誕生前夜-3

 毒々しいネオンの明かりが路地を照らしていた。


 首都圏でも有数の歓楽街である。

 むっとするような酒と香水の匂い。酔客のばか騒ぎと、女たちの嬌声がそこかしこで上がる。

 時刻はとうに夜半をすぎているにもかかわらず、喧噪は熄むどころか、ますます勢いを増しているようだった。


 月末の土曜の夜――

 給料を手にした男たちが三々五々連れ立って遊びにやってくるこの日は、歓楽街の住人にとって絶好のかきいれどきでもある。

 ふだんはうらぶれたパブやナイトクラブでお茶を挽いている女たちもここぞと着飾り、せいいっぱいの色気と愛嬌を振りまく。

 そうして繰り広げられる乱痴気騒ぎは一晩じゅう、ことによれば次の夜まで続くのがお決まりだった。


 むろん、楽しいばかりが盛り場ではない。

 狭い範囲に大勢の人間が蝟集すれば、とうぜんトラブルも起こってくる。

 酔っぱらい同士の喧嘩、支払いをめぐる客と店のいざこざ、なにかと理由をつけてホステスに絡むチンピラ……。

 その手の厄介事は枚挙にいとまがない。

 泥酔して理性を失った人間は、しらふならぜったいにやらないような愚行も平然とやってのけるのである。

 この街で暮らしを立てる人間にとって、暴力沙汰は日常茶飯事であり、否が応でも対処する術を心得なければならない。


 いま、ほそい裏路地で起こったのも、週末のありふれた事件のひとつだった。

 舞台はちいさなスナックだ。

 年季の入った看板には、白くかすれた文字で「みづ江」とある。

 店内からは立て続けに物が壊れる音と、野太い怒号が外にまで響いている。


「てめえら、強戸ごうど興業をなめるんじゃねえぞ――――」


 テーブルを蹴倒しながら甲走った声を張り上げたのはひとりの男だ。

 まだ二十歳はたちそこそこの若者である。

 灰色グレーの背広にスラックスという地味ないでたちは、一見すると勤め人ふうにみえる。

 だが、はだけたワイシャツの胸元のぞく極彩色の彫り物は、彼が堅気の世界の住人でないことを雄弁に物語っていた。


 強戸興業はこのあたりを取り仕切っている地回りのヤクザである。

 戦前からつづく博徒系暴力団だが、いちおうの表向きは建築会社ということになっている。若者をはじめとする組員はその社員というわけだ。

 むろん、建前はどうあれ、その稼業シノギになんら変わるところはない。

 組のおもだった収入の柱は三つ。

 月に一度開かれる昔ながらの賭場、借金の取り立て代行、そして歓楽街でのショバ代の徴収である。

 なかでもショバ代は毎月安定した実入りが見込めるだけに、組としてもとくに力を入れている。


 若者は堅気のサラリーマンをよそおって「みづ江」に入店し、水割りを何杯か飲んだところで、人が変わったように暴れはじめたのだった。

 ヤクザにとって暴力はあくまで目的達成のための手段である。動機はさほど重要ではない。

 やれ水割りが薄い、やれママの接客が気に入らない……

 じっさい、若者が店をめちゃくちゃに荒らしているのも、そんな些細ないちゃもんがきっかけだった。

 

 むろん、ほんとうの理由はわかりきっている。

「みづ江」が強戸興業にショバ代を納めていないからだ。

 ヤクザにとってメンツはすべてに優先する。堅気の衆にナメられることは、彼らにとって死活問題なのだ。

 たかが路地裏のスナック一軒といえども、組のメンツに泥を塗られては、今後の稼業シノギにも差し支える。

 これまでも店のまわりに生ゴミを撒くなどの嫌がらせをおこなってきたが、「みづ江」のママは態度を変えなかった。

 業を煮やした組の幹部は、若い衆を送り込み、実力行使に出たというわけだった。


「今日という今日は覚悟しろよ。強戸興業のシマで二度と商売できねえように、この店めちゃくちゃにしてやるからな」


 若者は手にしたオールドの瓶を壁に叩きつけ、狂ったように絶叫する。

 

 さしもの気丈なママも、現実の暴力をまえにしては無力だった。

 店で飲んでいた数組の常連客は、若者が暴れはじめるや、我がちに逃げ出している。

 それも無理からぬことだった。この土地で育った人間なら、強戸興業の悪辣さは骨身にしみている。

 たとえ行きつけの店が荒らされても、ヤクザものを敵に回す度胸などないのだ。


 と、軋りを立ててドアが開いたのはそのときだった

 

