第2話 給食戦線異常あり②
思えば今まで磯村くんは給食の時間はいつも憂鬱そうだった。
好き嫌いが激しいのか、と言われればそうでもなくゆっくりとすべて食べきっていたと思う。
ご飯でもパンでも麺類でも肉でも魚でも、クリスマスデザートに小さなショートケーキが出た時でさえ普段の授業中の様子とは違い虚ろな目をしていた。
なのに、今日は朝からどうしたのだろう。
ハンバーグは、小学生なら皆好きなメニューだと思うけれど落ち着きがなくなるほどの、興奮が抑えきれないほどの最上級のメニューだとは思えない。
四時間目の国語の授業では国語辞典で外来語や漢語を探して発表をしようという内容だった。磯村くんはひたすらにハンバーグの頁を見つめていた。もうこれはハンバーグそのものに憑りつかれているとしかいいようがない。
キーンコーン
四時間目終了のチャイムが鳴った。
磯村くんはゆっくりと目を閉じ、勢いよく開眼すると席を立った。
紗和も、給食当番なのでトイレに行って手を洗って準備をしなければならない。
教室に戻ると配膳台に丸缶、四角缶などが所狭しと並べられていた。紗和はポトフの担当だったので給食着に急いで着替えると丸缶の前に立った。
「わーい、紗和ちゃんお隣だね!」
みのりはハンバーグの入った四角缶の担当だった。
紗和は汁物を注ぐのが心底苦手だった。
家業のラーメン屋では父が豪快に麺を切り、母がスープを注ぐ。それを見て紗和もやらせてもらったことがあるがどうしても器に綺麗に注げなかった。器からはみ出たり手にかけて火傷をしてしまったりする。
紗和は正直にいって何事にも不器用だった。
ラーメンの汁を注ぐのは器を置いたまま出来るが、給食の汁ものをよそう時は二つのことに神経を注がなければならない。
左側に器を持ち、右側におたまを握って皆に一定の量をよそわなくてはならない。多かったり少なかったりすると特に男子からはブーイングがくる。
みのりと交換したい、と嘆いたがぞろぞろと給食を貰いに同級生たちが並び始めた。
神経を集中しながらよそっていると、みのりからハンバーグをよそってもらっている磯村くんが見えた。
特に変わった表情は見受けられない。
紗和はおたまいっぱいにポトフを入れて器によそった。
磯村くんの視線はポトフよりもハンバーグに全集中されていた。
「では皆さん、いただきます!」
「いただきます!」
給食の時間が始まった。
紗和は早速袋を開き、中からコッペパンを取り出した。コッペパンにハンバーグを挟んでハンバーガーで食べるつもりだ。
大口を開けたいところだけど、誰が見ているか分からないという理由のない自負心で紗和は小さな口でゆっくりと嚙みついた。
実家がラーメン屋ともなるとラーメンか餃子かチャーハンが三大巨頭を占めているので、パンも滅多に食べることが無かった。朝ごはんはチャーハンの残りを温めて食べることが多かった。
(ここにチーズとかレタスとかトマトとか挟んだらもっと美味しくなるんだろうけど、そんなわがままは言いません)
紗和は何度も何度も咀嚼をして即席ハンバーガーの味を堪能していた。
だん!
急に隣から大きな音が聞えてきて、紗和はびくっと肩を震わせた。
隣をゆっくりと見やると、両手で顔を覆い俯いている磯村くんがいた。
「……磯村くん、大丈夫?具合悪いなら保健室に行く?」
紗和が小声で話しかけると、磯村くんはそのままの姿勢でふるふると首を振った。
「―—―また、駄目だった」
「え?」
駄目だった、確かに磯村くんはそう口にした。
何が駄目だったのか。
朝から落ち着きなくうきうきしていたのは、給食の献立表をずっと見ていたのは、今日の給食が楽しみで仕方がなかったからじゃないのだろうか。
「ハンバーグ、楽しみだったんじゃないの?」
紗和がそう声をかけると、磯村くんはゆっくりと顔を上げてこちらを見やった。
「……朝から凄く楽しみにしていたんでしょう」
「―—―うん」
磯村くんは顔を起こし、ゆっくりと給食と向き合った。
「給食センターの人たちが作ってくれたんだもんな。残さずに、ちゃんと食べないと」
磯村くんはあらためて「いただきます」と手の平を合わせ、ゆっくりと最後まで食べきった。そして、神妙な面持ちでこちらを見つめて言った。
「……神崎さん、帰りに少し話を聞いてもらってもいい?」
図書室で借りたい本があるからと噓をつき、みのりと虹心には先に帰ってもらった。
少し遅れて昇降口に向かうと、下駄箱に所在なさげに立ちすくんでいる磯村くんが待っていた。
「磯村くん、ごめんね、待った?」
「ん、大丈夫。神崎さんもごめん。藤居さんや長谷川さんと一緒に帰るんだったよね」
「大丈夫だよ」
それよりも、磯村くんの話の方が気になって仕方なかった。
「……何か、近所に住んでいるのにあまりこうしてゆっくりと話す機会がなかったよね」
「そうだね」
