第八話 和愛 ー1
帰りは真っ直ぐ哲平の実家に向かった。そして今、彦助と勝子の前に座っている。
「哲平がそう言ったんですか?」
勝子には信じられない思いだ。和愛のことを言えば哲平は狂ったように反応した。「もう会いたくないんだ!」と暴れる合間にそう叫んだ。「俺には育てられない」と。
「哲平さん自身が言ったんです、和愛に会いたいって。だから土曜に連れてくるって約束しました」
「そんな勝手な!」
「変わり始めてるんです、もうあの時の哲平さんじゃない。お願いします!」
彦助は勝子を止めた。これは哲平に訪れた転機かもしれない。
「信じてくれてるんだね、哲平を」
「もちろんです! お父さんは? 信じるのやめたんですか? あの哲平さんです、絶対に元に戻るに決まってるじゃないですか! 千枝さんは哲平さんの何もかもを持ってったんじゃない、残していったものだってあるんだ、それが」
「和愛……」
「父ちゃん! あの子はもう3歳だよ、あんな哲平の姿を見たら」
息子も大事だが、孫も大事だ。宇野家では唯一の孫なのだから。幼い孫が不憫で堪らない。
「でも父親だ。そうだろう? あの時の哲平はこう思ったんじゃないか? 今の自分を見せられない、離れていた方がいい。娘を疎んだんじゃない、大切だからそう思ったんだと私は思うよ。でも今は会いたいと言っている」
「けど父ちゃん、」
「聞きなさい、勝子。私たちは和愛を哲平と千枝ちゃんから預かっただけだ。親が娘に会うというのを私たちに止める権利はないんだよ。その代わり華くん」
「はい」
「私たちも一緒に行きます。部屋に入れなくてもいい、だが何かあればそれこそ千枝ちゃんに申し訳が無い。堂本さんにも許可を得る。それでいいですか?」
「はい。お迎えに来ます」
「まず堂本さんと話してからご連絡します。大丈夫です、会わせないということはしません」
「ありがとうございます!」
華はしっかりと頭を下げた。体を起こすと彦助が手をついて頭を下げていた。
「お父さん……」
「君がずっと哲平のところに行ってくれているのを知っています。河野部長さんが哲平に会うと必ず連絡をくれて…… 誰かが行ってくれれば必ず教えてくれました。皆さんに礼を言いたいです。あなたから皆さんに伝えてください。言葉にならないほど感謝していると、どうか、貴方から」
(部長…… その部長のために哲平さんは立ち直ろうとしてるよ。そしてそのために和愛の力が必要なんだ…… 俺は手伝ってくれって言われた。繋がってるんだ、俺たちはいつも。これからだって)
「必ず。必ず伝えます。俺たちにとっても哲平さんは本当に大事な人なんです。和愛ちゃんがきっかけで戻ってきてくれたら千枝さんもきっと喜びます!」
堂本夫妻はもちろん快諾した。当日は真っ直ぐ病院に向かってくれる。
(哲平さん、待ってて。和愛を連れてくよ!)
部長には言わずにおいた。なぜそういうことになったのか。それが説明できなかったから。
当日、一番不安な顔をしているのは母の勝子だった。
「大丈夫かねぇ」
「大丈夫だよ。哲平が和愛になにかするわけないじゃないか」
「そんなこと思ってやしないよ。でも…… 私たちにさえ会うのを嫌がるのに」
後ろで話す彦助と和愛を抱いている勝子に、華は安心させるように話しかけた。
「お母さん。哲平さん、俺にきちんと言ったんです。会いたいから連れてきてくれ、頼むって。あんなにちゃんとした哲平さん、久しぶりに見ました。今日は和愛ちゃんに会うのをきっと待ってます」
病院に着くと、先に堂本夫妻が来ていた。華も彦助、勝子も頭を下げた。
「和愛ちゃんが哲平さんに会うのを許してくださってありがとうございます」
「とんでもない! 哲平さんが立ち直ってくれたら…… そう思っています」
千枝のお母さんはハンカチで目を押さえていた。
「きっと千枝の声が聞こえたんでしょう。そう思ってるんです」
お父さんの言葉が切ない。
「はい。きっとそうだと思います」
病院からは子どもとの面会の許可が出ていた。哲平が穏やかに過ごしている証拠だ。平田さんはドアのそばにいた。
「私たちが入るのには抵抗があるようです。幼い娘さん相手ですから大丈夫だとは思いますが、万一に備えて男性の看護師がドアのそばに待機しております」
宇野の両親も千枝の両親も、今までに哲平に拒まれたことを思い出してしまう。
「宗田さん。お願いできますか?」
