宇宙拳人コズマ第二号 対 怪星人マグナムウルフ-3
一昨年の冬――――
柔道家・
桃井は身長一八八センチ、体重一三◯キロ。
岩石を人のかたちに荒く削ったなら、こういう男が出来上がるだろう。
軟骨がすりつぶれてしまった獅子鼻と、不細工な餃子みたいなかたちの耳は、柔道に本気で打ち込んできた証だ。
小学生のころから柔道を習いはじめた桃井は、成長とともにめきめきと頭角を現していった。
高校・大学と学生柔道選手権では二度優勝し、先のオリンピックでも日本代表に選ばれた実力者である。
惜しくもメダルは逃したが、桃井が当代最強の柔道家であることを疑う者はいなかった。
近代柔道の基礎を築いた嘉納治五郎や、世界に柔術の強さを知らしめた前田光世=コンデ・コマの再来とまで称されるほどだったのだ。
次のオリンピックでの活躍はむろん、ゆくゆくは指導者として日本柔道界を背負って立つ逸材として将来を嘱望されていたのである。
その桃井が、突如として柔道を捨て、叢雨流に宗旨変えをしたのである。
転向に至った理由は、いまなおつまびらかになっていない。
桃井自身は黙して語らず、また叢雨流の側でもノーコメントを貫いているためだ。
それでも、人の口に戸は立てられないものだ。
いつのころからか、柔道界を中心にこんな噂が人々の口の端に上りはじめた。
桃井が叢雨流に入門したのは、敗北の代償だというのだ。
噂の内容は、おおまかにいえば次のようなことになる――――
日本武術界に君臨する叢雨覚龍斎に、桃井は勇敢にも挑戦状を叩きつけた。
だが、門下生三万人の頂点に立つ覚龍斎と、しょせん一介の柔道家にすぎない桃井とでは格が違う。
そこで、桃井は真剣勝負に先立ってひとつの条件を覚龍斎に提示した。
もし自分が敗れた場合には、いさぎよく柔道を捨て、叢雨流に弟子入する――と。
はたして、桃井は覚龍斎に敗北し、みずから宣言したとおり叢雨流の軍門に下ったのだ。
ことの真偽はともかく、いかにもありそうな話ではあった。
常日頃から叢雨流こそが真に最強の格闘技であり、柔道も空手もボクシングもしょせんスポーツにすぎないと断言してはばからない叢雨覚龍斎である。
武術界にも覚龍斎の傲岸不遜なふるまいを快く思っていない人間は多い。
じっさい、自流の誇りを傷つけられたと憤慨し、覚龍斎に挑戦状を叩きつける武術家は後を絶たないのだ。
それも、血気にはやった若者だけでなく、名のある流派の師範までもが叢雨流本部に乗り込み、ことごとく返り討ちに遭っている。
もっとも、覚龍斎がじきじきに挑戦者の相手をすることはまずない。
叢雨流の門戸を叩いた挑戦者は、まず「なにがあっても自己責任である」旨の念書を書かされる。
これで挑戦者がどんな大怪我をしようと――最悪死んだとしても、叢雨流に一切の責任はないということになる。
叢雨流の側にしてみれば、人間サンドバッグが自分から転がり込んできたようなものだ。
あわれな挑戦者は、泣いて許しを請うか、痛みに耐えかねて気絶するまで、えんえんと門下生のスパーリングの餌食にされるのである。
もし挑戦者の実力がほんものなら、段位持ちから師範代クラスと闘う相手がステップアップし、最終的には覚龍斎と闘うこともできるかもしれない。
いずれにせよ、途方もない苦難の道にはちがいない。
それでも、じっさいに、桃井は叢雨覚龍斎まであと一歩のところに迫ったのである。
柔道着ひとつで叢雨流の本部会館に殴り込みをかけた桃井は、五十人からの門弟たちをあっさりとひねり潰した。
拳や蹴りといった打撃は一切使わず、柔道技だけで「参った」と言わせたのだ。
門弟たちのぶざまな姿を見かねて、こんどは高位の有段者が相手をすることになった。
そして、あんのじょうと言うべきか、彼らも桃井にことごとく敗れ去ったのだった。
