第7話 きっかけ ―1

 時々懐かしい声が頭を掠める時がある。最初の頃はその声を拾おうとして慌てて周りを見回していた。叫ぶ時もあった、「千枝!」と。

「落ち着いて、ここには誰もいないですよ」

「千枝が、千枝がいる、千枝が」

 そんな時には鎮静剤を打たれることもあった。だが今はそれも無くなった。懐かしい声に涙が流れることはあっても。


 哲平は少しずつ気持ちが穏やかになっていった。鬱陶しいのに、放っておいてほしいのに、それでも誰かが来る。必ず誰かが来る。いつの間にかノックの音を待つようになっていた。

 来たからと言って何が変わるわけではない。やはり鬱陶しいしさっさと帰ってほしい。それでもノックの音を待つ。時計を見るようになった。


 ノックの音で誰なのかだいたい分かるようになった。

 部長はトントンと落ち着いた叩き方。華はココッ! と軽い音だ。ドンドン! という音は池沢。トトトンッという音はありさ。広岡は静かに叩くし、中山はコンコン、コンとなぜか間が空く。その聞き分けが当たるのがちょっとした快感になっていく。

 謎なのはジェイ。同じだったことが無い。それは走ってきたとか、天気が悪いとか、そんなことで変わる。ジェイ自身まだ心が不安定なせいで、それも叩き方に影響がでる。

 入ってきたとたん、ベッドにべたんと頭をつけて震えるように泣くときもある。そんな時は哲平はそっと頭に手を載せた。



 2月2日。その日は風でゆっくり動く雲を眺めていた。雲は飽きない。形が変わっていく様を目で追っていく。

 時計を見た。そろそろ誰かが現れる頃だと思う。今日は誰なのか。それを考えるのは認めたくはないが楽しい。世界の片隅に捨てられたような思いに溺れていたが、その沼から立ち上がったような気になる。


 いつもの時間が過ぎても誰も現れない。そんな日もあるだろう。いったんはそう納得した。

(ほっとする だれもこない きょうはしずかでいい)

 だが、しばらくしてそれが嘘だと分かる。一人は嫌だ。思い出と向き合うことになる。また沼で溺れるのか。

(くるしい)

息が詰まるような思い。

(だれか)


 ノックがした。トントン。

(部長?)

 残業したのか。だから遅かったのか。来たというそれだけで満足した。あとは入ってくる姿さえ見ずにぷいっと窓の方に顔を向けた。

 いつも通り椅子を動かす音がする。座った気配を感じた。次はバッグを開けてパソコンを出すだろう。すぐにキーボードを叩く音がするはずだ。


(しずかだ…… どうして?)

なんの音もしないことに不安を感じた。目を合わせるのは嫌だが部長の方に顔を向けた。

(え?)

見たことのない姿…… 部長はバッグを膝に載せたままそこに肘をついていた。両手の中に沈んでいる顔。

「ぶちょう」

 思わず声が出た。部長が顔を上げた。一瞬泣いているのかと思った。疲れた青い顔に一文字に引き結んだ口の端が上がり、笑みを見せてくれたが哲平には本物には見えない。

「悪い、起こしたか」

 バッグを下に置いて立ち上がるのを見て、つい身を引いた。


「大丈夫だ、そっちには行かない。でも水か何か欲しいなら」

「みず」

 なにか言わなければならないと思った。そうでなければ部長はきっと泣くのだと。部長を泣かせたくない、もう泣いてほしくない……


 歪んだような笑顔を浮かべたまま部長は冷蔵庫から水を出し、上に置いてあるコップに注いだ。

「どうする? トレイに載せて渡せばいいか?」

 哲平は手を伸ばした。驚いたように部長は目を見開いた。

「そばに行ってもいいのか?」

「ん」

 自分の返事があまりに小さい声だったからさらに手を伸ばした。

「ありがとう」

 そう言って水を渡してくれた部長は本当に泣きだしそうで。


 半身を起こしてごくごくと水を飲む。空になったコップを差し出した。受け取ったその手を哲平は掴んだ。

「哲平?」

 息を呑んでいるのが分かる。哲平の唇が震えた。掴んだ以上、なにか言わなければ。

「なにか…… あった?」

 少しの時間が過ぎ、部長は掴んだままの哲平の手を優しく叩いた。

「大丈夫だ。なにも無いよ。心配するな」

 哲平は手を離した。なんだかすごく大きな仕事をしたような気がする。

「今ので疲れただろう。寝ろよ」

 いつもそうだ、部長は分かってくれる。

「俺はもう少し座っててもいいか?」


 小さくうなずいた。疲れているのは部長の方だと思う。

(なにが、あったんだろう)

きっと部長はなにも言わない。そういう人だと分かっている。

(華に聞かなきゃ)

