第5話 一歩ずつ
河野部長と二人では来ないようにした。部長だけじゃない、誰ともだ。二人以上の人間を哲平は受け入れられないからだ。
最初の時、華は部長と来た。哲平はベッドからやっと立って逃げようとした。どんどん後ろに下がる。壁に背中がついて、それでも下がろうと必死になる。見ていられないから部長が外に出た。
「華、お前なら大丈夫かもしれない」
部長が出て行って哲平と二人になった。哲平が動くのをやめたのを見て、近寄ろうとした。また哲平の目に怯えが走る。華はその場所から前に出ず、椅子を取ってきてもっと逆の壁寄りに座った。
「こっからそっちに行かないから。だから安心して」
無理に笑顔を作った。哲平は動きはしなくなったが、その場から離れもしなかった。
(このままじゃ…… ないよね? 大丈夫だよね?)
まったく関係ない話をした。じぶんが歓送迎会で哲平を投げた頃の話だ。
「あの頃さ、鬱陶しかったよ、哲平さんが。だから投げた時、すきっとしたんだ。覚えてる? あの時俺を追っかけまわしたよね! 途中からマジ捕まんじゃないかって俺、本気で走ってた」
笑い声を立てた。必死だった、哲平に反応してほしくて。
「おまえ、にげ…… はしってた」
哲平の顔が柔らかくなったのを見て、思わず立った。それが良くなかった。ガタン! と椅子が倒れ、哲平の顔が強張る。
「で、てけ、でて、け、でてけ! くる、な、おまえなんか、みたく、ない、くるな!」
外に聞こえたのだろう、河野部長が飛び込んできた。それを見て哲平はそばにあったものを投げた。
「あ!」
「部長!」
水の入ったプラスチックのコップは河野部長を頭からぐっしょりと濡らしながら、目の近くに当たった。
「なにしに、来た! しごと? おれに、しごと? おれに、なにしろって、おれに」
「出てください! 早く!」
担当看護師の平田さんが二人を廊下に出し、その後から男性の看護師が二人入っていく。
その後はもう分かっている。最初に入ったあの『安静室』という名の独房に入れられるのだ。もちろん、病院側にそんな意図はない。暴力を振るわない、それが昂じて自傷をしないと見極められるまで安定剤でコントロールしながら見守っていくのだ。
だが哲平には苦痛でしかない。二度目にそこから出てきたときの、全てをもぎ取られたようなそんな姿を華も部長も忘れられない。
「やめて! 哲平さんは悪くないんだ、やめてください!」
「暴力をふるったのをそのままにしておくことは出来ないんです」
「いえ、彼は慌てただけなんです、私が突然入ったから。たいしたことない、どうかこの病室で。あそこに入れられたら今度こそ狂ってしまう、どうかこの病室で」
「俺たちがいなければきっと静かになるから。お願いです、気をつけます、本当に気をつけます!」
中から、いやだ、いやだ、と何度も繰り返す声がする。担当の栗原医師が来て、華と河野部長の話を聞いてくれた。中は静かになっていた。
「そうですか。ちゃんと返事をしたんですね?」
栗原は患者に寄り添うタイプの医師だ。
「はい。でも俺がうっかり音を出して刺激しちゃったんです」
「平田さん、彼はもう暴れてないんでしょう?」
「はい、治まったようです」
「じゃ安定剤を出して様子を見ましょう。そうですね…… 来ていただくのはいいんですが、ちょっと様子を見たいので前もってご連絡ください。その上で面会を判断しましょう」
帰りの車、運転しながらの華の声は苦しみに満ちていた。
「せっかく…… せっかく話せそうになったんだ…… なのに、俺、バカだ……俺」
「華、車を止めろ」
「はい」
病院で手当てを受けて切れた瞼の横にはガーゼが貼られている。それを部長はむしり取った。
「まだ始まったばかりだ、華。久しぶりに哲平の力のある声を聞いたよ。今日はそれだけでいい。欲張るな、哲平に合わせて歩くんだ」
華は何度も頷いた。華を下ろして部長が運転を代わった。帰りは二人で飯を食った。
何度か面会を繰り返し、華も部長も今の哲平との関わり方を掴み始めた。
「宇野さん。お客さんがいらしてますよ」
伸びやかな声。担当看護師の平田さん。彼女も最初は哲平に対して硬かったが、今ではなにもなければ大人しくてたまに零れる笑みの優しさに気づいた。それからは態度がとても柔らかくなっている。
面会を告げられて、途端に哲平は落ち着かなくなった。何かを思い出さなくちゃならない。そんな焦燥に襲われる。
「俺! また来ちゃった」
明るい華の声に反応が遅れる。現実感が無い。人の存在が遠い。今は陰性の時期に入っている。考えることにまとまりがない。うまく自分を表現できない。
華はは入り口に立ったままだ。自分を『華』だと認めてもらうまでは入らない。
「今日は座っている時間が多いんですよ。ね、宇野さん」
のろのろと頷いた。否定するとあれこれ声を出さなくちゃらないから面倒だ。頷いたのを見て華は中に入った。
「良かった! そうだよ、一日寝てたらいくら哲平さんでも体がぶよぶよになっちゃうよ」
華は哲平に触らない。一度抱きしめて哲平が暴れたことがある。
『千枝が亡くなった時にみんなに抱きしめられたのを思い出すんだろう』
そう河野部長が言った。そしてきっとそうなのだと思う。
「今日はさ、出来ればいつもより長くいたいんだけどいいかな?」
それには答えない。顔を空に向けた。
否定されなかったことで華は椅子を取ってくる。哲平から1メートルくらい離れた場所に置いて座った。手の届く場所を嫌がる。人との接触を避けていた。患者の気持ちを尊重してください、そう言われている。
いつもと違ってゆっくり話した。両親のことだ。
「俺さ、受け入れられないっていうのとは違うんだ。昔はだめだったんだけどね。でも父さんと母さんの考え方って普通じゃないって知ってるでしょ? 俺は現実主義だからそこが食い違ってさ。最後は言い合いになっちゃうか…… 言い合いにはならないか。だって泣くか謝るかしかないんだから。だから俺も中途半端に終わっちゃうんだ」
返事など期待していない。だが哲平相手にしかこんなことを吐き出せなかった。いつも背中を叩いてくれた。
『子どもは親を選べないだろ? 俺は華がこうなったのはその父ちゃん母ちゃんのお陰なんだからそれでいいって思うぜ』
そう言ってくれたのはいつだったか。
「哲平さんがいつも俺の背中叩いてくれたから、だからそれでなんとかやってこれたんだけど。でも今自信ないんだよ……」
「はな」
驚いて顔を上げた。哲平が自分の名を呼んだ。だが今までのことがある。腰は上げなかった。
「はなは、だいじょうぶ だいじょうぶ」
薬のせいで半分呂律が回っていない。
「哲平さん……」
涙がぼたぼた流れた。
「うん…… うん、がんばる。うん……」
かすかに哲平が笑ったような気がした。
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