誕生前夜-2
「失礼ですが、先生のおっしゃる意味が分かりかねます――――」
沈黙を破ったのは橘川次長だった。
すかさず高野部長が制止しようとするのを、覚龍斎は「かまわん」というように首を縦に振る。
「なあ、橘川くん。特撮というのは、ようするにうそごとだろう?」
「そのとおりです。しかし、それは特撮だけにかぎったことではありません。時代劇も刑事ドラマも、すべては作りごと……フィクションです」
覚龍斎は目を瞑ったまま、深くうなずく。
「そんなことは言われんでも承知しているとも」
「では、なぜ……」
「特撮は格闘技だからさ」
覚龍斎の声色がにわかに凄味を帯びた。
「私も武術家だからね。ほかのうそごとなら気にも留めないが、格闘技でそれをやられるのは我慢がならんのだよ」
「お言葉ですが先生、あれは時代劇とおなじ
「そんな話はしていない。君は見たところ武術の経験者のようだが、実際の立ち会いで派手な飛び蹴りが決まるかね? 技の名前を叫びながら繰り出すパンチが、本気で当たると思うかね?」
橘川次長はそれきり黙り込んでしまった。
学生時代は高校・大学とひたすら空手に打ち込んできた男である。
喧嘩も、人よりは多く経験している自負がある。
だから、演武ならともかく、真剣勝負で派手な技――飛び蹴りや
特撮番組でそれらの技が頻繁にもちいられるのはなぜか?
ヒーローの派手な必殺技が極まる。悪の怪人が爆発四散する。……テレビのまえの子どもたちを喜ばせるのに、これ以上の手堅いパターンはないからだ。
だが、覚龍斎の言うとおり、それは実戦ではぜったいに通用しないうそごとであるのも事実だった。
飛び蹴りは容易にかわされる。まして、律儀に技の名前を叫んでから攻撃するなど、ぜったいにありえない。
しばしの沈黙のあと、橘川次長は意を決したように口を開いた。
「特撮番組は、最初から勝ち負けの決まったショーです。お客を楽しませるためにやっているんです。プロレスとおなじですよ」
「君は本気でそう思っているのかね?」
「と、申されますと……」
「たしかにプロレスは
覚龍斎に反問され、橘川次長はいよいよ返答に窮した。
特撮の
パンチもキックも寸止めが基本だ。万が一にも演者に怪我をさせるようなことがあってはならない。
いっぽう、プロレスの技は寸止めではない。
橘川次長は、ようやく覚龍斎の言いたいことが分かったような気がした。
この男は、なにからなにまでうそごとである特撮が、いまや日本で最も見られている格闘技であることに我慢がならないのだ。
とくに日陽テレビは特撮番組に力を入れている放送局である。
一昨年から放送を開始したある番組は毎週高視聴率をマークし、社会現象とまで呼ばれた。
現代の子供たちにとってもっとも身近な格闘技とは、プロレスでも大相撲でもなく、特撮の劇中で繰り広げられるヒーローと怪人の肉弾戦なのだ。
お門違いのいちゃもんといえばそれまでである。
じっさい覚龍斎でなければ、日陽テレビとしても一顧だにしなかっただろう。
「とにかく、だ。特撮を見ているのは子供たちだろう。若い世代にあんなものを格闘技だと思われるのは困るんだよ。なにしろ、われわれは本気でやっているのだからね」
覚龍斎の言葉は穏やかだが、その裏には恐ろしいものが見え隠れする。
もし要求が聞き入れられなければ、あらゆる手を使って日陽テレビに圧力をかけてくるにちがいなかった。
ただでさえ特撮番組は子供への悪影響を指摘され、しばしばマスコミにおいて批判のやり玉に挙がっているのである。
青少年の健全な発育をさまたげ、暴力を賛美する俗悪番組を追放する……
保護者をまきこんだバッシング・キャンペーンの大義名分としてはじゅうぶんすぎるほどだ。
特撮番組を毎日のように放送している日陽テレビは、悪の根源として集中砲火を浴びることになるだろう。
自分の意見を押し通すためにそこまでやるのはたしかに常軌を逸している。
叢雨覚龍斎とは、しかしそういう男なのだ。
敵対者にはあくまで冷酷に、容赦なく追い詰めるのが、この男のやり口だった。
橘川次長はちらと高野部長を見やる。
白髪の部長の顔は青ざめ、覚龍斎の言葉にすっかり気圧されているようだった。
理不尽な要求と戦うだけの力はもとよりもちあわせていないのだ。
彼の頭にあるのは、定年まで大過なく勤め上げ、それなりの退職金を手にして悠々自適の日々を送ることだけだ。
先ほどからしきりに額の汗を拭くばかりで、会話に入ろうともしないのはなによりの証拠だった。
頼りにならないのはいい。どうか自分の邪魔だけはしてくれるな――と、橘川次長は視線で高野部長を制する。
橘川次長は深く息を吸い込むと、一語一語、区切るように言った。
「叢雨先生は、特撮はうそごとだからよくない……とおっしゃるのですね」
「かいつまんで言えばそういうことだね」
「では、うそごとでない特撮をお見せすれば、ご納得いただけますか」
橘川次長がその言葉を口にしたとたん、覚龍斎は「ほお」と低くつぶやいた。
「橘川くん、君は特撮はショーだと言った。うそごとでない特撮、はたしてそんなものがありうるかね?」
「いまはまだありません。しかし、お望みとあれば、先生のお眼鏡にかなうものを作ってみせます」
「きみ、男がいったん口にした言葉は、もう取り消せないよ」
覚龍斎の太い鼻梁がひくひくと動いている。
この男のむかしからのクセだった。
たとえ怒りが頂点に達しても、顔を真っ赤にして怒鳴るようなことはしない。
あくまで静かに、しかるべき手段をもってみずからの怒りを表現するだけだった。
橘川次長には、覚龍斎が無言のうちになにを言わんとしているかがわかる。
若造、その場しのぎのでまかせではなかろうな。
このおれを謀ったら、どんな手を使ってもおまえを殺すぞ――――と。
「もし本気でやるつもりなら、スポンサーのことは心配しなくていい。必要経費はわが叢雨流がすべて持とう。なにしろ私が言い出したことなのだからね。ただし……」
覚龍斎の声には、先ほどとは打って変わって、どこか愉しんでいるような響きがある。
「番組の内容については、いくつか条件を出させてもらう――――」
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