「華くん、きみに任せたい。哲平はきみに心を開いているから」
華は人見知りをしない和愛を受け取った。自分も子どもには慣れている。
「哲平さんの様子を見てからそばに行きます。大丈夫、任せてください」
中に入るとこの前と同じ。哲平が正面に座っていた。華はそこから動かなかった。哲平が立つ。けれどそこで迷いが出たようだ。近づいてはこない。和愛は無邪気な顔を哲平に向けた。華は和愛に聞いてみた。
「和愛、あの人だぁれだ?」
動けずにいる哲平を指さした。分かっているだろうか、父親だと。ちゃんと言えるだろうか。
「とうちゃん!」
華の手の中で和愛がもがいて哲平に手を伸ばした。
「とうちゃん!」
哲平が一歩、前に出た。
「哲平さん。連れて来たよ。どうしたいの? 和愛になにかあったら千枝さんが」
「わかってる」
哲平はもう一歩前に出た。華も前に進む。あともう少しで和愛の手が届く。けれどそこで華は止まった。和愛が手を伸ばす、「とうちゃん、とうちゃん!」と。
哲平はそろりとさらに一歩進んだ。そして手をあげる。その指先に和愛が捉まった。
「とうちゃん、抱っこ!」
哲平の目からほろっと涙が落ちた。
哲平はその手をじっと見た。
「ちいさい」
「今度3歳だよ。覚えてる? 和愛の誕生日」
「……2月……6日」
少しずつ哲平は前に出てきた。半歩も行かないほどの小さい歩み。
「うん、2月6日だよ。哲平さん、今がいつか分かってる?」
哲平は考えている。和愛の手から指を抜く。両手で頭を抱えた。強く顔を横に振る。
「分からない…… 分からないんだ、華、今はいつ? 今は!」
「怒鳴んないで! 静かに。ね、落ち着いて。騒いだら和愛を取り上げられる、怒鳴っちゃだめだ。今はね、2月だよ」
哲平の両手が下りた。
「2がつ……」
「そうだよ。来週の月曜、誕生日だよ。それで3歳になる」
「とうちゃん! だっこ!」
哲平は一歩進んだ、小さくじゃない、しっかりと。和愛の頬を撫でた。
「とうちゃん」
「うん…… とうちゃんだよ」
哲平が両手を出すと和愛はすぐに哲平に抱きつこうとした。その動きのままに華は和愛を哲平に託す。
「和愛、良かったな! とうちゃんだぞ」
それは絆だ。千枝から授かった分身がここにいる。自分を待っていてくれる。自分を認めてくれている。その小さな体は千枝が産み落としてくれた神聖な宝もの。その体にはきっと千枝が息づいている。
「ちえ……ちえ……ちえ……ちえ……ちえ……ちえ……」
その声が大きくなっていく。哲平はいつの間にか号泣していた。
「ちえぇ……ちえぇ……ちえぇ……」
「哲平さん!」
和愛は哲平の強く抱きしめる力と大きな泣き声に怯えて泣き始めた。
「哲平さん、落ち着いて! だめだ、和愛を泣かせちゃ!」
哲平の声が止まない。ドアが開いた。男性の看護師2人が入ってくる、そして哲平の両親と千枝の両親と。
「放しなさい。宇野さん、子どもを放しなさい」
看護師からまるで守るように和愛を抱きしめたまま下がる。その間も和愛は泣いている。哲平の力が強いからだ。
「哲平、もうやめなさい!」
彦助が大声を出したが哲平は聞いていない。
「いたいよ、いたい、とうちゃん、いたい」
哲平の動きがぴたっと止まった。腕の中の泣いている我が子を見る。
「とうちゃん、いたい」
「さ、放して。大丈夫です。おばあちゃんとおじいちゃんに返すだけだから」
看護師が近づく。けれど哲平は泣き顔のままぐずる和愛から目を離さずにいる。
「お願いです、もうちょっとだけ、もうちょっとだけ抱かせてあげてください!」
華は哲平と看護師の間に立っていた。
「どいてください。もしあの子を抱いたまま暴れたら大変なことに」
「大丈夫です! 絶対大丈夫ですから、もうちょっとだけ時間をください、もう少しでいいんだ、時間を」
「かずえ」
華は振り返った。祖父母たちも見ていた。哲平は何度も和愛の頭を撫でていた。
「ごめん。ごめんな。いたかったか? ごめんな」
「とうちゃん、いたい、とうちゃん」
「そうだよ、とうちゃんだよ。和愛。お前のとうちゃんだ。ごめん、本当にごめん、ごめん……」
今は抱きしめるというより、哲平は和愛にしがみつくように泣いていた。けれど力は入れずに。大きな声ではなく。
「和愛、ごめんな」
和愛の肩に顎をつけて哲平は泣き続けた……
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