第8話 和愛 ー2
看護師はドアを開けたままで廊下に出た。みんな部屋の中だ。哲平は誰にも出て行けと言うこともなく、ベッドに座ってただ和愛を抱いていた。
「かずえ」
「大きくなったろう? 好き嫌いも無く、とてもいい子に育っているよ」
千枝のお父さんだ。
「私が分かるかい?」
「ちえの、お父さん」
「そうだよ。彦助さんとすごく仲良くやっているよ。そのそばでいつも和愛はにこにこして遊んでるんだ。きみの和愛を大切に預かってるからね。安心しなさい」
誰もが不安を抱えていた。哲平は今日の離れ間際に和愛を放さないかもしれない。そうなれば力づくで引きはがすことになってしまう。華もそれが怖かった。
(お願い! 大人しく和愛を返して。そうじゃないと和愛との面会許可が出なくなるんだよ)
もうすぎ面会時間が終わる。華はそれだけを願っていた。
廊下にいた看護師から面会終了を告げられた。哲平の顔がみるみる固まっていく。和愛を膝の上に立たせて痛くならないほどにぎゅっと抱きしめた。
「哲平、分かるよね?」
勝子が優しい声で手を伸ばした。息子を安心させたい。だが哲平は身体を斜めに向けて和愛を守ろうとするそぶりを見せる。彦助も語りかける。
「哲平、また連れてくるよ。そうだ、明日も来る。来週も何回か母ちゃんに連れてきてもらうから」
「いやだ」
「哲平、」
「和愛はおれといっしょに寝るんだ」
華は言い聞かすように語りかけた。
「哲平さん。ここさ、和愛に面白そうなもん、何もないじゃん。テレビも無いし絵本もないでしょ? お菓子だって無いよ。それじゃ可哀そうでしょ? 和愛は哲平さんにまた会うために今日は帰るんだよ」
「会うために?」
「うん。今日帰らせてあげなかったら二度と会えないよ。また会いたいでしょ?」
哲平が頷く。
「じゃ、今日は帰らせてあげよう。いいよね?」
「連れてくる?」
千枝のお母さんが涙ながらに言う。
「もちろんですとも! あなたの子どもよ、何度でも連れてくるわ」
哲平が一生懸命に考えているのが分かるから誰もが哲平の言葉を待った。自分で答えを出してほしい。哲平が途中で何度も頭を横に振るのは、言葉が止まるせいだ。欲しい単語が出てこない。
「おれも…… かえりたい。ちゃんと和愛と暮らしたい。ぶちょうもしんぱい、だから……もどりたいから。どうしたらいい? どうすればかえれる?」
みんなの涙が止まらない。帰りたい、戻りたいという意思表示を聞いたのは初めてだ。
「この後、先生に話を聞くよ。哲平、大丈夫だ、きっと退院できるようになる。お前は大丈夫だ。父ちゃんはお前を信じてるよ」
「……とうちゃん、泣いてる? かあちゃんも、ちえのおとうさんもおかあさんも」
「あなたが大事だからよ」
「哲平くん。君は私にとっても息子だよ。だから君が私たちのところに帰ってくるのを待ってるよ」
哲平は腕の中の和愛に聞いた。
「かずえ、また父ちゃんに会いにきてくれるか? ……とうちゃんのこと、すきか?」
「とうちゃん、すき! いっしょにかえる!」
哲平は和愛に頬ずりした。
「いたい」
そう言われて自分の頬を撫でた。ひげが伸びている。そう言えば髪も切ってない。刃物を持たせないということでなかなか髭を剃らせてもらえずにいる。
「帰る、かずえといっしょに」
華もみんなもどきりとした。今度は『今、帰る』と言い出すのか。
「よくなったら帰る。だからがんばるよ。とうちゃんは……まだ、帰れないんだ。よくなったらかえろう、かずえといっしょに」
(良かった、理解してくれたんだね。乗り越えようね! 俺手伝うから。哲平さん、必ず退院しよう!)
