宇宙拳人コズマ 対 怪星人キラーアルマジロン-3

 トレーニング・ルームに心地よい旋律が響いていた。

 聴く者の心をうっとりととろけさせるそれは、しかし、優美な音曲おんぎょくではない。

 打撃音だ。

 革と革とがはげしくぶつかりあう際に特有の、わずかに湿り気を帯びた音。

 天井から吊り下げられたサンドバッグを打っているのである。


 は、ひとりの男だった。

 彫刻と見まがう精悍な肉体の持ち主である。

 年齢は二十四、五歳。

 じっさいの年齢よりいくらか老けてみえるのは、肉のそげた頬に差した濃い陰影のためだ。

 一七五センチの身の丈に対して、体重は五◯キロに満たない。

 刃物のようにするどく切れ上がった筋肉からみて、体脂肪率は八パーセントを切っているだろう。

 試合に臨む拳闘士ボクサーとして、これ以上ないほど完璧に仕上がりきった状態であった。


 男は軽くステップを踏みながら、サンドバッグめがけて左右の拳を突き出す。

 汗の粒が舞い、電灯の薄明かりを浴びてきらきらと輝く。

 みずからの汗の雨のなかを泳ぐように、男は矢継ぎ早にパンチを繰り出していく。


 右のジャブ。左のジャブ。

 左のフック。右のフック。

 アッパーカット。

 左ストレート。


 そして――右ストレート。


 渾身の一撃をもろに受けたサンドバッグはおおきくたわみ、床にたいしてほとんど水平ちかくまで跳ね上がる。

 サンドバッグとはいうが、ほんとうに砂が詰まっているわけではない。

 革袋の中身は固く突き固められた布やウレタン材だ。

 それでも、その重量は五◯キロから、サイズによっては一◯◯キロちかくにもなる。


 男のまえに吊るされたサンドバッグは八◯キロあまり。

 つまり、自分の体重より重い物体を高々と打ち上げてみせたということだ。

 すさまじいパンチ力であった。

 腕や上半身の力だけでは、どれほど筋肉を鍛えあげたとしても、パンチの威力はたかがしれている。

 骨盤底筋群や腸腰筋といった体幹部の筋肉インナーマッスルからパワーを絞り出すことで、はじめてこれほどの威力が出せるのだ。


 人間とサンドバッグを単純に比較することはできない。

 それでも、もし試合で必殺の右ストレートが決まれば、相手に与えるダメージははかりしれない。

 腹なら内臓破裂、頭なら頭蓋骨骨折はまぬがれないだろう。

 いずれも選手生命を断たれるほどの重傷だが、それでもまだだ。

 破滅的な結果をもたらすのは、頭蓋骨のなかでもひときわ骨が薄く脆弱なこめかみテンプルをねらって打った場合だ。

 相手はたちまち脳挫傷あるいは急性硬膜下血腫を発症し、たとえ病院に救急搬送されても十中八九助からないだろう。

 どんな人間でも拳ひとつで殺すことができる……その確信を持っているという意味で、男の拳は正真正銘の殺人拳といえた。


 プロ・アマをとわず、腕力自慢の格闘家は数多い。

 なにかにつけベンチプレスの重量を自慢したり、トラックと綱引きをしたがるような手合がそれだ。

 だが、絞め技も蹴り技もいっさい使わず、パンチだけで確実に人間を殺せると自信をもって断言できる者は、はたしてどれだけいるというのか?


 男は思う。

 日本最強の流派として君臨する叢雨流にも、それができるのは二人しかいまい。

 ひとりは、言うまでもなく自分自身だ。

 そしてもうひとりは……。


 と、ふいにトレーニング・ルームのドアが開いた。

 あえて「どいつだ」などと野暮なことを尋ねたりはしない。

 だれが来たのかはわかっている。

 肌が粟立つ。腹の底が氷を突っ込まれたみたいにしんしんと冷えていく。

 自分にこんな感覚を与える人間は、この世にただひとりだけだ。


 叢雨流の頂点に立つ男――総帥・叢雨覚龍斎かくりゅうさい

 その彼が巨大な体躯をずいと押し入れたことで、トレーニング・ルームの体積はそのぶん圧縮されたようだった。

 白い道着をまとった覚龍斎は、ゆったりとした足取りで男に近づいていく。

 

押忍オス――――」


 練習中だろうと、総帥に対する欠礼は許されない。

 脇を締め、直立不動の姿勢を取ったままの男に、覚龍斎はにっと嗤う。

 太い鼻梁と太い唇が織りなす、それは太い笑みだった。


「まあ座れや。堅苦しい挨拶は抜きにしようぜ、朱木あかぎよ」


 男――朱木は、「押忍」と短く答えると、トレーニング・ルームの床に正座する。

 先ほどまで吹き出ていた汗はすっかり乾いている。

 覚龍斎の気迫に触れたことで、たちまち蒸発してしまったとでもいうのか。

 ひりつくような緊張感のなかに身を置く朱木にとって、あながち馬鹿げた話とも思えなかった。


 覚龍斎はどっかりとあぐらをかいたまま、朱木に語りかける。


「例の話、おめえもとうぜん聞いてるよな」

「はい。うちの人間が特撮ヒーロー番組に出るという……」

「その件だが、一番槍は朱木、おまえさんにやってもらいてえのさ」

「私が最初に出演するということですか」

「まあ、そんなところだ」

 

