第3話碩学の研究3 ~ダヴィンチやベートーベンであったならば~

スマートフォンでネット動画やネットゲームを楽しんでいる若者たちを叱った所でしょうがない。我々の世代も紙媒体の漫画やテレビゲームと言った当時最新鋭のテクノロジーを使ったポップカルチャーを楽しんで、上の世代に叱られていた訳ですから。今の若者たちも大人になればまた下の世代を叱る。


わたしはクラシック音楽や古典絵画といった現在「高尚」とされている文化も、その繁栄期に遡れば当時最新鋭の大衆娯楽であった、という歴史観を持っています。古典芸術を過度に有難がる「意識高い系」には、それは勘違いに過ぎないと指摘しておきたい。


つまり、ダヴィンチやベートーベンも16,17世紀の当時まで遡れば、決して浮世離れした専門性などではなく、大衆に広く愛された分かりやすいポップカルチャーであり最新鋭のテクノロジーであったという歴史観。それが「高尚」であるとされたのは後世の専門家たちが伝え方を間違えてきたからではないかということ。現代の「任天堂」や「ジャンプ」なども数世紀のちには、「高尚」な専門知のように祭り上げられるのではないかと予測しています。これが「正当」な文化であり「高尚」な芸術であるのだ、といった具合に。


我々大衆の大半が古典芸術に辟易しているのも、ダヴィンチやベートーベンがおかしいのではなく、その後世の大した創造性も持ち合わせない「専門家」たちが伝承の仕方を間違えているからではないか。


もし、現代に本物のダヴィンチやベートーベンが現れて実際にカルチャーを披露すれば、どんな無教養な門外漢でも感動したであろうし、そもそもダヴィンチなら全く違うモノ、現代の最新テクノロジーを使った、本当に面白い誰もが感動するような文化を創造し披露したのではあるまいか。ですから、ナントカ音楽大学とか古典芸術の焼き直しを繰り返して、大衆はバカだと呪詛を吐いている連中を過度に崇める必要はないという立場。


もちろん歴史の本質の伝承者として古典を改め続ける専門家たちは必要であり、その仕事まで貶める意図は全くないのであるが。ただ、本物の天才、ダヴィンチ、ベートーベン、ガリレオであったら過去の偉人の模倣で満足する人生であったであろうか。否、と考える。


なので、どれほど嫌われても伊東乾たちが全く新しいモノをcreateし続けることを期待しているし、本物の天才が同時代に生きている奇跡を、少なくともわたしはwatchし続けようと思う。

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