第8話 炉端でみる夢は①

定一は憮然とした表情で腕組みをしていた。

目の前の網からはもうもうと煙が立ち上り、向かいに座る二人の顔がぼんやりと霞んでいる。

でも、先ほどからろくに言葉を発しない自分に瑞希が業を煮やしているのだけは分かる。レモンサワーをひたすらにちびちびと口に運んでいる。

「僕、炉端焼きって食べるの初めてです。ホッケにホタテも美味しそう!瑞希は何食べる?」

「……じゃあホッケ。あ、あとジンギスカンも」

「オッケー、じゃあ僕がよそうね。お義父さんは何を召し上がりますか?」

「まだ結婚を容認したわけじゃない」

「お父さん!」

「二十七にもなって定職に就かないで不安定な仕事をしている男に大事な娘を下さいと言われて、はい分かりましたと承諾する父親がどこにいるんだ」

「だから……今はまだ不安定かもしれないけど、少しずつ連載の話も出版社から打診されているんだって」

「それは確約じゃないだろう?あくまで可能性を提示されているだけだ。漫画家として大成するのはいつ頃なんだ?何年先になったら、瑞希の稼ぎと対等になれる?」

「お父さん、さっきから何度も言っているけど、草介には対等になって欲しいなんて思っていない。草介の作品を読んだことがないお父さんには分からないと思うけど、本当に素晴らしい作品を描くの。私は妻として一読者としてこれからも公私ともに彼を支えたいし、一緒に生きていきたいと思ってる」

「……話にならないな」

折角の日本酒が酷く不味く感じる。瑞希の攻めるような視線から逸らすようにぐいっと勢いよく猪口を呷った。

仕事で忙しくしている瑞希からかなり久々に「話があるからこの店に来て欲しい」と連絡を貰った時、心が躍った。

URLを辿ると、以前釧路の味が楽しめると夕方の情報番組で紹介されていた炉端焼きの店だったからだ。いつぶりだろうか。記憶を辿ろうにもすっかり昔のことで忘れてしまっていた。

予感がしていなかったといえば噓になる。

大学を卒業し、小学校の教員として勤めだして四年目。仕事にも慣れてくる頃合いだし、あらためて自分の将来を見据え始める時期だろう。だからといってほぼ無職に近い、シワだらけのシャツを着たうだつのあがらなそうな男性を連れてくるとは予測不可能だ。

それに、大した出世作のない漫画家で生活費などは瑞希の稼ぎが充てられていると知って手放しで娘の結婚を祝福する親がこの世にいるだろうか。

「八代草介さん、といったね。あなたは恥ずかしくないのか?今は共働き夫婦が主流だ。妻の貴子も若い時から働いてきた。二人で働いて家族というものが成り立っていくんだよ。でもあなたはきちんと働いて瑞季と家族を作ろうとしない。むしろ寄りかかろうとしている。それは怠慢以外の何者でもないんじゃないのか?」

目の前の男は困ったように目を伏せながら何も言わない。「それでも瑞季と一緒になりたい」という強い意志を言葉にすることもこの男は出来ないのか。

「お父さん。お父さんとお母さんが小さい頃から必死に働いて私を育ててくれたことはよく分かってる。とても感謝しています。だけどね、草介には辛くて苦しい思いをしながら別の仕事を頑張って欲しいとは思っていない。もちろん、お金は大事だけど、一番は幸せであることだと思うの。私たちの幸せはお父さんには計れない。私たちだけでしか計れないし、築いていけないことだから」

お父さんには一生涯掛けても理解できない、瑞季に一方的に決別通告を突きつけられたようで定一は知らず知らずの内に唇を噛み締めていた。

目の前の網が定一と瑞季たちを引き裂く境界線のようだった。

「……分かった。それが二人が決めた生き方なら仕方ない。ただ、これから子供が産まれたらその間の生活費はどうなるんだ?産休や育休があるとはいえ満額出るわけじゃ---」

