Lesson-03《おやすみなさい》
毎日「おはよう」と「おやすみ」だけはメッセージを送っている。宿題のこととか部活のこと。熱心に報告し合っていたときもあったけど、だんだんとやらなくなった。
言いたいことがあっても文字にすると長くなってしまうから、直接話ができたらいいんだけど、学校だと友だちと一緒にいて話しかけづらい。大した用事もないのに電話をしてもいいのかな、と電話をかける直前の画面で固まってしまう。
もっともっと話したいことがある。わたしのことを知ってほしい。
――彼は魔法使いだと思う?
ジョンに言われた言葉。彼は魔法使いではない。言葉にしないときっと分からない。わたしは彼女だよねって確認するんだ。
何も考えないようにして通話のボタンに触れる。まずは「いま何してるの」って聞いてみよう。坂下君は何て反応するだろう。
長いコールのあと、ようやく電話が繋がった。ベッドの上でわたしは正座をしていた。自然と背筋が伸びる。
「もしもし? わたし。渡辺ですけど」
「もしもし? あー……」
知らない女の子の声。掛け間違えた? 頭のなかが真っ白になる。
「ごめんね、健人、いま電話に出れなくてさ」
健人と呼び捨てにしている。お母さんかな? それともお姉ちゃん? 坂下君からはお姉ちゃんの話も、妹の話も聞いた記憶がなかった。
「ま、間違えました」
震えるスマホの画面。通話終了ボタンを慌てて押して枕元に放り投げた。胸がぎゅうっとなる。
そのままベッドに倒れ込んだ。わたしとは遊んでくれないのに、別の女の子とは遊んでるのかな? 起きてほしくない想像ばかりがぐるぐると頭のなかを駆け巡る。
しばらくしてからスマホが鳴ったけど、わたしは出なかった。画面に出た坂下君のフルネームはすぐに消えて真っ暗になった。
その日、わたしは「おやすみ」を伝えなかった。
「《せっかくの可愛いまつ毛が見えなくなったね。眼鏡のクミも最高だけど》」
ジョンはそう言ってくれるけど、わたしの目の下が赤く腫れていることに、彼なら気づいているかもしれない。
「《クミ、あれは何ですか?》」
休み時間に男の子たちが、黒板にチョークで絵を描いていた。
「《りんご、ごりら、ラッパ、パンダ、意味はわかるけど、あれに何の関連性があるんだ?》」
「あれはしりとりをしてるの」
「《しりとり?》」
ジョンからそのままの言葉で返ってくる。初めて聞いたような反応だった。
「最初の文字と最後の文字が同じになるようにして絵を繋げる遊び」
「《それだと『りんご』の次は『象』じゃないか?》」
なるほど、英語だとそうなるのか。
「日本語だと文字が繋がっているの」
「《そこの君たち、わたしも描いてもいいですか》」
ルールを理解したばかりのジョンは黒板に近づいていく。男の子たちは予期せぬ人物の登場にビックリしていたようだけど、同時にわくわくもしているようだった。
「《次は『あ』? 『だ』?》」とたずねている。
「ジョン君すごいよね。わたしだったらあの中に入るのちょっと勇気いるな」
わたしの隣で香苗が言った。
黒板に絵を描いているのは他のクラスの男の子も混じった男子だけのグループだった。わたしもあまり話したことがない。
「面白そうなのに、わたしが邪魔しちゃったら悪いかなって」
「そんなこと考えるんだ。ちょっと意外かも」
「そう? 結構考えちゃうよ。ひとりでいるのが好きなのかなとか」
「わたしが転校してきたときも、そうだった?」
「あれ? 久美子って転校してきたっけ?」
「覚えてないの?」
転校してきたわたしに、優しく接して来てくれた男の子が坂下君で、女の子が香苗だった。みんなの輪のなかに、一緒にやろうよと手を引いて誘ってくれたのだ。
「そんなことあった?」
「あったあった」
だいじょうぶ。わたしには香苗がいる。ひとつの世界が終わってしまったとしても、他の世界がある。
ジョンは黒板に角ばった何かを描いていた。さっぱり分からない。野球のホームベースかもしれない。
男の子たちも頭をひねって考えている。
「《オッケーオッケー。サービスだ》」
ほとんど通訳のいらないような通訳をしたあとに、ジョンは星のようなキラキラしたマークを追加した。
「もしかしてダイアモンド?」
「《正解。君にポイントをあげよう》」
ジョンと正解した男の子は固く握手を交わしていた。
「じゃあ次は『ど』だよね? それとも『お』?」
「次、わたしも描いていい?」と言ったのは、わたしの隣にいた香苗だった。
「《彼女の名前はカナです》」
「《わたしの名前は
名前も知らない男の子が香苗にチョークを渡す。
「《次は『ど』でも、『お』でもありません。『デゥ』》」
いやいや。ネイティブのリアルな発音のやつ。
「そんな音、日本語にあるかな?」
「《『D』でもいいですよ》」
香苗もみんなも笑っていて和やかな雰囲気に包まれていた。
「なあ、渡辺。ちょっといい?」
坂下健人――わたしのなかで終わりかけた世界が、声を掛けてくる。
「ちょっとって何?」
「昨日、なんかあった? 電話くれてたけど」
坂下君の代わりに電話に出てきた女の子。問いただして、悪いほうの答えが返ってきたら耐えられない。
「別に用事はなかったんだけど、ごめん」
「別にいいけど、何かあったのかなって心配するじゃん。急に電話あったら」
「だって」
言いたいことがあっても、飲み込んでしまう。ぐっと我慢しないと、気持ちが溢れてきてしまう。
「あれってさ、何に見える? 黒板の絵。香苗が描いてるやつ」
ジョンが描いたダイアモンド。その次に香苗は髪の長い女のひとを描いていた。
「『D』から始まる言葉みたい」
「何かのキャラクターかな。有名人とか?」
「みんなが分かる絵だと思うんだけど、D、D……」
「《これは『人形』ですね》」
「そう。正解」
香苗はうれしそうにそう言って、ジョンと握手を交わしていた。
「ドールのDか。たしかに、俺の姉ちゃんの部屋にもあんなのがあるな」
「お姉ちゃん? ……いるの?」
「言ってなかったっけ?」
「初めて聞いたけど。……なんか思いっきり、勘違いしてた。良かった」
「何が?」
「それは言えないけど」
あまりにも恥ずかしくて、バカバカしくて言えるわけがない。
「……とりあえず、疲れちゃったから寝る。おやすみ」
わたしは机に突っ伏して、世界から逃げ出した。
「おやすみ」
坂下君から初めて、直接聞いた『おやすみ』の声は、わたしのなかを駆け巡って、ほろりとまた、感情がゆれた。
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