第3話 狂った日々

 


 千枝がくも膜下出血で亡くなったのが7月初め。哲平が入院したのは8月の終わりだった。そして今は2月に入ったところ。




 葬式が終わって呆然としていた哲平は、忌引きが終わるとすぐに出社した。

 ざわざわとメンバーが話すのを「うるさい!」と一喝した。そのまま溜っていたメールを片付け初め、そばに寄ってきた華に「仕事しろ!」と怒鳴りつけた。


 部長にミーティングルームに呼ばれ、話しかけてくる言葉は全部無視。

「仕事しに来てるんだからゴチャゴチャ言われる筋合いはない」

 そう言葉を投げつけミーティングルームを出た。


 池沢、野瀬が、広岡が何度も話しかけるが「仕事しないなら帰れっ」と資料を投げつけた。

 誰かが笑えば「ここから出ていけ!」

 誰かが喋れば「ここから出ていけ!」


 部長に叩かれ、飛び掛かって殴りつけたのを澤田と中山が引きはがした。

「部長っ」

 華が慌ててそばに跪いた。

「たいしたことない」

 切れた口を拭う。ジェイがすぐに冷えているものをハンカチで包んで部長の腫れ始めた場所に当てた。そのハンカチが赤く染まっていく……

「このことは誰にも言うな。あいつが辞めさせられる」



 だが何度目かの部長の呼び出しでまた部長を何度か殴って、倒れたのを蹴った。それを華が押さえ込んだ。

「なにやってんだよ!」

「放して、やれ、華!」

 やっと身を起こした部長が切れ切れに言う。そのままふらっと立ち上がった。

「でも部長!」

「いいんだ、放してやれ」

 いつ暴れても捉まえられるようにと、華は脇に立った。だが哲平はなにをする間もなかった。部長が哲平を抱きしめた。

「哲平…… 分かってるんだろう? こうせずにはいられないんだよな。家にいることもできない、どこかにいることもできない…… だからここに来る。千枝を感じられるからだろう? でも…… ここには思い出があり過ぎる。お前が辛いのは無理もないんだよ。な、俺もついて行く。病院に行こう。そばにいてやるから、だから病院に行こう」

 涙が止まらない部長の声は震えていて、ミーティングルームにいた池沢と田中も涙をこぼした。

 哲平の体からがくりと力が抜け、そのまま床に座りこんだのを尚も部長は泣きながら抱きしめていた。何度目かの「病院に行こう」と言う言葉にやっと頷いた。


 その場からすぐに哲平を抱きかかえるようにして華の運転する車に乗せた。友中先生に電話をして、受け入れてくれる病院を紹介してもらう。

『行けば迎えてくれるように連絡を取っておきます。安心してくださいね』

 宇野家には広岡が連絡し、迎えに行った。和愛を茉莉に預けて彦助と勝子は病院に向かった。


 空は千枝が倒れた時のように青く輝いていた。


  

 最初の頃は大変だった。彦助と勝子が病院に連れて行こうとすると、怒鳴る、暴れる。目に浮かぶのは絶望…… 次に訪れたのは無気力。両親だけでは無理で、華や部長が付き添った。

 自分の状態を自分で説明することなど無理だった。問診に答えられることがなにもない。名前も住所もまるで呆けたように言わなかった。



 狂ったのではないと聞いた。そうではなく、自分が自分を追い詰めているのだと。悪いことを自分に原因がある思うことで、なんとか保っている。それを止めようとする者を敵対視してしまうのだと。


「統合失調症。聞いたことはあるでしょう。精神疾患の一つです。決して特殊な病気というわけでは無く、100人に1人かかると言われています。原因は様々ですが、宇野さんの場合ははっきりしていますね。奥さまが亡くなられたショックによるストレスです」


 そこまで聞いた時点ではそれほど心配しなくていいのかと皆考えた。100人に1人なのだから。きっと治療を受ければすぐに治るのだろうと。


「症状には陽性、陰性とあります。交互に現れる時もあれば偏ることもあります。陽性の特徴は幻覚、妄想です。無いはずのものが見え、聞こえないはずの声を聞く。意識が混乱する。監視されているとか、命令を受けているとかそういったものです。陰性の特徴は感情の鈍麻、意欲や気力の欠如、会話が極端に減るなど。鈍麻というのは、感情表現を上手くできなくなるということです」


 それが息子の身に起きているなど、実感が湧かない。そうなるはずがない。

「見込みは? 先生、哲平はどうなりますか? 治りますよね!?」

 勝子は必死だった。あんな哲平を見たことが無い。いつも軽くて陽気で、けれど涙もろくとても優しい息子だ。


「通院ではこれ以上無理でしょう。ご家族がなんとかできる状態じゃない。入院が一番いいと思います。定期的な薬の服用も自宅ではきっと難しい。入院は自閉になりがちですが、ご家族、ご友人と連携プレーで当たりたいと思います」


 彦助も呆然としていた。今の哲平の姿がどうしても信じられない。

『父ちゃん、飲もうよ』

 たまに来て酒を酌み交わし、別室では娘たちと千枝が和愛を構ってわいわいと賑やかだった。

 哲平は日々の話を面白おかしく聞かせてくれる。何度涙を流して笑ったことか。

「なおり、ますか?」

 妻と同じ。聞けたのそれだけ。他に何を聞けばいいのか思い浮かばない。

「焦らないことです。薬物療法とリハビリテーションが中心になりますが、何よりも皆さんの助けが必要です。彼の望むことを否定しないでください。時には暴言も吐くでしょう。苦しむあまりに悲観的なことを言うかもしれません。鵜呑みにしないことです。ただ、元気になれとは言わないでください」


 華と部長は哲平の身内と一緒に話を聞くことが出来た。それは宇野家、堂本家の計らいによるものだ。



 千枝の両親の苦しみは大きかったが、それでも哲平までも失うわけにはいかないと病院に何度か来てくれた。だが2人を見ると泣いて自分を傷つけようとするその姿に、訪ねるのをやめた。

 宇野の家に泊まって和愛の面倒を見る。それだけが今は千枝との繋がりを確かなものにしてくれる。


「哲平さん…… 早く治ってほしい……」

 勝子と多枝子は抱き合って泣いた。泣いても泣いても涙が溢れた。

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