30
グレーは俯いた。ぐるぐる回る思考を整理する必要があった。しかしその時、扉をノックする音がした。こんな場所にわざわざやってくる人間は一人しかいない。車椅子を向かわせて、扉を開けた。
「もう大丈夫なのか」
グレーは笑みを見せた。
「はい、あの時はありがとうございました」
リンネは深々とお辞儀をした。椅子を勧めると、ベッドの方に心配げな視線を向ける。どうやらリンネの位置からではスカイの髪色はわからないようだ。
「スカイなら、きっと大丈夫だ。やれるだけのことはやった」
グレーはそう告げ、自身もテーブルの、リンネの正面についた。リンネは食料が一杯に詰まった籠をテーブルに置いてくれた。
「いつも悪いな。ありがとう」
視線を感じて、グレーが小首を傾げると、少女は微かに頬を赤らめた。
「あ、ごめんなさい」
グレーは静かに微笑むと、キッチンの隅の方に立てかけられてあった細長い棒を手に持って、お金がしまってあるベッドの方へと移動する。ベッドの下枠の空いているスペースに小さな箱がある。それを、棒を使ってこちらに引き寄せ、背をかがめて腕を伸ばして、箱を自分の膝に乗せた。
その時、リンネの声が背中越しに聞こえた。
「ああ、お代はいいんです。助けていただいたお礼ですから!」
グレーは振り返って、リンネの真っ直ぐな視線に込められた気持ちを察し、箱をベッドの下に戻した。
テーブルに戻り、少女が口を開くのを待つ。遠慮がちに桜色の唇が開かれた。
「あの時・・・天使様との出来事のことを、ちゃんとお話しできていなかったと思いまして」
そして、語りだす。
私はあの日、スカイさんのお見舞いと、食料を届けようと丘に来ました。
すると、家の前にあの天使様が立っていたんです。私を待ち伏せしていたようにも感じましたが、気のせいかもしれません。
天使様は歩いてきて、私が戦争で恋人を亡くしていることは知っている、と告げられました。それから、彼に会いたくないか、一生を共にしたくないかと微笑みました。泣きそうになりました。それは私の、夢にまで見た幸せ。私は天使様の手を取りました。そして空を飛んだんです。
「空を・・・飛んだ?」
首を傾げると、リンネは慌てた。グレーに嘘つきだと思われたくなかった。
リンネは再び話を始める。口調が、徐々に自信なさげになってきた。
天使様に導かれるまま、自分の身体がどんどん上昇していく感覚に身を委ねていた。頭の中は夢にまで見た彼の表情でいっぱいになっていた。
少し時間がかかる、と天使様が言った。人間用の道を通らなければならないから少し飛んでいる時間が長くなると。リンネはそこで、不可思議なものを見た。
「今まで、見たこともありませんでした。なんと言えばいいのか・・・まるで、幾何学な模様が空のなかで、幾重にも折り重なっていて、ずっと見ていたら怖くなって」
そこで口をつぐんでしまう。言おうか言うまいか、グレーの顔色を伺いながら、逡巡している様だった。グレーはその表情を見ているうちに、なぜだか子供の頃を思い出した。母の前で悪戯の言い訳を必死に探している、幼かった頃の莫大な危機感のことを。グレーはくすりと笑うと、優しい声で言った。
「教えてほしい。どんな話でも聞くから」
リンネの瞳から余計な力が抜け落ちた様に思えた。
「・・・たくさんの星とすれ違ったんです。その度に全然違う私が見えたんです。スカイさんや、私の身の回りの人たちが、全然違う服を着て、違う世界で生きているのを見ました。不思議な感覚でした。ただ、グレーさんだけはどの星にも、いなかったんです」
グレーの腕がぴくりと動く。授業中に半信半疑で聞いていた宇宙論の言葉が、頭の中に拓いていく。
「すいません。こんな変な話をしてしまって。でも、不可思議すぎて、誰かに話しでもしないと頭がおかしくなってしまいそうで・・・」
お前は幻を見ていたんだ。そう言ってあげられる余裕があれば、どれほど良かっただろう。
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