第7話 きっかけ ―2

 次の朝、華は哲平に言った通り朝一に池沢を捉まえた。

「教えてください、なんか俺に言いたいことあるんでしょ?」

「無い」

「ここんとこそういう顔して俺見てたじゃないですか」

「そうか? お前の勘違いだ」

 思った通りだ、こうなればてこでも池沢は言わないだろう。だが引き下がるわけには行かない。

「哲平さんが知りたがってるんです」

「哲平? なんで哲平が出てくるんだ」

「この前、部長が哲平さんのとこに行った時の様子がおかしかったって。それで心配してます」

「心配?」

 そっちに池沢は驚いた。

「話をしたのか!」

「ちゃんとしました。だいぶ疲れたみたいだけどしっかり伝えたいことを言ってくれましたよ」

「そうか…… 哲平が……」

 池沢の声がわずかに震えている。

「だから答えを持っていきたい。教えてください」

 池沢の声が最初に戻った。

「なにも心配することは無い、そう伝えろ」

「分かったよ、部長に聞きます」


 池沢に背を向けた。華は本気でそうするつもりだ。池沢も華のことはよく分かっている。

「部長も言わないぞ」

 くるっと池沢に向き直った。こういうところが池沢は正直だ。

「つまり、何かあるってことなんだね」

 池沢の顔がしかめっ面になった。

「お前ってヤツは…… 部長には聞くな」

「じゃ、池沢統括課長が」

「俺も言わん」

「じゃ、部長しかないじゃん! 俺は聞くから!」

 池沢に腕をぐっと掴まれた。

「部長を困らせるな。お前たちに言う気はない。知っているのは俺と部長だけだ。誰に聞いても無駄だぞ」


 部長が苦しんでいたのは人事異動の件だ。

 戻って来るに違いない哲平に、万全のR&Dを残しておいてやりたい。だが、会社側からの要求は容易に蹴れるものではなかった。



 結局なにも聞けずに終わった。車を走らせながら華は手詰まりを感じていた。

(参ったな、なんて言えばいいんだよ。どいつもこいつも頑固なんだから)

その『どいつもこいつも』の中に当然自分は入っていない。

(納得しないだろうなぁ…… また怒鳴られんのか)

そうは思っても行きたくないとは思わない。そんなことをしたらもう二度と信じてもらえなくなる。

『おまえがいい』

 そう言ってくれたのだから。


  


 病院に入ると 看護師の平田さんが華を呼び止めた。

「宗田さんが見えたらお話ししたいと先生が言ってらしたんですが、先にいいでしょうか?」

少しくらい遅れても大丈夫だ。仕事の後で来るのは知っているのだから。

「伺います」

 華は栗原医師のもとに行った。


「お待ちしていました」

「なにかあったんですか?」

 それが一番怖い。昨日あんな話をしたせいで興奮してしまったのだろうか。

「宇野さんの様子が急に変わりましてね、昨日見舞いに見えたのは宗田さんだと聞いたのでその時のことをお聞きしたいんです」

 話の中身は言いたくない。だが明らかに変わったことは伝えておくべきだ。

「会社の話ができました」

「そうなんですか!」

「はい。部長の様子を聞かれたんです。前回部長が来た時に疲れて見えたけどなにかあったのかって」

「大きな進歩ですね! それは良かった…… 聞かれることにはどうぞ答えてあげてください。でもこちらから話を振らない方がいいと思います。反動が怖い。その辺を気を付けてください」

 今後も変化があれば聞くと言われた。治療の効果もあるのかもしれない。けれどそのお陰というより、哲平は自力で今の状態から脱しようとしているようにも感じた。


 

 ノックをすると「はいれ」と返事が返ってきた。

(待ってたんだ)

 ドアを開けた正面に哲平は椅子に座っていた。真っ直ぐ自分を見るその目には力が宿っていた。

 椅子を取ってその前に座り頭を下げた。

「ごめん。答えは手に入らなかった」

「そうか」

 怒らなかった、怒鳴りもしない。頭を上げるとなにかを考え込んでいるようだ。華は言葉を待った。


 哲平は昨日華が帰ってからずっと考え続けた。

(ぶちょうは…… あんな風にならない)

 自分で分かっている、今の自分はおかしいのだと。けれどどこがどうおかしいのかが分からない。何かが大きく変わってしまって、そこから出られずにもがいていた。そしてその内もがくのさえやめてしまった。