そう決めてほっとした。久しぶりに決断をした。哲平は部長が座るのを見て目を閉じた。

(きょうは、つかれた)


  

 華が来たのはその翌日。ノックの音で哲平は座った。開くなり口を開く。

「はな」

 ドアを開けたまま立ち尽くす華に椅子に目をやって座れと合図した。華は頷いてドアを閉めた。

「驚いた! 俺が話しかける前に哲平さんが喋るの、初めてだね!」

 椅子に座った華が興奮している。それにちょっと苛立ってベッドのそばを何度も指を差した。

「なに?」

 その意味が分からなくて華は聞き返す。

「こっちに、こいって!」

 反射的に立ち上がった華は椅子を掴んで哲平の前に座った。

「来たよ。どうしたの?」

(哲平さんに合わせよう! 余計なこと言っちゃだめだ)

これは大きな変化だ。何かが変わろうとしている。


「はな、喋るの、きつい」

「分かってる。無理しないで」

「かいしゃ、なにがあった?」

「会社? オフィスってこと?」

 当たり前だ! と怒鳴りそうになる。なぜ自分が言おうとすることが瞬時に伝わらないのか。理不尽な思いが駆け抜ける。

「そんな怖い顔しないで、ちゃんと聞くし答えるから。ゆっくり話そうよ、焦んないでさ。どうして何かあったって思ったの?」

 哲平が何度も深呼吸をするから華は待った。


「ぶちょう、泣いてたから」

「泣いて? ここで? あ、ごめん。哲平さんが見たんだからここに決まってるよね。いちいち怒んないでよ! 俺だってたまにはマヌケな日があるんだから」

 その答えが気に入ったらしい。哲平は微かに笑った。

「いつも、だろ?」

(うわっ! やり取りが出来てる!)

その気持ちをおくびにも出さずに華は不貞腐れた顔をした。


「いつ…… ぶちょうがきた日」

「それなら昨日でしょ。行ってくるって4時で上がったから」

 哲平は頷いた。そうだった。

「おれに水くれて、ありがとうって言った。でも泣いてるかおだった」

 久しぶりに長く喋り、疲れを感じる。でも今は話さなくちゃならない、聞かなくちゃならない。

「なにか、あったんだとおもう」

「なにか……」

 華は考えている。思い当たることが無い。何度も何度も考えた。

(そう言えば…… 一昨日から池沢さんの様子がおかしい。なにか俺に言いたそうで)


「はな!」

 哲平は苛立っている、答えが欲しくて。

「ごめん、はっきり分かんない。でも確かに変なことがあった。池沢さんが昨日、一昨日って俺に何か言いたそうにしてたんだよね。でも何も言われなくってさ、てっきり仕事のことだと思ってたから気にしなかったんだ」

「きけ、あした」

「聞けって…… 池沢さんは言いたくないことは絶対言わないよ。言うって決めたことじゃなきゃ口にしない」

 池沢は頑固だ。だからこそありさと衝突もすれば上手くもやっていけるのだろうが。組長の一人娘と結婚したくらいなのだから。

「聞けって!」

「無理だって! 哲平さんが一番知ってるでしょ、あのがん」

「華っ、聞けっ!」


 その睨みつける顔は真剣で、いつもの罵倒する時とはまるで違った。華はそこに強い意志を感じた。


「分かった、聞く。明日一番に。聞いてなるべく早くここに来る。いい?」

 やっと落ち着いた顔を見せた。

「いい。つかれた」

「うん。横になりなよ。なんかほしい?」

「つめたいの」

 冷蔵庫を覗くとリンゴジュースがある。こんなのを買ってくる人間は決まっている。

「これ、ジェイ?」

「ジェイ」

(会話が続いてる…… 千枝さん、哲平さんが頑張ってるよ!)

泣きたい思いが溢れてくる。熱くせり上がってくるものを何度も飲み込む。

「じゃこれ飲む?」

「ん」

 自分も水が飲みたい。喉が熱くて痛いから。


 哲平は美味そうにりんごジュースを飲んだ。途中で目を閉じてゆっくりと流し込んでいく。空になったコップを差し出され、受け取った。これも初めてだ。

「美味しかった?」

 それには頷いただけ。

「部長にはなにも聞かなかったの?」

「おまえがいい」

 どくん、と心臓が跳ねた。

(ヤバ…… まるで告白でもされてるみたい)

だがここで調子に乗ってはいけない。

「ありがとう。聞いてくれて嬉しいよ。もう寝る? 疲れたでしょ」

「ぶちょうと、同じこと言ってるよ、おまえ」

「そうなの?」

「ねる」


 唐突に会話は終わったがこんなにコミュニケーションが取れるとは思ってもいなかった。

「適当に帰るから。ゆっくり寝て」

 それにはもう返事がない。けれど華は心から嬉しかった。

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