第7話 月には兎がいる -6-

「ふう……生き返る……」

湯船につかってしばし無に帰る。一人で落ち着いて頭の中を整理したかったが、それももう億劫だった。ただ家族が多いので、あまり長居していられない。今日は特に気疲れしたので、普段よりやや長く浸かりすぎてしまった。そろそろ上がろうかという時に、風呂場のドアをノックする音が聞こえる。おそらく次の人の催促だろう。


「はいはい、もう上がる————」


「祥太郎、一緒に入ろう!」


 唐突にドアが開き、タオルで軽く前を隠した真朱まそおが風呂に乱入してきた。

「うおあああわああああ」

阿鼻叫喚の祥太郎。

「ちょっ、何を――! ていうかご飯の前にお風呂入ってたじゃないですか!!」

「汗かいちゃったから、もう一回シャワー浴びようかなって」

「だからってそんな、急に入って来られたら困るんですけど!」

「ごめん~。でももっと親睦を深めたいなって思って。裸の付き合いってやつ?」

――いきなりハードモード過ぎるっ! こちとら彼女もいない冴えない一介の男子中学生だぞ。全く一体この人は、祥太郎を子供と思ってからかっているのか。わかっていてやっているなら、かなり性質が悪い。


「ちょっと待ってて、俺が出るから……!」

床のタイルに視線を落とし、ササッと湯船から上がろうとすると、腕をつかんで引き戻される。

「何でそんなに慌てて出るの? 別に恥ずかしがることないじゃない、だって……」

「いや、あなたこそ、もっと恥じらいとかをですねっ……! 俺、13歳ですけど、ちゃんと男です。言ってる意味わかりますか?」

「うん、男同士なんだから、何も問題ないじゃない」

「——はい?」


男……同士……? いやだってさっき……

「男の人じゃないって言ってましたよね?」

「うん。男、だけど『人』ではないから、『男の人』ではないよ?」


(はぁ~? )

意味がわからない。人ではないってどういうことだ? 頭が混乱している。加えて湯船に長く浸かっていたせいで、視界が白くかすみ意識も朦朧としてきた。

「ごめん、今ちょっと頭働かないかも。とりあえず上がる……」

と、浴槽から足を踏み出したところでクラッときて、にごり湯でぬめった床に足をとられ、スッテーンと見事にすっ転んだ。

「祥太郎っ!」

「いてて……」

蛇口のあたりで額を打ったようだった。鈍い痛みと、遅れてドロっと生ぬるい液体が垂れてきて鉄のにおいがした。手で拭ってみるとそこそこ出血しているようで、指先が真っ赤に染まっていた。


「ああ、祥太郎……ごめんなさい。そんなに驚かせるつもりじゃなかったのに。痛かったよね」

真朱が傍らにしゃがみ込み、心配そうな顔で覗いてくる。この感じだと、もしかしたら何針か縫わないといけないかもしれないなと、ぼーっとする頭で考えていた。すると、

「ちょっとじっとしててね」

真朱は自身のおでこに人差し指と中指、二本の指をあて何事か小さな声で唱えた後、その指を祥太郎の傷口にスッとあて、祈るように目を閉じた。


 ああ、男でもまつげがすごく長いんだなあ、などとどうでもいいことを思っていると、次第に傷口の周辺がぽかぽかと暖かくなり、次第に痛みがやわらいでいくのを感じた。指先で触れられているところが心地良い。そのまま真朱は十数秒指をあて続け、最後に傷口に沿って優しくなぞるように二度ほど指を往復させると、なんと傷が治っているではないか。


「え、あれ、治っ……て……?」

出血した跡は確かに残っているのに、傷口は綺麗さっぱり無くなっていた。立ち眩みもだいぶ落ち着いてきた。

「ねえ、あなたは一体……」


 真朱は祥太郎の手を取り、真っすぐに目を見つめて答える。

「祥太郎が不安に思う気持ちは理解できるよ。突然現れて、何者なのかもよくわからなくて、戸惑うのも仕方ないよね。でも、これだけは信じて。僕はここに来られて、祥太郎に会えて、今すごく嬉しい」

紅く燃えるような瞳に吸い寄せられ、祥太郎も目を逸らすことができない。


「だから、特別。もう一つ秘密を見せるね」

そう言うと、真朱は両目を閉じて、また何やら意識を集中している様子だった。


「祥太郎、目を閉じて。僕が『いいよ』って言うまで開けちゃだめだよ」

祥太郎は素直に従った。繋いだ手の先から何かエネルギーの流れのようなものを感じるような気がした。閉じたまぶたの裏が徐々に明るくなっていき、目を瞑っていても眩しさを感じるくらい光が最高潮に達したあと、今度は再び緩やかに明るさが引いていった。


「開けていいよ」

ゆっくりと目を開く。目の前に真朱の姿はなく、代わりにいたのは————


「う、うさぎ……!?」

まだ誰にも踏まれたことのない雪のように真っ白な、紅い目をした、それはそれは美しいうさぎだった。


 その小さなうさぎは、輪郭がかすむほどに光をまとっていた。ギラギラして目に痛いものでは無く、とても優しい光。それはオーロラのごとくゆらめき、幻のように儚げに見える一方で、生命いのちのエネルギーの輝きとも言える力強さを持ち合わせていた。手を伸ばして触れたいという気持ちと、しかし自分が触れることで、この清廉さを穢してしまうのではないか、そんな気がして恐ろしくもあった。これが彼の正体。


「祥太郎、僕を抱いてくれる?」

そろそろと腕を伸ばしてうさぎを抱きあげる。とても柔らかくて暖かくて、鼻をうずめると同じシャンプーのにおいがした。うさぎも鼻先をすり寄せてくる。


「これで裸の付き合いができたね」

思わず祥太郎は吹き出してしまった。

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