24

天使様のローブの先がふるふると震えた。グレーは堪えきれずに褐色の血を吐き出した。天使様が腹に拳を叩きつけたのだ。鈍い重音が辺りに響くほどの強烈な一撃だった。天使様は明らかに狼狽し、正気を無くしていた。

「ふざけるなふざけるなふざけるな、なぜ私が貴様らのような下等な生き物を羨ましがらなくてはならないのだ!何度も何度も戦争を繰り返すような、学習しない愚かな生き物どもを!」

なのに。神様はいつまでも人間達を愛し続けている。高貴で美麗で神様のことを最も尊重している自分にはカケラほどの愛もくれないのに。なぜ自分じゃないのか。なぜ自分は天使になってしまったのか。

なぜ自分は神様に愛されたいという欲に任せて、あんな、愚かな人間になりたいとさえ思っているのか。

 グレーは、どなり続ける天使様の背後に、目をやった。そろそろだ。頭に血の上ったその身体が、ゆっくりと侵されていくのが、グレーにはわかった。だんだんと、天使様の表情から不可解な疑心が透け始める。その陶器のように滑らかな肌に、汗が滲んでくる。とうとう、獣のように苦しげな吐息をグレーの前で漏らし始めた。掠れた声が、恨みがましく響いた。

「貴様、何か」

その言葉は続かなかった。天使様は二重にも三重にもなる視界に立っていられなくなって、かくんと膝を折ってしまった。

グレーは何の感情もない目で見つめた。図らずも、視点は同程度の位置となる。今、グレーの右手にはしっかりと刃が握り締められていた。これはスカイが来る時からずっと、護身用にこの家にあったナイフだ。

グレーの身体にも、目にも、一瞬の揺らぎもない。

「う・・・なんだこれは、ふざけるな、こんな・・・」

天使様は左肩を手で抑える。その掌に紫の血がべっだりと付いた。小さな矢から広がった毒が白いローブを溶かし、肌を抉っていた。

グレーは天使様の背後に腕を伸ばそうとした。

「お前が自分で蒔いた種だ。あいつにはお前の羽が必要なんだよ」

筒状の吹き矢の先に塗った猛毒は、戦場で教わった知識だった。

卑怯と言われたって、なんだって構わなかった。

「・・・めろ」

その時、天使様が怯えたような声を出した。見ると、その表情は凍りついていた。心の底から、羽を剥ぎ取られることを恐れているようだ。

「やめてくれ。羽がないと、私はあの方の元にいられなくなってしまう」

グレーはこの天使様が、胸が掻き乱されるほどに可哀想だと思った。戦場でひどいものを山のように見てきたのに、今、ただの小さな家の中で、あの頃と同じ哀しさをたしかに感じていた。天使様のいうあの方、神様とはどんな存在だろうかと思考を巡らせた。こんなに虚しくなるのなら、いっそ俺達を産まなけりゃよかったのに、と思った。

「あんたを縛っているのは、この羽なのかもしれないな」

何か特別なものがなければ愛する存在の隣にいることができない。本当にそうなのだろうか。わからなかったが、それは違うのではないかと一瞬だけ思った。

「頼む、やめてくれ・・・」

グレーは天使様の背に両腕を伸ばして、小さく抱きしめるようにしながら、囁くのだった。

「またな」

紫が飛び散った。グレーはこの瞬間、天使に傷をつけた罪人になった。


 スカイの視界が一気に明るくなった。呻きながら目を開けると、グレーの目には涙が浮かんでいた。それを見て、この家に来て何度も思ったことが、口に出た。

「君は幸せになっていいんだ」

止めたくて、その涙に向け伸ばした指が、グレーのあたたかな手のひらに包まれた。

「もう十分、貰ったよ」

グレーが今までで一番の笑みを見せてくれた。その指がスカイの髪を掬い上げる。

スカイの髪は天使と同じ白に染まっていた。背中の左側に白い翼がついたからだろうか。

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