磯村くんは話していいのか迷っているようだった。足元の石ころを蹴飛ばしながらしばらく口を閉ざしていた。
「……俺の家、魚屋じゃん」
「うん」
磯村くんの家は磯村水産という水産物を扱っているお店だ。紗和の家のラーメンにも磯村水産の煮干しが使われている。
両親同士は今も仲がいいみたいだが、紗和と磯村くんは保育園が同じだっただけで小学校に上がるとあまり会話をしなくなっていた。
煌くん、紗和ちゃんという呼び方はいつの間にか磯村くんと神崎さんに変化していた。
その変化を寂しくもあったが、いつしかお互いにその変化をそういうものかと受け入れ生活するようになっていた。
「小さい頃から俺の家の食卓には魚ばっかり出て、肉とかほとんど食べないで来たんだよ。やっぱり、そういうのって家業に左右されるじゃん」
家業……私は思わず復唱していた。
「離乳食も魚のつみれ汁だったらしくて、ずっと魚で舌が覚えちゃって肉を食べても魚の味しかしなくなっちゃったんだよ」
「え、どういうこと?」
「保育園の給食からそうなんだよ。野菜やスープなどはちゃんと本来の味がするんだけど、肉だけ肉の味がしないんだ。魚を食べすぎた俺の舌は肉を拒否し始めたんだよ」
「……」
荒唐無稽、という四字熟語がまず浮かんできた。
紗和もラーメンを小さい頃からこれでもか、というくらいに口にしてきた。だけど、ラーメン以外の食べ物を口にしてもちゃんと味がする。
ちゃんと味がする―――
ふと考えてみる。
ちゃんと味がする、ってどういうことだろうか。
魚はこういう味です。肉はこういう味です。本来の味というのは言葉で表されるものではないし、口にした本人が味覚という五感で感じるしかない。
磯村くんは、肉の味というものを味覚で感じたことがないということだ。
「豚肉も鶏肉も牛肉も魚の味しかしないの?」
「しない。皆同じ食べなれた魚の味しかしない」
「お父さんお母さんに相談してみた?」
「してない。けれど、祖父ちゃんには相談してみた」
「今は施設に入ってるんだっけ?」
「うん、会いに行って訊いていたんだ。祖父ちゃん、どうしよう、俺変な病気かもしれないって……」
「そうしたら」
「魚舌症候群だって」
「ぎょ、ぜつ?」
「魚の舌で、ぎょぜつ。祖父ちゃんも磯村水産で仕事していたから、小さい頃から肉も魚の味がしていたんだって。磯村水産って祖父ちゃんの祖父ちゃんが開業したらしいんだけど、祖父ちゃんの祖父ちゃんも魚舌症候群だったらしく肉の味が分かるようになったのは成人してからだったみたい。でも、祖父ちゃんの祖父ちゃんの時代はあまり肉を食べる習慣がなかったみたいであまり不自由はなかったみたい。祖父ちゃんの時ぐらいには肉食文化があったみたいだから魚と肉が同じ味しかしないことに不思議に思ったみたいだよ」
「そう、なんだ……」
「祖父ちゃんは不思議には思ったけど、あまり気にしなかったって。でも、祖母ちゃんと出会ってすき焼きを食べた時にお肉がジューシーねぇって話してて同調出来なくてすごく悲しかったんだって。祖母ちゃんと同じ肉の味を知りたいって強く思ったんだって。祖父ちゃんが言うには肉を食べる時にその肉の形を常に脳内に思い浮かべて、味の想像はつかないけれど口の中でとろけそうなほどジューシーな味はこうだってトレースさせるらしいんだ。舌が魚に負けるんだったら脳に訴えかけるしかないんだって」
「……だから、磯村くんは辞書のハンバーグのページをずっと見ていたんだ」
「あ、見られてたんだ」
磯村くんは恥ずかしそうに頭を搔いた。
「俺は皆と同じ肉の味を味わいたいんだ。ジューシーな味わいっていうのを、この舌で知りたい!」
磯村くんはぐっと拳を作って天を仰いで咆哮した。
「神崎さん、俺は小学校を卒業するまでにはこの得体の知れない病気を克服したい。肉の味を体現して伝えてくれるのは神崎さんしかいないんだ。明日から手伝ってほしい」
「え?私は何をすればいいの?」
「家では魚を食べざるを得ないから給食が勝負なんだ。朝から肉の美味しさを神崎さんの方法でいいから伝授してほしい」
「肉の、美味しさ……?」
「お願いします!」
磯村くんは深々と頭を下げた。
紗和はやっぱり首を突っ込むべきではなかったか、と後悔した。
だけど、ずっと頭を下げている磯村くんを見ているとその気持ちは霧散した。
『紗和ちゃん、紗和ちゃん』
紗和より頭一つ背の小さかった磯村くんは、もう紗和が見上げるほどに大きくなってしまった。そんな成長をとげた磯村くんが、人には言えない悩みをこうして紗和に明かしてくれたのだ。
(どうしたらいいのか、分からないけれど―――)
「いいよ、私で良ければ」
「―—―ありがとう!」
磯村くんの笑顔に、紗和はふふっと笑みを浮かべた。
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