(このままじゃ……)

そんな思いが初めて生まれた。

 自分のために泣いている顔が昨日から次々と浮かんでは消える。目を背けたいのに、聞きたくないのに現れて声が聞こえてくる。

『哲平!』

『哲平さん!』

 それが今また聞こえている。

(おれを…… よぶな)

はかない抵抗をする。だが目を閉じても真剣な顔が自分を見ていた。


 目を閉じて耳をふさいだ。

「哲平さん!」

 華は慌てて立ち上がった。幻覚を見ているのだろうか、幻聴が聞こえるんだろうか。

「はな、はな、とめてくれ、みんながさけぶんだ、おれをみるな」

 結果など考えずに華は哲平の頭を抱え込んだ。

「ほら、これで見えないよ。ね、手を放して、そんなに強く抑えないでいいから。俺が耳をふさいであげる。苦しむななんて……言えないよ、俺には…… そんなの、無理だよね? でもこれ以上哲平さんが辛くなるの、見てらんない! 見て……らんないよ……」


 哲平の手の上から覆った華の手の温もりが心地よかった。哲平は手を離した。そのまま華が哲平の耳を塞ぐ。自分が塞いでいたよりも聞こえている。華の抑えたような泣く声も。

(つらくない…… おまえがいる)

 華は絶対に自分から離れない。それは確信だ。他のみんなとも絆があるのだということが朧げに自分の奥から顔を出し始めている。そして大事な者が目の前にいる。

 哲平の手がそろりと上がる。華の背に手を回した。びくり、とする華を感じた。けれど背中を掴んだ。

「おれ…… もどらなくちゃ」

 部長のあの姿が再び頭に蘇る。

(あんな風に…… あんな顔させちゃいけない。だめだ、あれじゃ…… たすけてくれって…… そう言ってた、でも言わなかった……)


  


「はな」

「うん?」

「おれ、もどらなくちゃ」

「そうだね」

「てつだって、くれるか?」

「もちろん! 俺は哲平さんのためならなんでもやるよ」

 華の声が泣いている。その体に身を預けたまま、くぐもった声で哲平は話し続けた。今言わなければきっともう言えなくなる。動き出すなら今しかない。

「もどりたい、もどらなくちゃ」

 頭にはまだみんなの声が響いている。

『哲平さん!』

 幾つもの声が重なる。声が大きくなる。華の背中をぎゅっと掴んだ。まるで分かったかのように耳を塞ぐ華の手に力が入る。

『哲平!』

『哲平さん!』

「そんなに…… 大声で呼ばないで、くれ」


 華は恐ろしくなった。もどる、手伝ってくれ、そう言ったのに哲平は狂ってしまうんじゃないだろうか?


 戻ろうと思うのに、哲平はその呼ぶ声に抗ってしまう。どんどん声が大きくなり、元いた平穏な暗がりの中に引き返したくなる。

 その時、それを消してしまうような声が聞こえた。柔らかい声だ、優しくて愛しくて。本物の声が頭いっぱいに響き渡る。


『哲平。なにやってんのよ、哲平』

「ちえ」


 どきりとした、自分の抱きかかえている震える体から絞り出すような小さな声に。


「ちえ」

「哲平さん! しっかりしてよ!」

 思わずそう言っていた。

(俺を千枝さんと間違えてる?)


 そのまま静かに時が経っていく。だんだん震えが止まっていった。背中に回った手の力はそのままだ。

「はな」

「はい」

「おれ、たいいんしたい。もうかえりたい」

 哲平の手から力が抜けて行った。華も手を緩めた。自分が塞いだって声も音も聞こえていただろう。けれどきっと哲平が望んでいたのはそういうことじゃなかったのだと思う。


 見上げてくるやつれた哲平の顔をじっと見た。

「うん。俺と帰ろう。もう帰んなきゃ」

「かずえを」

「え?」

「かずえを連れてきてくれ」

「それは、」

「たのむ、連れてきてくれ、たのむ」


(入院して初めて和愛の名前を言ってくれた…… だめだって言っちゃいけない。きっと哲平さんには今和愛の存在が必要なんだ)


「連れて来る。今度の土曜日。誰が何と言おうと俺が連れてくるよ」

「ありがとう、はな」

「いいんだ。俺と帰るんだ、哲平さんは。そうでしょ?」

 哲平が頷くのが揺れて見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る