第7話 給食戦線異常あり⑦
その日の夜、紗和はなかなか寝付けなかった。
明日のポークカレーが楽しみすぎるとか、今日の夜ご飯の担々麺が辛すぎてあまり食べられなかったとか、父と母が子供の前だろうと目も当てられないくらいにずっとイチャイチャしているとかそういう些末なことが積み重なって悩みの種になっているとか、そういうことではなかった。
明日の給食で何かが変わってしまう、そんな根拠のない不安感に苛まれていたからだと思う。
言語化するのは難しい。
紗和は何度も寝返りを打っては、何度も枕元の時計を見上げた。
長針はほとんど進んでいない。早く朝になって欲しい気もするが、日付がずっと変わらないまま世界が止まって欲しいような気もしている。
悶々と考えている間に、いつの間にかカーテンの間から日の光が漏れていた。
さて、一日の始まりだ。
「あれ?」
二時間目の道徳の授業の際にグループ学習をすることになった。今までは机を向かい合わさずに話し合っていたが、今日から机を向かい合わせて話し合うことになった。
「件の感染症も大分落ち着いてきたので、今日からグループ学習や給食は前のように机を向かい合わせて行いたいと思います」
担任の吾妻先生が手を合わせて笑顔でそう言った。他のクラスの先生方もマスクを外す人が多くなってきた。
紗和は自然と拳を握りしめていた。手の中はじわっとした汗で蒸れている。
机を向かい合わせにすると、磯村くんが目の前に座っている。今までは横顔で認識していたのが、前面に切り替わると視線の位置に戸惑ってしまう。
磯村くんも何だか居心地が悪そうに、もぞもぞと体をゆすっていた。
(ああ、何だか集中できない……!)
紗和は磯村くん以外のグループメンバーに声を掛けながらグループ学習を何とか乗り越えた。
二時間目の休み時間、行間休みは二十分もあるので天気の良い日は外で遊ぶよう先生たちから推奨されている。とはいえ、高学年にもなると女子たちは特に外で全力で遊ぶ子は少なく、ひなたぼっこをしながら鉄棒にもたれながらおしゃべりをしている子が大半だったりする。あまり労力を消費したくないというのが真情だろう。
「何か紗和ちゃん、朝から疲れてる?大丈夫?」
虹心が心配そうにのぞき込んできた。
「うん、体調が悪いわけじゃないんだけど、なんか胸の辺りがもやもやしてて、しんどいかも」
「え?何か食べすぎたりした?」
「昨夜の担々麺が良くなかったのかなぁ……」
ぼーっと遊ぶ子たちを見ていると、田嶋くんや他の男の子たちとドッチボールをしている磯村くんの姿が目に入ってきた。楽しそうに笑いながらボールを投げている。紗和はいつの間にか口元を上げながら、磯村くんの姿を目で追っていた。俊敏で秀逸な動きでもないのに、一挙一動、何故か目を離せなくなっていた。
「紗和ちゃん、保健室に行く?」
「ううん、大丈夫。何となく、理由が分かってきたから」
紗和は胸を張って空を見上げた。自然と誇らしい気持ちになっていた。別に悩むことも塞ぐこともないことだ。多分、これは自然の摂理であって、何年も前から自ら蓋をして目を背けていた。ただ、それだけのことなのだから。
