第8話 和愛 ー3
そこからの努力は凄まじかった。無理でも食べる、吐いても食べる。ストレッチを始め、規則正しく自分を保った。眠れなくても薬の力を頼らず、自分で決めた時間に目を閉じ、目を開けた。始めは難しかった。目覚まし時計の力も借りた。
揺れ動く心を抑えながら、看護師付きで散歩を勝ち取る。休み休み歩くが、時に足は震えた。太陽の光をたっぷり浴びる。ただ歩かず、木々に目を留め華々を眺めた。
そこかしこに千枝が見えた。千枝の声を聞いた。少しずつそれは耳にきこえるのでなく、心の中でよみがえる声なのだと気づいていく。
哲平の心に大きな変化が見えてくるのを栗原はじっと見続けた。庭で見かける哲平の顔に時々微笑みが浮かぶのを見て、自分にも笑顔が浮かんだ。
(自然ってすごいな)
そんなことを思うゆとりが哲平に生まれてくる。それでもまだ千枝のことを完全には受け入れられなかった。思い出せば苦しいだけだ。どうしても苦しい日は膝を抱えてうつらうつらする夜になる。けれど次の朝には自分を立て直すことに努め た。和愛が自分を待っている。
「すごいね! 来るたびに顔色が良くなってるよ!」
誤魔化しや慰めではなく、華は本当にそう思った。笑顔が増えた哲平を見るのが嬉しい。
「部長はどうしてる?」
ここ数日来ていない。来てほしいというより、顔を見ていないことで不安が起きる。
「あ、言伝を頼まれてるんだった。今忙しいからしばらく来れないって。落ち着いたら行くって今日言ってたよ」
「部長の様子は変わりないのか?」
「知ってるじゃん、そういうの見せる部長じゃないよ」
「忙しくって…… 急な案件が入ってるとか?」
「そうじゃないと思うよ。何度か常務に呼ばれてるけど」
「大滝常務?」
それなら安心だ。
「ううん、板垣さん」
その時点で哲平の不安がさらに増した。
「あいつが相手じゃ、きっと碌な話じゃない」
その頃、河野部長は板垣に詰め寄られていた。会議の終わった後、オフィスメンバーの異動について話をぶり返されている。近くでは池沢がプロジェクターを片付けていた。
「河野くん。別に君の許可が必要と言うわけじゃない。私がその気になればいつでも飛ばせるんだからね」
「脅迫ですか」
「人聞きの悪い。会社のためだよ、これは。人の出入りの無い職場は停滞するもんだ。それは組織として常識だ。君に常識を説いても無駄だろうが」
「ウチの部の成績を見ていただければその常識が当て嵌まらないことがお分かりになると思いますが」
「なら人を変えればもっと成績が良くなるとは思わないか?」
「思いません。現在のメンバーがベストです。今ベテランが新しい人材に替わわることは会社にとっても損失になります」
池沢はそばでハラハラしていた。どう見ても河野部長の忍耐度が上限に達し始めている。しかし続いた板垣の話で、池沢の忍耐の方がぶちっ! と切れた。
「この前の話、君から呑むと言ってもらいたい。野瀬は北海道、中山は大阪。宗田は中国」
「何度言われても返事は変わりません。現在の部下の異動はお受けできません。大滝常務に話は通してありますが」
「また大滝か! 君のバックに大滝在り、だな。癒着か? 何か君たちの間で密約でもあるのか?」
「そんなものは」
「役員会で取り上げた方が良さそうだな、君と大滝の関係について」
「やましいことは何もありません。大滝常務もそう仰るでしょう。お好きになさってください」
「じゃ、こうしようか。部下の異動がだめなら上司の異動だ」
「私の、ですか?」
「それならちょうど釣り合うだろう。新風吹き荒れる、だ。新しい上司の元、みんなにもシャキッとしてもらいたいからな」
もう池沢は黙っていられなかった。
「すみません! 河野部長の下で我々は充分シャキッとしてます! 他の上司など考えられません!」
「池沢、黙ってろ」
「いえ、これだけは言わせてください!」
「君たちは…… 部下までそろって会社に反抗するとはどういう教育だ? やはり上司が悪いらしい。そうだ、施設部の部長の定年で後任について頭を痛めていたが、君はどうだ?」
明らかにバカにした声だ。
「それで部下の異動が無くなるのなら構いません。喜んでお受けします」
「そうか、それならあっさり決まりそうだな」
板垣は笑い声を上げながら出て行った。
河野部長は今のオフィスの体制を変えるつもりは無かった。
(哲平は戻ってくる。あいつに最高の部署を残すしておくのが俺の責務だ)
哲平の気持ちが焦り始めると、主治医が何度も話をしてくれた。
