宇宙拳人コズマ 対 暗黒拳人ブラックコズマ-4

 ひゅっ――と、するどい音が生じた。


 拳が空を切る音だ。


 都内にあるトレーニングジムの一室である。

 時刻はすでに夜半を回っている。

 裸電球が吊られただけの薄暗い室内に、小気味のいいリズムが響く。


 素人が闇雲にパンチを繰り出しても、こういう音はぜったいに出ない。


 腕の力だけを鍛えたのではだめだ。

 腸腰筋や腹筋・背筋といった体幹部の筋肉からじゅうぶんなパワーを引き出さなければならない。

 腕が伸びきったタイミングで、肘や手首の関節をしっかりと固定する技術も重要になってくる。

 それらのテクニックがすべて揃って、はじめて威力のある拳を打つことができるのである。


 その点に関して、いまシャドーボクシングをおこなっている男は、ほとんど完璧にちかい技量の持ち主といえた。


 風祭かざまつり豪史たけし

 宇宙拳人コズマの演者である。


 第五話が放送された翌日、風祭はようやく退院を許可された。

 それからというもの、ベッドの上で無為にすごした時間を取り戻すように、風祭はひたすらトレーニングに打ち込んできた。

 まだ陽が昇らぬうちから往復三◯キロの走り込みをこなし、その後は深夜まで筋トレやサンドバッグ打ち、シャドーボクシングに明け暮れたのである。

 ジムの使用料などは、橘川が日陽テレビを通してすべて手配してくれた。


 いちどついた筋肉は、一週間ばかりトレーニングを休んだとしてもそうそう落ちるものではない。

 病気やケガで筋力が落ちたとしても、まったくのゼロに戻るのではなく、短期間のうちに元の状態に復帰することができる。

 これを、マッスル・メモリーという。

 この時代、言葉としてはまだ存在していないが、身体を鍛えている人間には周知の事実であった。


 衰えた肉体を元にもどすだけであれば、ここまで過酷なトレーニングをおこなう必要はない。

 限度を超えたトレーニング――いわゆるオーバーワークがもつ危険性は、当の風祭もじゅうぶん認識している。

 それでも、風祭が自分自身に過酷なメニューを課したのは、からだ。


 橘川が持参した第五話のフィルムを見た風祭は、言葉を失った。

 コズマ第二号――黒衛のおそるべき実力を目の当たりにしたためだ。

 これまで闘ってきた叢雨流の門弟たちは、ファイトスタイルこそちがえど、いずれも一流の武術家ぞろいだった。

 マグナムウルフに入っていた男にしても、映像を見るかぎりでは、叢雨流でも屈指の実力者であったことはまちがいない。

 もし予定どおり風祭がコズマに入っていたなら、かなりの苦戦を強いられたはずであった。


 そのマグナムウルフを、黒衛は難なく片付けたのである。

 後半戦はもはや真剣勝負ではなく、結末ありきのショーを演じていただけだ。

 これまでの叢雨流の門弟たちとは、文字どおり格がちがう。

 それは、彼らと互角の戦いを繰り広げた風祭自身にも当てはまることだ。

 もしなにも知らずに黒衛と闘っていれば、まちがいなく敗れていただろう。


 風祭に休養を取らせ、あえてみずからの手の内を晒すような真似をしたのも、黒衛にしてみれば余裕の裏返しなのだ。


――おもしれえ……。


 風祭の胸のうちにあるのは、奇妙な感情だった。

 自分より強い敵に挑む。

 久しく忘れていたその感覚は、怒りというよりはむしろ歓びにちかい。


――まさか叢雨覚龍斎のほかに、あんな男がいたとはな……。


 頭のなかに黒衛の幻を描き、あたかも実際に闘っているかのようにシャドーボクシングをおこなっていると、自然に笑みがあふれてくる。

 

 特撮の行く末がどうなろうと、正直なところ風祭にはどうでもいいことだ。

 ただ、強い敵と闘いたい。

 思うぞんぶん、自分の力をぶつけてみたい。

 その思いこそが、ここまで風祭を引っ張ってきた原動力なのだ。


 ふいに物音が聴こえたのはそのときだった。

 風祭はシャドーを止め、ジムの入り口のあたりに視線をむける。

 薄闇のなかに佇むしなやかな人影を認めて、風祭はおもわず声を洩らしていた。


「黒衛――――」


 黒いスーツ姿の美青年は、薄明かりの下へと進み出てくる。


「こんばんわ、風祭さん。トレーニング中のところお邪魔して申し訳ありません」


 二人は、一・五メートルほどの距離を置いて対峙する格好になった。

 どちらかがあと一歩でも近づけば、無意識に手か脚が動く。

 そういう緊張感をはらんだ間合いであった。


「収録は日曜日だぜ」

「ご心配なく――今日は闘いにきたわけではありません」


 黒衛は氷のような視線で風祭を見据え、ぽつりと言った。


「風祭さん。次の試合、わざと敗けてはいただけませんか」


***


 黒衛がジムを立ち去ったのは、それからまもなくのことだった。

 

 時間にすれば二十分にも満たないだろう。

 そのわずかなあいだに、黒衛は自分の生い立ちを風祭に語った。

 香港のスラムですごした幼少期。

 そして、育ての親であり師匠でもある人間を失ったこと……。

 それは、黒衛がどうしても自分の手で覚龍斎を倒さねばならない理由でもあった。


――それで、俺に敗けろというわけか?


 感情を抑えて問いかけた風祭に、黒衛は平然とこう言いのけた。


――あなたには、生命の危険を冒してまで覚龍斎と闘う理由もないでしょう。私にはそれがあるというだけのことです。

――だから、最終回は自分にコズマを譲れというわけか。

――そう受け取っていただいてかまいません。


 わずかな沈黙のあと、風祭はふっと唇を歪めると、


――あんたにゃ悪いが、お断りだ。


 黒衛にむかってはっきりと言ったのだった。


――事情がどうあれ、俺はおまえと闘いたい。覚龍斎ともな。理由はそれだけだ。

――今度こそほんとうに死ぬかもしれませんよ。

――そんなことは、ってみなけりゃわからねえさ。


 もはやこれ以上の対話は無益と悟ったのか、黒衛は「邪魔をしました」とだけ言って踵を返した。

 その背中にむかって、風祭はあくまで不敵にこう言い放ったのだった。


――日曜日、おまえと闘うのを楽しみにしてるぜ。


 無言でジムを出た黒衛は、人目を避けるように狭い路地へと入っていった。


 街灯もまばらだというのに、あたりは妙にあかるく感じられる。

 ふと顔をあげれば、夜空には白い月が浮かんでいる。

 香港のスラムにいたころ、雑居ビルの屋上で見上げたのとおなじ月であった。


「衛大哥、あんたの仇はかならず取る……」


 黒衛はだれにともなくひとりごちると、暗闇のなかへと消えていった。

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