「子供は作らないよ」

瑞季は「今日はご飯いらないよ」の声のトーンと同じくらいにさらっと口にした。

「女性は子供を産んでこそ一人前、とかいうのは止めてね。私は子育てをサボるために親になることを放棄したわけじゃないの。夫婦の数だけライフスタイルがあって、最適な家族の形も異なると思うの。むしろ、私は子供たちと接している今の仕事が凄く好き。だけど、私は昔からお母さんと違って器用じゃないからどちらの子供もしっかりと育てていくってことが無理だと思う。私の子供は何で出来ないの、こんなにしっかりと教えているのに何で学ばないの、とか双方の子供を天秤にかけて裁定するような気がするんだ。それは自己嫌悪に陥るだろうし、家庭にも仕事にも悪影響になる。だから、私は仕事においてだけ全力で子供たちと向き合いたい」

瑞季の言葉が全く頭に入ってこない。

定一と貴子は若い頃に一緒になったが、なかなか子宝に恵まれなかった。不妊治療も考えたが助成などは全くなく、金銭的にも余裕がなかったので踏み切れなかった。定一は貴子と二人でささやかな暮らしを送れればいいと思っていた。だけど、貴子は子供連れの親子を見ると辛そうに目を細めていた。どうしても子供が欲しいとは口にしなかったが、子供を産んで育てることは貴子の念願だったのだろう。

子宝に恵まれる神社にお参りしたり、体を冷やさないようにしたり色々と対策を施したがなかなか妊娠しなかった。

だけど、貴子が四十近くになったころ、体調を崩して小学校教師をしばらく休職することにした途端、自然に妊娠をした。

瑞季が産まれたのは貴子が四十、定一が四十二になる頃だった。当時、高齢出産は稀で二人が保育園や小学校へ参観に行った時などは祖父母に間違えられることが多かった。

だけど、子は鎹とはよく言ったもので、瑞季の存在は定一と貴子の仲をさらに深めてくれることとなった。まだ瑞季が産まれる前、近所の奇声を上げながら走り回る子供たちはどこか違う星の住人にしか思えず、奇怪な存在でしかなかった。

それなのに、貴子から産まれてきたそれは、夜中であろうと構わず泣き続け、おしめを替えようとするとうんちをひっかけてくる無慈悲ともいえるその存在はとても愛おしく可愛らしく夫婦の心を常に温め続けてくれた。

瑞季は好奇心が旺盛で負けず嫌いで保育園の男子を喧嘩で負かすなど強い女の子に育った。それでいて寂しがりやで貴子が林間学校の引率で不在の週末、定一が少し煙草を買いに外に出て帰ってきた時に、瑞季は玄関でお姉さん座りで泣きじゃくっていた。

定一や貴子の誕生日には自作のプレゼントを用意してくれる優しい子だった。

瑞季が大きくなって結婚をして、いずれは自分も孫を抱くことがあるかもしれないとそんな未来を描くこともあった。

だけど、そんな期待もこの瞬間打ち砕かれてしまったことになる。

もちろん、今は色々な夫婦の形がある。金銭面だけで、子供を作らないと決めたわけではないだろう。だけど、「ああ、そうか」とすぐに受け入れることも出来なかった。

「……瑞季、悪いがすぐには承服は出来ない。少し時間をくれないか?」

「うん、分かった」

草介は先ほどから一言も話さず、ひたすらに網で焼いて自分、瑞季、定一の皿に取り分けている。

定一もホッケやジンギスカンは大好きだ。

本当は、瑞季の結婚をお祝いして、久々に対面した炉端焼きに舌鼓を打ち、義理の息子となる草介と酒を酌み交わすべきだったのだろう。


日を改めて、と口約束を交わし二人は帰っていった。

定一もゆっくりといた足取りで駅に向かう。

瑞季の結婚を相談したくとも、すでに貴子はこの世にいない。

瑞季の幸せを第一にとは考えているが、このままあの草介という青年に娘の未来を託していいものなのだろうか。父として、どういう裁断がふさわしいのだろうか。

「なぁ貴子、俺はどうすればいいんだろうな……」

返事が返ってくるわけもなく、定一の呟きは夜陰に霧散していった。

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隣の男はよく肉を喰らう 山神まつり @takasago6180

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