第9話 紅葉とラジオ体操

 ふぅ、ちょっと走ったから息切れしちゃった。


「なんか戻ってきたと思ったら……」


 立ち尽くす紅葉さんに、私は玄関の前で浅葱色の巾着袋を差し出す。


「体育着とジャージ持ってきた。さっ、これから運動しようね」


「嫌だ!絶対したくない!!」


 私がそれを差し出した途端、紅葉さんは巾着袋を受け取らずに押し入れの中に籠ってしまった。

一瞬しか見えなかったけど紅葉さんが潜伏した押入れの上段、今にも落ちそうなくらいパンパンだったな。


 だが想定の範囲内の問答。ここはあれで、


「アイス……」


「もう食ったわ!いつまでもアイスで釣れると思うな!!」


「一年分」


「嘘下手か」


 毎日でも食べたいって言ってたのに。しかしこれも想定内だ。私は制服のブレザーのポケットから本命の取り出す。


「じゃあ今日一時間でも運動したら、これをプレゼントしちゃうよ」


「こ、これ……?」


 自己防衛と言わんばかりにきっちりと押し入れを閉め切っていた紅葉さんも、報酬は気になるようで隙間から薄灰色の瞳を覗かせた。


 そして紅葉さんは私の手に握られているとあるカードを見て、目を見開いた。


「アナゾンギフトカード千五百円分。欲しいでしょ?」


「アナギフ……だと……」


「いいよ、あげちゃうよ?一時間運動するだけだよ?」


「お前、マジでか」


 紅葉さんは報酬に若干引きながらも、目をキラキラさせている。


 私のなけなしの千五百円を失ってまで買ったこのカード。それくらい紅葉さんのに運動の習慣をつけて欲しかった……というのは建前で、これから買う漫画を電子媒体にしてほしかったから、その皮切りとするために多少の犠牲は惜しまない。


 まぁ私の胸中なんて紅葉さんは知る由もないから、とりあえず運動の報酬という体にしておく。


「欲しい欲しい!欲しいです!」


 カードをちゃぶ台の中央に置くと、紅葉さんは餌を前にした犬のように押し入れからぶわりと飛び出し、ひらひらと見せつけているカードに手を伸ばす。だけどその寸前でカードをスッと取り上げる。


「あぁ……!!」


 紅葉さんはカードをスカった反動で顔からちゃぶ台に激突。


 トナカイのように赤く腫らした鼻先を摘んでいる紅葉さんを見ていると、カッチカチの体と絶望的な運動神経を今から想像できる。よくそんな貧弱な体で駅前の本屋まで行けたよね。


「まずは運動してから、ね?」


「く、くそが……」


 悔し涙を頬に垂らした紅葉さんは、その後渋々と採寸したはずなのにブカブカなジャージに着替え……どういうわけか紅葉さんは自分のジャージをパンパンの押し入れから取り出しきたので、普通に帰り損だった。いや、よく考えれば入学手続きの時に体育着の採寸もしてるんだし当たり前か。


 その際、押し入れに詰め込まれていた禁断のつつみ(紅葉さん曰く)がバラバラと落ちてきたので、それらを押し入れに戻す作業で約十分を浪費した。


 見てはいけないと言われたので私はずっと玄関で待機してたけど、紅葉さんの合図で戻ると彼女はもう息切れ寸前。


 それにより追加で約三十分を小休憩に費やし、結局開始したのは外で夕暮れのチャイムが鳴り始めた午後五時だった。


「で、何すんだよ」


 ちゃぶ台を折り畳み、広々とした畳部屋の中央で胡坐を掻いている紅葉さんは私に尋ねた。


「まずは身体をほぐさないとね。じゃないと運動中に怪我するリスクがあるから。ラジオ体操でもしようか」


 せっかくなので体操着に着替えた私は伸びをしつつ、スマホでラジオ体操の音源を流す。


「はい、まずは伸びの運動」


 お馴染みの音楽が流れ始めたので、私と紅葉さんは向かい合いながら体操を──


「どうやるの?」


 嘘でしょ?


「紅葉さんっていつ頃から不登校になったの?」


「急になんだよ……中学の時、だよ……」


「小学校でラジオ体操はしなかったの?」


「覚えてない」


 そう言って紅葉さんはプイッと顔を背けてしまった。何かやましい事情でもあるのかな。でもこのままじゃ進まないので、仕方なく私は音楽を掛け直してお手本を見せる。


「こうやって、私の真似して」


「う、うん……」


 紅葉さんの動きは、「生まれてから八十年ぶりに体を動かした人」かと思うくらいぎこちなかった。


 でも私のお手本に合わせて紅葉さんはなんとかラジオ体操を順調に進めた……のは良かったけど、


「も、もう無理……」


「嘘でしょ……」


 それはラジオ体操の五番目。体を横に曲げながら右腕を上にあげる運動の時。紅葉さんは過呼吸かのように息を荒げて、正面から倒れた。

 

「はぁ……なんなんだよ……はぁ……この運動……罰ゲームの……地下労働……はぁ……かよ……」


「ただのラジオ体操だけど」


 倒れた紅葉さんの横で、空気を読めない軽快な音楽が流れている。


 私は紅葉さんを支えて起こしつつ、アナギフと一緒に買っておいたスポーツドリンクを口から器用に注ぐ。私、赤ちゃんにミルク飲ませてるの?


「うっ、うま……なんだよこれ……命の泉の水か……疲れた時に身体に浸透しすぎだろ……」


「ただのスポーツドリンクだけど」


 紅葉さんは私が差し出したスポーツドリンクをごくごくと飲み干した後、三十分以上の休憩を取ってしまった。


 これはラジオ体操だけでも一時間以上かかりそう。先が思いやられる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る