第六話「宇宙拳人コズマ 対 暗黒拳人ブラックコズマ」

宇宙拳人コズマ 対 暗黒拳人ブラックコズマ-1

 都内――

 叢雨流の本部会館ビル。

 その最上階に、総帥・叢雨覚龍斎の稽古場はある。

 便宜上稽古場と呼ばれてはいるものの、じっさいは覚龍斎の個人的なトレーニング・ルームだ。

 

 部屋の広さは三十畳ほど。

 床は武道場によくある木板や畳ではなく、黒いゴムマットが隙間なく敷き詰められている。一枚の鉄板を二枚の厚いゴムで挟み込み、どれだけ強く踏み込んでも抜けることがないそれは、わざわざアメリカから取り寄せた特注品であった。

 四方を囲む壁の一面は、天井から床までまるまるガラス張りになっている。

 バルコニーやテラスはない。

 ガラス一枚隔ててと切れ落ちたむこうがわには、大東京の雑然とした街並みが広がっている。


 通りをせわしなく行き交う人々……。

 一瞬も途切れることなく流れていく車の流れ……。


 そんな外界の喧騒を見下ろしながら、叢雨覚龍斎は黙々とバーベルを上下させている。

 デッドリフトと呼ばれる筋力トレーニングだ。

 バーベルの両端に装着した重石ウェイトは、あわせて三百キロ。

 それを、腕の力だけで股間から胸の高さまで持ち上げ、また降ろすことを繰り返すのである。


 ひどく緩慢な動作であった。

 一往復あたり三分はかかっているだろう。

 持ち上げるのに苦労しているそぶりはない。――むしろ、その逆だ。

 バーベルはゆっくりと動かしたほうが筋肉に負荷がかかり、トレーニングの効果が上がるのである。


 筋組織は、疲労と回復のサイクルを繰り返すことで、じょじょに肥大化していく。

 限度を超えたオーバーワークはむろんのこと、休ませすぎても、筋肉はうまく育たない。

 がむしゃらな根性論では、みずからの肉体を鍛え上げることさえままならないのである。

 戦前、まだ日本にウェイトトレーニングという概念が存在せず、怪力法と呼ばれていた時代から、覚龍斎は理詰めの鍛錬をみずからに課してきた。


 いずれにせよ、還暦にちかい年齢を考えれば、常識はずれの荒業であった。


「なあ、黒衛くろえよ。今年は夏に雪が降るかもしれんぜ――」


 覚龍斎はあいかわらずバーベルをゆったりと動かしながら、くつくつと低い笑い声を洩らす。

 視線は窓の外に向けられたままだ。

 ガラスに映った黒髪の美青年にむかって、覚龍斎はなおも言葉を継いでいく。


「どういう意味でしょう、総帥――――」


 黒衛は覚龍斎の背中にむかって問いかける。

 道着を透かして隆起した筋肉がはっきりと見て取れる、すさまじい背中であった。


「珍しいこともあるってことさ」

「はて……」

「とぼけるなよ。おまえさん、ずいぶんになってるじゃねえか」


 覚龍斎の腕が、ちょうど胸のあたりで静止した。

 折り曲げていた肘を、前方にむかってすこしずつ伸ばしていく。

 宙に浮いた三百キロのバーベルは、地面に置かれたみたいに微動だにしない。

 いったいどれほどの膂力があればこのような芸当が可能になるのか。


 いまこの瞬間も両腕の筋肉を苛みつづけているバーベルの存在を無視して、覚龍斎はなおも黒衛に語りかける。


「このあいだの放送、よかったぜえ。桃井にはちと可哀想なことをしたかもしれんがなあ」

「執念と言うのでしょうか。一度拳を交えただけの人間……私にとってはどうでもいい相手にそういった類の感情を抱かれるのは、正直なところ迷惑ですからね」

「そうは言うがな。いまのおまえさんには、桃井の気持ちもすこしはわかるんじゃねえか」

「……」

りたくてうずうずしてるんだろう? あのコズマの野郎とよ」


 覚龍斎の顔貌がふいに歪んだ。

 いよいよバーベルの重さに耐えかねたのではない。

 肉の内側から沸き起こったこらえきれないほどの歓びに、おもわず相好を崩したのだ。

 牙を剥いた肉食獣を彷彿させる、それは凶暴な笑みであった。


「かまわんぜ、黒衛。思う存分、とことんまでってこい。そして、もし、おまえが勝ったら――――」


 覚龍斎は、ひときわ声を弾ませて告げる。


「そんときは、俺と最終回でろうじゃねえか。――おまえの最愛の人間を殺したこの叢雨覚龍斎と、よ」

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