「バカヤロウ、いま取り込み中だ。出ていけ――――」


 若者の怒鳴り声はふっつりと途切れた。

 自分の意志でそうしたのではない。

 と、音もなく伸びた腕が若者の襟首を掴み、そのまま高々と持ち上げたのだ。

 体つきこそ十人並みだが、若者の体重は六十キロはくだるまい。

 すくなくとも、腕一本で、まるで子猫でもつまみ上げるみたいに軽々と持ち上げられる重さではない。


「て、てめえ、俺をだれだと……」


 若者は苦しげに息をつきながら、ようよう声をしぼりだす。

 さきほどまでの威勢はどこへやら、死にかけの老人みたいに情けない声であった。

 言い終わるが早いか、若者の顔からみるみる血の気が引いていった。

 窒息しかかっているためだけではない。

 自分を持ち上げている男の姿を正視してしまったからだ。

 

 おそろしく男だった。

 こわい。こわい。――そして、なによりこわい。


 年齢は三十を過ぎたかどうか。

 上背はゆうに一八◯センチを超えている。

 黒いシャツの上からでもはっきりと見て取れる筋肉には、ボディビルダーのような硬さはない。

 ネコ科動物――虎や豹を彷彿させるしなやかな剛性を秘めた肉体であった。

 

 たくましい肉体にもまして若者を怯えさせたのは、男の特異な面貌だ。

 全体に彫りが深く、鼻梁がくっきりと通った日本人ばなれした面立ちである。

 父母のどちらかに異国の血が入っているのだろう。

 いわゆる優男ふうの美男子とは趣を異にしているが、もうすこし若ければ、銀幕でもじゅうぶん通用したはずだ。

 凝然と若者を見据えるそのかんばせには、しかし、なんの表情も読み取れない。

 アルカイック様式の仏像、あるいは精巧な鉄仮面をおもわせる静謐な佇まいは、なまじな悪相よりもよほど恐怖を煽り立てた。


「もちろん知っているさ。強戸興業のだろう」


 男はあいかわらず無表情のまま、底冷えのする声で告げる。

 

「だれが下っ端だと――――」


 その言葉が恐怖を忘れさせたのか、若者の右手がポケットに潜った。

 照明を浴びてするどい銀光がほとばしったのと、ママの悲鳴が上がったのは同時だった。


 若者の手には、刃渡り十センチほどの刃物が握られている。

 バタフライナイフ。

 手首のスナップだけで刃が展開するそれは、この時代の日本ではまだいくつも出回っていない珍品だ。

 横田の米兵G.Iあたりから仕入れたものにちがいなかった。

 古式ゆかしい匕首あいくちとちがって、これならそれと気づかれずに上着のポケットに忍ばせておけるうえ、鞘を抜く手間もない。広義の暗器の一種と言ってもいいだろう。

 

「くたばりやがれ!!」


 若者は雄叫びを上げつつ、男の首筋めがけてナイフを振り下ろす。

 個人的な喧嘩なら、あるいは「参った」と泣きを入れていたかもしれない。

 だが、組のためとなれば話はべつだ。

 この男を殺ったことで何年か懲役をくらっても、刑期を終えれば出世の道が開ける。

 若さのほかになにも持たないチンピラならではの打算であった。


 刹那、あたり一面に飛び散るはずだった血のかわりに、と鈍い音が店内を領した。 


 ナイフが頸動脈に触れるかという瞬間、男が若者の右手首を極めたのだ。

 若者の右手首はバタフライナイフを握りしめたまま、手の甲のほうへ水平に折れ曲がっている。

 若者は自分の身になにが起こったかもわからぬまま、筋肉と腱、そして骨を完膚なきまでに破壊されたのだ。

 激痛とともにほとばしりかけた絶叫は、しかし、ついに喉を出ることはなかった。


 男が若者の水月みぞおちに掌打を叩き込み、失神させたのである。

 白目をむき、だらしなくよだれを垂らした若者を軽々と担ぎ上げた男は、上着から財布を抜き出す。

 なかにはざっと二十万ほどの現金が入っている。

 おそらく実行にあたって兄貴分からとして渡されたのだろう。

 男はすばやく三万円ばかり抜き取ると、カウンターで呆然と一部始終を見守っていたママに財布を投げ渡す。


「足りるかどうかしれないが、店の修繕代だ。こいつは組事務所のまえに捨てておく。強戸興業の連中もしばらくは懲りるだろうさ」


 それだけ言って、男はさっさと店を後にする。

 ただでさえ忙しい週末の夜だ。組に属さない用心棒稼業は、次の仕事がいつ舞い込むかわからない。

 鉄砲玉のチンピラ一匹に割いてやる時間はそう多くないのだ。


「ひさしぶりだな、風祭かざまつり


 組事務所からの帰りしな、繁華街へと続く路地に入ったところで、ふいに背後から声がかかった。

 男は声のしたほうへ半分だけ顔を向ける。

 ちっと舌打ちをしたのは、声の主がだからだ。


「橘川先輩――――」

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