 覚龍斎は朱木の眼をまっすぐ見据えたまま、荒波に削られた岸壁みたいな顔にふっと笑みを浮かべる。


「不満があるなら遠慮なく言えや。なにしろ、朱木あかぎ蓮二れんじといえばライト級東洋チャンプは確実といわれたボクシングの天才だ。いくら引退したからって、着ぐるみをかぶって子供番組で怪獣だか怪人になりきるなんてのは、ハイそうですかと二つ返事で呑み込めるわけがねえものな」


 わずかな沈黙が流れた。

 先に口を開いたのは朱木だった。


「いえ……その仕事、俺にいちばんさいしょに回してくれて感謝してます」

「朱木、おまえ、本気で言ってんのか?」

「総帥のまえで冗談言えるほどの度胸はないスよ。特撮の連中に本物の格闘技がどういうものか教えてやるのが、俺は楽しみで仕方ないんです」


 朱木は照れくさそうに笑う。

 意外なほど柔和なその表情のなかで、眼だけが笑っていなかった。


***


 朱木がプロボクサーの道を諦め、叢雨流に入門したのは、いまから五年前のこと。

 当時、朱木はプロ入りから順調に勝ち星を重ねてA級に昇格し、いよいよ名だたるタイトルに挑んでいくという矢先だった。

 ある日の試合に勝ったあと、ジムの練習生を連れて街で飲み歩いていたとき、朱木はチンピラに絡まれたのである。

 

 プロボクサーがリング外で私闘をおこなうことは禁止されている。

 とはいえ、相手は武術の心得があるともおもえないである。

 ボクサーのパンチが顔のちかくを掠っただけで、どいつもこいつも一目散に逃げ出していくだろう。

 

 そんな朱木の計画は、しかし、喧嘩が始まるや狂いはじめた。

 チンピラは片膝を着くという奇怪な構えを取ったかとおもうと、朱木めがけて猛然と低空タックルを仕掛けてきたのである。

 ボクサーが得意とする立ち技に付き合うことなく、一気に寝技グラウンドに持ち込もうというのだ。

 ボクシングにも、クリンチやダッキングといった「殴る」以外のテクニックはいちおう存在している。

 しかし、それも相手が立っていれば――こちらとおなじボクシングのルールで戦ってくれればの場合の話だ。

 朱木がとっさにパンチを繰り出そうとしたときには、チンピラの姿はどこにもない。

 刹那、右膝のあたりにすさまじい痛みが走った。

 朱木がくずおれたのは次の瞬間だ。

 チンピラはタックルの勢いもそのままに朱木の股下にもぐり、右脚を膝十字ニー・クロスに固めたのである。

 朱木の喉から苦しげな呻吟が洩れた。

 チンピラの両太腿に右脚を挟み込まれ、足首まで極められている。

 上体を起こして反撃しようにも、チンピラはたくみに身体をずらし、パンチの射程から逃れていく。

 もっとも、たとえパンチを放ったところで、両肩が地面についた状態からではまともな威力など望むべくもない。


 戦いはあっけなく終わった。

 チンピラの膝十字固めによって、朱木は右膝と右足首の靭帯を限界まで伸ばされた。

 こうなっては自力で立ち上がることはできない。朱木に許されたのは、羽をもがれた虫けらのように地を這いまわることだけだ。

 完敗だった。

 ここがリングの上で、ボクシングのルールで戦っていたなら、朱木はチンピラに百戦して百勝していたはずだ。

 だが、現実はちがった。

 ルール無用、レフェリーもセコンドもいない街場の喧嘩で、朱木は屈辱的な敗北を喫した。

 そもそも寝技グラウンドに持ち込まれた時点で、ボクサーである朱木の敗北は決まっていたのだ。

 

 去りぎわ、チンピラは自分が叢雨流の門下生であることを朱木に告げた。

 叢雨流にルールは存在しない。

 打撃シュート寝技グラウンド組み技グラップリング関節技サブミッション絞め技チョークも、勝つためならすべてが許される。

 バーリ・トゥードなんでもあり――。

 当時まだ南米ブラジルの一部でしか用いられていなかったその概念を、叢雨流はいちはやくこの日本で行っていたのである。


 ボクサーがあくまでボクサーであるかぎり、永遠に叢雨流には勝てない。

 朱木が所属していたジムを辞め、叢雨流の門戸を叩いたのは、それから半月ほど後のことだった。


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