「いいですか? あなたはまだここに入院している。ようやく自分で出口を探そうとし始めたばかりです。出口を見つけるにはまだもう少し時間がかかる。まず適正な減薬。体力づくり。どちらも今頑張っていますね? この状態を維持しましょう。そして帰る準備をする。週に1日帰ることから始めます。それが順調になったら今度は逆転します。通院です」
哲平の目が輝いた。新しい生活が自分を待っている。和愛と暮らす。病院は自分の中心ではなくなる。
「そのために今は自分をコントロールすることを身につけるんです。感情や体の支配者は宇野さん、あなたなんです。支配されちゃいけません。今朝、怒鳴りましたね? 正当な怒りならいいんです。でも今朝は食事にお茶がついてこなかった、ただそれだけで延々怒鳴っていたでしょう。あれはいけません。考えましょう。だれでも間違いがある。人にも自分にも。そこを理解しましょう」
それでも医師は彦助と勝子に言ってくれた。
「宇野さんは頑張ってますよ。きっと負けず嫌いなんですね。それが今出てきているので追い風になっています。この短時間でここまでの回復はなかなか無いです」
話が終わって病室に行くと和愛がきゃっきゃと笑っていた。哲平が肩車をしているのを見て2人とも目を細めた。
「和愛、良かったねぇ。父ちゃんに肩車してもらってるのかい?」
和愛の小さな手が、しっかりと哲平の髪の毛を掴んでいる。
「父ちゃんだって痛いんだぞ! こら、放しなさい」
それをいやだと笑いながら尚も引っ張る。哲平が彦助を見て情けなさそうに笑った。
「父ちゃんより先に禿げたらどうしよう」
勝子が慰める。
「それは大丈夫だよ。父ちゃんは禿げない家系だからね、あんたも禿げないはずだよ」
「勝子、お前の父方には光輝く人が多いじゃないか」
「父ちゃん! それ慰めになってねぇ!」
久しぶりの明るい会話。泣きそうになるのを勝子は堪えている。もうこんな日は戻ってこないかもしれないと思っていた。だがこの声はあの頃の哲平の声によく似ている。
「俺さ」
肩に和愛を担いだまま哲平が言う。
「帰りたいんだけど…… 自分の家に戻るの、まだ無理だ…… しばらく居候ってことでもいい?」
「もちろんだとも! 宇野本家だってお前の家だ。好きなようにしなさい。そうか、居候か」
勝子はとうとう泣き出した。
ずいぶん間が空いてやっと部長は来た。ノックの音で分かったから哲平は座った。ドアが開く。
「いらっしゃい」
「哲平…… ホントに良くなったんだな! 華やジェイたちに聞いてはいたんだがこの目で見るまではと…… 来るのが遅くなってすまん」
「なに言ってんだか! 俺こそ…… たくさん迷惑かけました。どれだけ頭下げたらいいか分かんないです。俺……」
「いいんだ、いいんだ、哲平……」
立ったまま手放しで涙を流す河野部長にただ感謝しかなかった。あれきり捨てられてもおかしくないほどの言動をした。
「俺、部長を殴りましたよね」
「そうだったな」
座らない部長に哲平は椅子を持ってきてベッドのそばに置いた。「ありがとう」と座った部長に頭を下げる。
「何度殴ったか覚えちゃいないんです」
「いいさ、貸しにしとく。カラオケで俺に負けてくれればいい」
哲平は吹き出した。それを見て部長も笑いながらまた涙を流す。
「こんな風に…… お前と笑い合えるなんて俺は嬉しい……」
「もう泣かないでください。俺ね、戻るってこと考えてます。ただ……会社にっていうのはまだ厳しくて」
「いいんだ、慌てるな。あそこに戻るのはお前もしんどいよな。落ち着いたらよく考えて決めればいい。……仕事に拘らなくたっていいんだぞ。お前の人生なんだ、好きなことやった方がいい」
好きにしろ、焦るな。そう言ってくれるのが有難い。部長を見たからこそ再起する心が生まれた。だから恩返しをしたいという気持ちもある。けれどまだ自分には用意が出来ていないと感じていた。
「時間ください。俺はまだ自分に自信が無いんです。今度の土曜、実家に一泊するんですよ」
「ホントか! すごいな、和愛もきっと喜ぶ」
「そこから始めます。部長…… ずっと俺んとこに連絡してくれてたって聞きました。父ちゃん、泣いて教えてくれました。ありがと……ござい……」
哲平からも涙が落ちる。
「そんなにあれこれ気にしてると良くないぞ。それより和愛と寝るのは久しぶりなんだろう? たっぷり甘えて来いよ」
「俺、父ちゃんなんだけど」
「きっとお前よりしっかりした子になるよ」
部長が帰った後、哲平は清々しい気持ちになっていた。
(ずっと謝りたかった…… 良かった、部長、喜んでくれた)
立ったまま泣いていた部長を思い出して、哲平の頬はまた涙に濡れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます