第3話 給食戦線異常あり③
磯村くんと別れて家に帰ると私は店の暖簾をくぐった。
夕方の営業に向けて、店の扉には準備中ですという札がぶら下がっている。
「……あら、紗和帰ってきたの?この時間帯に店に来るなんて珍しいわね」
母の美和子が調理場からひょいっと顔をのぞかせた。
「お父さんは?」
「今日は結構お客さんが多くてね。何だかチャーハンの注文が多くて、腱鞘炎が悪化しちゃってるから奥で冷やして休憩してるわ」
「そうなんだ……」
紗和はランドセルを椅子に置くと、その隣の椅子に座ってぼんやりと店内を眺めた。
ゴリラ拉麺680円
ゴリラチャーシュー麺800円
ギョーザ380円
ゴリラ炒飯580円
壁に父の手書きのメニューが並ぶ。
父は店に来たお客さんがゴリラを省いたメニューを口にしても、料理を始める際には「はい、ゴリラ拉麺一丁!」と必ずゴリラを付け加えて復唱する。
ゴリラに並々ならぬ執心があるらしい。
「リビングにクッキーと煎餅置いてあるけど、こっちでラーメン食べていく?」
「ううん、ラーメンはいい」
紗和は勢いよく首を振った。
「お母さん、お母さんにとってお肉ってどんな味がする?」
紗和の質問に母は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたが、娘の真面目な表情にふうっと息を漏らした。
「お母さん、の、お母さんね……希和子ばあちゃん、あまり料理が上手じゃなかったのよ。肉は下ごしらえしないで塩コショウも振らないで焼くだけの人だし、野菜炒めも醤油かけて終わらせちゃうし、旨味が全くないような料理ばっかりだったのよね。母さんも叔父さんの弓彦も黙って食べていたけど、母さん、父さんが死んじゃってから一人で姉弟を育ててくれたし今はとても感謝してるの。働きながら子育てするのって、自分でするようになってから大変さがよく分かったし」
「……うん」
「だからね、お肉ってご馳走だったのよ。私の誕生日とか弓彦の誕生日とか、私が中学の時に短距離走の県大でベスト8に入った時とか、弓彦が難関県立高校に合格した時とか、そういう何かお祝いする時に食べるものって感じだったのよね。だから、食卓にハンバーグとか、生姜焼きとか出ると私も弓彦もこぞって取り合ったりして……」
母はその時を思い出したのか楽しそうに笑みを浮かべた。
「だからお肉は思い出の味?っていうのかな。今は普通に食べられるけど、幼少時はなかなか食べられるものではなかったから」
紗和はふんふんと相槌を打ちながら母の言葉を脳内にメモしていった。
「―—―というわけで、母にとってお肉は思い出の味なんだって」
次の日、紗和は母に聞いた話を廊下にぽつんと立っていた磯村くんに話してみた。
「……神崎さん、神崎さんのお母さんにとっては思い出の味なんだろうけど、味覚として肉を味わったことのない人間からしたら思い出も何もないよ。思い出って過去に体験した味わったってことを反芻することだよ?」
はんすう―――磯村くんの使う日本語が変換できず、紗和は眉をひそめた。
「それに―――」
はあああーと大きなため息をついて磯村くんはその場に蹲ってしまった。
「今日の献立は、鯖の味噌煮なんだよ……嫌というほどに鯖は食べているのに」
「給食の献立によく鯖って出るよね」
「鯖は体にいい食材だからね。良質なたんぱく質もとれるし、動脈硬化や心筋梗塞予防の効果も期待できる。さらにはカルシウムの吸収を助けるビタミンDに貧血予防の鉄、味覚を正常に保つ亜鉛などいいことづくしなんだ」
「……流石魚屋の息子」
紗和は「ん?」と引っ掛かりを覚えた。
「味覚を正常に保つ亜鉛っていうのが多く含まれるなら、たくさん摂取した方がいいんじゃないの?」
「小さい頃から散々食べてるよ。亜鉛は舌の表面の味蕾にある味を感じる細胞を作る働きがあって、不足すると味覚異常の原因になるんだ。でも、鯖だけじゃなくて牡蠣とか牛肉や豚肉の方が含有率は高い。俺のは栄養価とかそういうのじゃなくて、磯村家特有の奴なんだよ」
磯村くんは両手で顔を覆い、わしわしと強くかき混ぜ始めた。
「今日は肉が出ないからイメージできないかもしれないけど、逆に魚を魚と思わず、肉とイメージしてみて食べてみるとかは?」
「……どういうこと?」
「うーん、なんていうか、刷り込みみたいな?牛肉と豚肉も亜鉛は含まれているっていう共通項はあるわけだし、これは見た目は鯖だけど肉、肉の味がする!って言い聞かせてみるとか―――」
「魚は魚だしなぁ」
「思い込みからスタートしてみたら案外肉の味に変換されていくかもしれないよ」
「紗和ちゃん、何話してるの?」
後ろを振り返ると虹心とみのりが訝し気に二人を見つめていた。
「最近、全然一緒にトイレ行ってくれなくなったと思ったら磯村くんと楽しそうに何話してるの?」
虹心は早口で紗和の目を見つめながら言った。
「……私、知ってるよ。昨日、紗和ちゃん図書室に本を借りになんて行ってなかったでしょう。磯村くんと待ち合わせして一緒に帰ったの、見たんだよ。何で嘘ついたの?」
「虹心ちゃん、ごめん。嘘をつくつもりはなくて……」
「つくつもりだったじゃん。最初から、私たちと帰りたくなかったんでしょう。だったら帰りたくないからってはっきり言ってくれればいいじゃん!」
「長谷川さん、昨日俺が神崎さんと少し話があるから放課後残ってほしいって頼んだんだよ」
磯村くんの言葉に虹心の表情がすうっと引いていくのが見えた。
「そうだとしても、そのことをちゃんと話して欲しかった」
「虹心ちゃん―――」
「みのりちゃん、行こう」
虹心はみのりの手を掴んで教室の中に入っていった。
みのりはちらりと紗和の方を振り返り、にやっと笑みを浮かべていた。
「……神崎さん、ごめん」
「磯村くんが謝ることじゃないよ。私が虹心ちゃんとみのりちゃんにちゃんと理由を話すべきだった」
紗和はしばらくは一人で教室で過ごすようかな、と寂しく思いつつもトイレに一人でゆっくり行けることに少し安堵していた。
「俺たちも教室に入ろう。そろそろ次の授業が始まりそうだし」
「そうだね」
四時間目の授業は社会だ。
自分の席に着くと、大体はみのりに話しかけられたりするが一切話しかけてこなかった。
ただただ、じとっとしたねっとりとした湿り気のある視線を感じていた。
ちょっかいをかけられるストレスからは逃れたが、次から無言の意味深な視線を常に背中に感じなければならないのかと思うと、紗和は苦痛でならなかった。
社会の授業が終わると、次はついに給食だ。
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