四時間目の終了のチャイムが鳴る前から、鼻孔をくすぐるスパイスの香りが廊下全体を漂っていた。嗅ぎなれた匂いのはずなのに、夢うつつに授業を聞いていた生徒たちの意識を覚醒させる力を秘めている。
カレーカレーカレー、何人かの男子たちが円陣を組んで唱和している。
カレーライスは何人の心を沸き立たせるのに大きな力を持っている不思議なメニューだ。
「磯村くん」
紗和が手招きすると、磯村くんは手を洗ってハンカチで拭いてから近づいてきた。
「どうしたの?俺、当番だからもう行かないとならないんだけど」
「うん、ごめんね。あのね、今日から給食が向かい合わせになるじゃない。だから、お肉の感触がどうだったとか話せないから、あとでちょっと話せないかぁって思って。昼休みに、五分とかでいいんだけど」
「ああ、そうだね。昼休みは田嶋くんたちとドロケイの約束しているんだけど。今後の対策も立てないといけないし。分かった、隣の学習準備室とかでいい?」
「うん、ありがとう」
磯村くんは話し終わると足早で教室に向かった。
二人で話す口実は作れた。だけど、改まって向かい合って話し合う時に、自分はきちんと自分の気持ちを話せるだろうか。
何だか、顔が熱い気がする。手を団扇のようにぱたぱたと動かしてみる。
磯村くんは、とても困った顔をするかもしれない。
今まで、魚舌症候群を介して少しずつ話せるようになってきた。声のトーンや間の置き方、笑う時に一拍置いてから笑う癖など、色々なことが分かってきた。
いつの間にか、磯村くんの隣に座り、一緒に給食を食べて互いの意見を述べ合う時間がこんなにも尊いものになっているなんて気が付かなかった。
ただ楽しいだけではなく、心の底にある別の感情にまで気付くことはなかったのに、と思う。だけど、紗和は気付いてしまった。
見ない振りをすることも出来たのかもしれない。
だけど、気付かない振りや見ない振りをすることはもう止めようと自分で決めたのだ。
ポークカレーの売れ行きは盛況だった。
磯村くんはカレーの入った丸缶を担当していたので、カレーが大好きな男子たちに多くよそうように要求され、外野からも分かるようにとても困惑していた。
多くよそうと、全ての人にカレーが行き渡らない可能性があるからだ。磯村くんは相手の機嫌を損なわせないよう軽く対応しながらクラス全員のカレーをよそうことに成功していた。
「それでは皆さん、いただきます」
「いただきます!」
カレーの人気は凄まじく、あっという間に平らげた男子たちで配膳の机の前に列が出来ていた。目の前の磯村くんを見ると、ゆっくりと咀嚼して味わっているようだった。紗和も視線を落としてゆっくりとカレーを味わう。カレー以外にも水菜サラダ、ヨーグルトもある。あまり家で食べないが、やはりカレーは美味しい。虹心の家族はカレーが好きらしく、週末はインド料理の本格的なカレーを皆で食べに行くらしい。
家で料理することを止められているが、きちんとスパイスを調合して自分でも作ってみたい。ずっと失敗を恐れて挑戦することを止めてしまったら、それは自分の成長には繋がってこないと思う。その点を今度父と母の前でプレゼンしてみよう。
給食が終わり、掃除が終わると紗和は学習準備室に向かった。
まだ磯村くんは来ていないようだった。
手短に感想を聞こう。お肉の感触はした?まだ魚の味は残ってる?
