも追い詰めるようなことをする気はないです!」
「分かっています。哲平さんもです。でも、現状のこと、先のことを抜きで哲平さんと穏やかな会話を続けられますか?」
一知華も本気だが、華も引く気はない。
「哲平さんにはまだ用意が出来ていないんです。見舞いで話すのとは訳が違う。日常の会話で千枝さんのこと、和愛のこれからのこと、哲平さんが自分から言えずにいることに黙っていること、耐えられますか? 哲平さんも耐える、ご家族も耐える、そこに道が開けますか?」
「失礼ですっ、そこまで言われる筋合いは」
「一知華!」
勝子だった。
「一知華…… 苦しいのは…… 苦しいのは哲平だよ。私たちも苦しいし辛いけど…… 哲平なんだよ、あそこから出たいのに出られない。和愛と過ごしたいのに過ごせない…… その…… 原因がこの家だというなら……」
「母ちゃんっ!」
入り口が開いて「こんばんは」と、莉々が入ってきた。
「ごめんなさい、遅れて」
父が呼んだのだ、大事な話のために華が来るからと。
「一人なのかい?」
「ええ、まぁくんは分かってくれてるし。兄ちゃんのことなら私たちが話さないと」
華はきちんと莉々に向かい合った。普段行き来をしているからと、そういう間柄に馴れ合った話にしたくない。
「和愛ちゃんを週末預かりたいとお願いしに来ました。哲平さんはここには帰れずにいるから」
はっきりと言い切った。一知華がぎゅっと拳に力を入れる。
「そう…… 兄と話したんですね?」
「はい」
そこまで黙っていた真理恵が口を開いた。
「我が家はいい境にあるのだと思います。ご実家と病院の。だから構えずに済むんじゃないのかなと。主人が言った通り、哲平さんには準備が出来てないと思います。でも、このままではいつ準備が出来るのか分かりません。時間が経つにつれ、きっと哲平さんの気持ちが萎えていくと思うんです。だから準備を私たちの家でしたらどうかと思いました。そこにご実家からもいらしたらどうでしょうか」
「哲平さん、和愛ちゃんを取り上げようとか、そういう気持ちは全くないんです。真理恵の言う境目になれます。宗田で一つに溶け合ったらどうでしょう。そしてこの家に哲平さんが戻る。生まれ育った『我が家』に」
一知華がぽたっと涙を落した。
「安心してお任せできるとしたら、華くんの家だと思うよ。私はそうした方がいいと思う」
莉々だ。華は宇野家でそれが見えるのは莉々なのだと思う。
彦介が座布団を下りた。
「和愛をお願いします。哲平を…… 頼みます」
「父ちゃん!」
勝子も座布団を下りている。
「一知華…… 母ちゃんだって一知華と同じ気持ちだよ。どうして家なのに。哲平の家なのに帰ってこれないのかって思う。でもね、哲平は千枝ちゃんと暮らしていた自宅に入れない、そう言ったよ。それに近いもんがあるんじゃないかねぇ…… ここで…… 千枝ちゃんはたくさん笑ってくれたから…… 母ちゃんはそう思うよ」
莉々が座布団を下り、手をついた。
「お願いします! 兄と、姪っ子を。大事な家族だから…… そして華くんの家も家族を大切にする家だから。だから……」
涙する莉々。一知華が昂然と顔を上げた。
「宗田さん。生まれた時から弟はこの家の宝です。宝の生んだ宝物が和愛です。でも千枝ちゃんの心を思ったら」
座布団を後ろに置いた。
「宗田さんに預けてください、という声が聞こえたような気がします。弟家族をよろしくお願いします」
一知華はしっかりと華の目を見て口を閉じた。華ははっきりと答えた。
「はい。大切にお預かりします」
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