宇宙拳人コズマ 対 暗黒拳人ブラックコズマ-2
路地裏の暗闇。
むせかえるような血と汗の匂い。
そのふたつが、少年の世界のすべてだった。
少年が育ったのは、
百年ちかく違法な増改築を繰り返し、もはやだれにもその全貌を把握することはできないと言われた奇怪な雑居ビル群がよこたわる一角である。
どうやってそこに流れ着いたのかは少年自身にもわからない。
わかっているのは、物心ついたときには、すでに骨の髄までスラムの空気に馴染んでいたということだけだ。
スラムは、観光客でにぎわう香港島や、多種多様な商業施設が立ち並ぶ中心市街から数キロと離れていない場所にある。
文字どおり目の鼻の先にありながら、街はそうした表の世界とはかけはなれた性格をもっていた。
すなわち、宗主国イギリスだろうと香港の行政府だろうと、表の支配者がさだめたルールは、スラムではいっさい通用しないのである。
だからといって、まったく秩序を欠いた無法地帯というわけではない。
表の世界には表の世界の、スラムにはスラムのルールがあるというだけのことだ。
スラムには、しかし、秩序を維持するための警察も司法も存在しない。
それでも人々が最低限のルールに従うのは、外の世界同様、法を破った人間には罰が与えられるからだ。
ここでは罰金を支払ったり刑務所に入るかわりに、罪人はみずからの血でおのれの犯した罪をあがなうことになるのである。
とはいえ、相手の腕力が強かったり複数である場合、被害者自身が報復をおこなうことはむずかしい。女子供や老人であればなおさらだ。
いっぽうで、スラムの住人のなかには、武術に通じた者もいる。
彼らは金銭と引き換えに制裁の代行を請け負うようになり、やがて
少年の育ての親も、そうした片付け屋のひとりだった。
”
それが役職に由来するあだ名だったのか、あるいはほんとうに衛という姓だったのか、もはや真実を知る術はない。
育ての親とはいっても、少年との歳の差はせいぜい十歳かそこらでしかない。
傍目にはすこし歳の離れた兄弟のようにも見えただろう。
当時まだ二十歳になるかならないかの若者だったにもかかわらず、衛はすでに片付け屋としてそれなりに名の通った存在だった。
その実力もさることながら、彼独特のやり方がスラムの住人たちに好まれたのだ。
制裁にあたって武器の類をまったく使わないのである。
武器――とりわけ銃器のたぐいは、いたずらに騒動を大きくし、また無関係の第三者を巻き添えにするおそれがある。
もし死人が出るようなことがあれば、住人同士での復讐合戦にも発展しかねない。
秩序を守ろうとしていっそう秩序が乱れてしまっては、まさしく本末転倒だ。
徒手空拳のみでスマートにかたをつける衛ならば、そんな心配もいらないというわけだった。
衛は中国拳法の使い手である。
だが、その技は、南拳・北拳のいずれとも異なっていた。
”南拳北腿”という言葉に表されるように、南拳は手技(拳)、北拳は腿法(足技)をそれぞれ得意としている。
衛は手技も腿法も、さらには擒掌(関節技)も別け隔てなく用いる。見様によってはそのどちらでもあり、またどちらでもないということだ。
なにより驚くべきは、その若さで技術はすでに高手(名人)の域にあるということだ。
師父は誰か、どこで修行したのかと人に問われることもしばしばだったが、そのたびに衛は適当にごまかすばかりだった。
そんの衛のもとで成長した少年には、いつのころからか”
周囲の大人たちが勝手にそう呼びはじめたのである。
中国語の黒は”地下”や”闇”といった意味をもつ。小黒衛は「衛のところの得体のしれない小童」とでもいったところだ。
衛は少年を”
片付け屋として生計を立てるかたわら、衛は小黒に拳法を教えるようになった。
最初は、体力を養うための基礎的なトレーニング。
次は、套路(型)の練習。
それが出来るようになったところで、稽古はいよいよ実戦的な段階へと移っていった。
換勁――すなわち、ここまで鍛えてきた拙力(筋力)を、じょじょに勁力へと置き換えていったのである。
――俺がそばにいるあいだは守ってやる。だが、俺がいなくなったら、自分の身は自分で守らなければいけない……。
稽古の最中、衛はときおりそんな言葉を口にした。
いっぽうの小黒はといえば、さして気に留めることもなく、乾いた土が水を吸い込むように拳法を覚えていった。
ただの子供だったなら、どこかで壁に突き当たり、挫折していただろう。
小黒がそうならなかったのは、たぐいまれな天性の素質があったからだ。
武術の天才と言い換えてもよい。
いちど見ただけで技の勘どころをつかみ、教われば二度と忘れることはない。
そういう小黒だったからこそ、衛もまた本気で稽古をつけたのである。
小黒が一定の技量に達したのを見計らって、衛は彼を仕事に同行させるようになった。
稽古ではけっして得られない経験――実戦での立ち回りを覚えさせるためだ。
華々しい套路を習得しても、じっさいの闘いで通用しなければなんの意味もない。
自分を殺すつもりでむかってくる相手を確実に倒すためには、なによりも修羅場の空気に慣れることが肝心なのだ。
幾度となく死線をくぐりぬけるうちに、小黒は見違えるほどの強さを身につけていった。
もはや濃密な血の匂いにたじろぐこともなく、命乞いをする敵に無用の情けをかけることもない。
――もし俺が死んでも、ひとりでやっていけるな……。
仕事が終わると、衛はしばしばそんなことを言った。
冗談とも本気ともつかない口調であった。
小黒は内心ひどく不吉なものを感じながら、
――俺のほうが強くなるまで、衛
そのたびに、わざと明るく返したのだった。
***
それから、五年あまりの月日が流れた。
小柄な少年だった小黒は、長身痩躯の青年へと成長を遂げていた。
正確な年齢は判然としないが、身体つきからみて、すくなくとも十四、五歳にはなっているはずであった。
ちかごろは、ひとりで仕事に赴くことも多い。
日々のたゆまぬ研鑽の甲斐あって、小黒の勁は、もはや師匠である衛とほとんど遜色ない水準に達しつつある。
相手がよほどの使い手でないかぎり、彼ひとりで事足りるというわけだった。
その日も、小黒に仕事をまかせ、衛はひとりでスラムの外に出かけていった。
どこへ行くのかと問いかけた小黒に、衛は日本からの客人に会ってくるとだけ答えた。
――珍しいこともある……。
小黒が知るかぎり、衛に
一年じゅう観光客でごったがえすビクトリア・ハーバーあたりならいざしらず、ここスラムでは、外国人を見かけること自体めったにない。
いったいどこで知り合ったのか? どういう人間なのか? そいつはなにをしにきたのか?……
興味は尽きなかったが、出かけていく衛に根掘り葉掘り質問することははばかられた。
日本人であれば、黒社会と繋がっている心配はまずなかろう。
やばいことに巻き込まれることはないはずだった。
片付け屋の仕事は、その日も問題なく終わった。
適当に時間をつぶし、雑居ビルに戻ってきた小黒は、はっと息を呑んだ。
狭く暗い廊下に、今朝まではなかったあざやかな赤色の帯が敷かれている。
人間の血だ。
血まみれの人間を、何者かがここまで引きずってきたのだ。
まだ乾いていない血の敷物は、衛と小黒の部屋のまえで途切れていた。
――衛大哥!!
おのれが流した血の海のなかにぐったりと横たわる衛の姿を認めて、小黒は無意識のうちに叫んでいた。
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