明日の給食は―――
「ごめん、ちょっと低学年たちが喧嘩して先生に怒られててさ。遅くなった……神崎さん?」
「え……?」
「どうしたの?どこか具合が悪い?」
気付かないうちに、紗和の目からだらだらと涙があふれていた。
「え、どうしたんだろう私……」
ポケットからハンカチを取り出して痛いくらいにごしごしと拭おうとしても、涙腺が崩壊したのか涙はだらだらとあふれ出て来てしまう。
困惑して立ち尽くしている磯村くんの姿が目に浮かぶようだ。今は泣きすぎて視界がぼんやりとしていてよく見えないからだ。だけど、給食の感想を言い合うだけで学習準備室に来たのに、いきなり目の前の同級生がだらだらと泣いていたら驚くに決まっている。
いや、むしろ引くに決まっている。
「ごめん、何か涙が止まらないし、話も出来そうにないから田嶋くんのところに行って―――」
「行かないよ。ていうか、行けないだろう。目の前で、泣いてるのに……」
磯村くんは大きな息を吐いた。
ああ、迷惑を掛けてしまっている。迷惑を掛けたくないのに、魚舌症候群の解決策を一緒に考えていかなければならないのに。
段々と肉の味に近づいてきている磯村くんを応援し、時には一緒に改善策として案を出し合ったり、紗和の家で料理をして肉の味を研究したり、田嶋くんや虹心を交えて笑いあいながら下校したり、そんな毎日が終わってしまうかもしれないと考えるだけで紗和は悲しくて怖くて涙が止まらなくなってしまった。
共に給食戦線を生きる同志として、サポートし、併走してきたはずなのに。
磯村くんの魚舌症候群が、このままずっと治らなければいいのにと願ってしまう。
紗和の目の前に青いハンカチが差し出された。ハンカチの端には赤い魚の絵が施されている。
ふと視線を上げると、磯村くんが恥ずかしそうに目を伏せていた。
「……母さんが、買ってきたんだよ。それ、金魚なのに。魚がついてればなんでもいいんだってさ」
紗和はハンカチを握りながら思わず吹き出してしまった。
「磯村くん、心配かけてごめんね。何か、ずっと磯村くんと魚舌症候群のことについて話せればなぁって思ってたの。でも、もう磯村くんは田嶋くんも周りのクラスメイトもいるし、大丈夫だよ。私じゃなくても、相談に乗ってくれる友達はたくさんいるよ」
「―—―何で?俺は、神崎さんに相談したいから話したんだよ。田嶋くんにだって、他の子にだって話していない。相談したこと、重荷になってる?」
「そんなことない!ただ、私だけじゃ心許ないっていうか。ただ、時間だけが過ぎていって、時間の無駄になっていないかなぁって」
「無駄なんかじゃないよ。俺は、この魚舌症候群で、神崎さんと話せる口実を作れたから嬉しかったっていうか」
「……え?」
「い、いや、あの、口実っていうと嫌な言い方だけどさ。小さい頃はあんなに互いの家を行き来して仲が良かったのに、いつの間にか全然話すこともなくなったから、もっと話したかったっていうのが本音」
磯村くんは顔を赤らめながらしどろもどろ口にした。
「隣の席になれたのも、嬉しかったんだ。だけど、なかなか話すきっかけも掴めなかったし。今回、思い切って神崎さんに相談してみて良かったと思うよ。それと―――」
「それと?」
磯村くんはにやっと笑いながら人差し指を高らかに掲げた。
「今日のポークカレー、いつもの味と劇的に違ったんだ!」
「え、本当に?」
「魚が6で肉と思わしき味が4ってところかな。本当に、段々と克服に近づいてきてる」
「良かったね」
「……何で最近、味が変わり始めたんだろうって思ったんだけどさ。前に祖父ちゃんが祖母ちゃんとすき焼きの味を共有できなくて悲しかったって話したよね。祖父ちゃんと祖母ちゃんはお見合い結婚だったんだけど、最初はその人がどんなものが好きでどんなものが嫌いか、情報が何も分からないまま一緒になるんだよね。だけど、一緒に暮らして、祖母ちゃんのことがどんどん分かってどんどん好きになっていったんだって。魚料理だけじゃなくて、祖母ちゃんは肉料理も大好きだったから色々料理を出してくれたらしいんだけど、祖母ちゃんの笑顔や食べっぷりが可愛くてずっと見ていたいと思っていたらいつの間にか肉の味がするようになっていったんだって。つまりはさ―――」
紗和は磯村くんの言葉をじっと待った。
「えっと、最後まで言った方がいい?」
「うん、言って欲しい」
「……っもうここまで言えば何を言いたいか分かるじゃん!」
磯村くんはさっきよりも顔を真っ赤にして叫んだ。紗和は口を押さえるのを忘れ、そのまま大口で笑い声をあげた。
おわり
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