叢雨流の側にもあせりが生まれていた。
総本山たる本部会館が道場破りに屈したとあっては、叢雨流の沽券にかかわる。
このまま桃井の快進撃を許すわけにはいかない。
総帥である覚龍斎にお出ましねがうのが最も確実だが、叢雨流においては覚龍斎に命令することはおろか、お願いをすることさえタブーなのである。
覚龍斎はだれの言葉にも従わない。
ただ、自分の心のおもむくままに生きている。
それは百獣の王ライオンが、好きなときに寝、好きなときに喰い、好きなときにメスを抱くのと似ていた。
もし桃井から甘美な闘いの芳香を嗅ぎ取ったなら、覚龍斎のほうから勝手にやってくるはずであった。
最後の有段者が桃井に倒されたとき、道場は重苦しい雰囲気に包まれた。
このうえは、師範代クラスを各地方の道場から呼び寄せるしかない。
自分たちのかわりに道場破りの相手をしてくれとほかの道場に泣きついたとあっては、本部会館のメンツは丸つぶれだ。
それでも、背に腹は代えられない。
と――――ひとりの男が道場にふらりと入ってきたのはそのときだった。
全身黒ずくめの若者だった。
髪は、濡れたようにつややかな黒。
眼も、黒曜石をはめ込んだような黒瞳である。
スーツも靴下もベルトも革手袋も、やはり黒一色で統一されている。
年齢は十八、九歳。
端正な顔立ちと、白く透きとおった肌は、遠目には女と見紛うほどだ。
――――僭越ながら、総帥・叢雨覚龍斎の名代として、私がお相手いたしましょう。
若者――
***
桃井は、井戸のそばにしゃがみこんでいた。
木桶に汲んだ井戸水を
ひょっとすると、木桶の水よりも、体内から吹き出した汗のほうが多いかもしれない。
午前中のトレーニングが終わったあとは、こうして行水をするのが日課だった。
昼飯を食ったら、午後のトレーニングである。
日の出から日没まで、ひたすらトレーニング漬けの毎日だ。
三百六十五日、晴れの日も雨の日も、休むことなく限界まで肉体をいじめ抜く。
いまの桃井は、仕事には就いていない。
それでも、生活するのに困らないだけの金は叢雨流からもらっている。
けっして多くはないが、贅沢を言える立場ではない。
道場破りである自分を師範代待遇で叢雨流に迎え入れてくれたばかりか、武術に打ち込むための理想的な環境を提供してくれたのだから。
無為に日々を過ごしているわけではない。
目標は、ある。
あの男とふたたび闘い、今度こそ倒す。
それが目下の、そして自分の人生にとって最大の目標だ。
修行僧もかくやという禁欲的な生活も、そのためなら苦にはならない。
覚龍斎から特撮に出てもらいたいと言われたときも、桃井は一も二もなく承諾したのである。
オオカミの着ぐるみを被って子供むけのヒーロー番組に出演する程度、人生の目標にくらべればささいなことだ。
ふいに背後に気配が生じた。
こちらにむかって近づいてきたのではない。
気配を消して近くにいた人間が、どういうつもりか気配を消すことをやめたのである。
「
桃井は顔を俯かせたまま、背後の黒衛にむかって呟いた。
「お久しぶりです、桃井さん」
「なんの用だ」
「こんど、特撮にご出演なさるとかで――――」
黒衛の言葉に引っかかりを覚えたのか、桃井の身体から殺気が立ち上った。
こいつは、俺を笑いに来ているのか。
二年前、本部会館で、自分に手も足もでないまま敗北したあわれな男を。
「じつは、私もその番組に出演することになりました。今日お邪魔したのは、そのご挨拶のためです」
桃井はおもわず背後を振り返る。
黒ずくめの美青年は、あの日とおなじ玲瓏たる佇まいでそこにいた。
「宇宙拳人コズマ第二号です。どうぞよろしく、マグナムウルフさん」
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