和愛は勝子に抱っこされて無事に廊下に出た。
「また来るよ。無理はするな」
彦助が哲平の肩を叩いている。今までは近寄ることさえさせなかったが、なんの抵抗もなかった。
千枝の父が手を差し出す。時間はかかったが哲平の手が恐る恐る出てその手を握った。千枝の母もハンカチで目を押さえながら哲平の肩を撫でた。
一度に帰ってしまうのは可哀そうだからと、少しだけ時間をもらって華が残ることになった。みんなはタクシーで帰る。
帰り際に彦助は担当医に会えるかどうか聞いてみたが、土曜だから会えないと断られ、近い内に平日に来ることにした。
帰っていく姿を哲平は窓から見送る。和愛はずっと病院の方を見ていた。
「哲平さん! 俺さ、もうちょっといるから」
微かだが哲平は嬉しそうな顔をした。ちょっと調子に乗ってみる。
「俺が残って嬉しい?」
哲平がしっかりと頷いたから華の顔に満開の笑顔が広がった。
「おまえ、きれいだ」
「は?」
「きれいだ、おまえ」
途端に華は真っ赤になってしまった。哲平にそんなこと面と向かって言われるとは思ってもみなかった。
「おれ、おとこだから。その、きれいってのは女にだから、言うのは」
「でもきれいだ」
「も、もうさ、やめて。分かった。嬉しい! 当たり前のことを哲平さんが言ってくれたの、すごく嬉しいから」
それに関しちゃ華は否定しなかった。普段から言われ慣れているからというのもあるが、哲平にそう言われたことがただ嬉しかった。
(あ、携帯で録音しとくんだった! 退院したら絶対に『俺そんなこと言わなかった!』って言いそう!)
今日は嬉しい一日だ。哲平はしっかり考えて納得してくれたのだ。
「あしたは、だれが来る?」
「明日…… 多分ジェイは来るんじゃないかな。野瀬さん来るって言ってた。俺はマリエと来る」
「おまえは来るな」
「どうして!?」
「ずっと、来てくれた、子どもたちがかわいそうだ。来なくていい」
「哲平さん……」
「休んで、ほしい」
「……ありがとう。じゃ、そうする。でも来てほしくなったら誰かにそう言って。必ず来るから」
哲平が手を差し出した。その手を握った。
「かえれ。ありがとう」
「うん…… うん、帰るね。寂しくない?」
「……さびしい。でも、おれも帰るから。だからがんばる」
涙を袖で勢いよく拭った。
「俺も一緒に頑張るから! 絶対に哲平さんをここから連れて帰る。一緒にやっていこう!」
ここからが哲平にとっては苦難だ。薬を断たなくちゃならない。少しずつ抜いていく、禁断症状が出ないように。自分との戦いが始まる。
哲平は間違いを起こした。早く戻りたい一心で、薬を減らす必要があると聞いてからこっそり薬を捨てていた。それが何日か続き、初めに嘔吐が始まった。そしてめまい、震え、倦怠感。
「宇野さん、薬はちゃんと飲んでいますか?」
「は、い」
「この症状は離脱反応です。言ってみれば禁断症状です。こういう薬は減薬の加減がとてもデリケートなんですよ。自分で勝手に減らしちゃいけません。かえって症状が悪化したり長引いたりするんです」
哲平はそんな話はどうでも良かった、早く戻らなくちゃならない。
「聞いてますか? 大事な話をしているんですよ。とりあえず薬は元の量に戻します」
「どうして!」
担当医の栗原は宥めるように哲平に語りかけた。
「宇野さん。焦るのはよく分かりますよ。お嬢さんと会えた。でも会うだけじゃない、早く一緒に暮らしたい。それで薬を飲むのをやめようとしたんですね?」
哲平は強く頷いた。
「でもね、だからこそ気をつけなきゃならない。今は強い離脱症状が出ているのでいったん薬を戻してこの状態を落ち着かせます。そこからまた始めましょう。いいですね? 薬を勝手に減らしたらまた同じことを繰り返すことになります。それだけ退院が先に延びます」
それから何度か栗原は哲平と話をした。哲平が意味を正しく理解するために、もう少し分かりやすい言葉で話す。繰り返し繰り返し、減薬の加減は栗原が決めていくことを納得させた。
「先生に、まかせる。言われたとおりにしたら、早くたいいん、できる。そうだね?」
「そうです。私はそのためにお手伝いをするんです。私も宇野さんに早く良くなってほしいから」
哲平は自分から手を伸ばした。その手を固く握った栗原には、笑顔が生まれた。
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