21

「一体あの野郎に、何をされたんだ?」

リンネの深い藍色の瞳が、くらくらと揺れる。まだ完全に戻ってきてはいないようで、その証拠に言葉はうわごとめいていた。グレーはリンネを持ち上げることができないため、声を掛けることしかできなかった。

「少し休んでいけばいい。おい、立てるか?」

リンネはまだ動けないようで、ぐったりと地に伏している。グレーは自分に対して不甲斐なさを感じ、舌打ちした。スカイだけじゃなく、リンネまでもが自分の手の届かない場所に行ってしまうような気がした。

次第にグレーの腹の底から、不安が浮かび上がってくる。そしてこういう時はいつも、胸の端っこの方で神に助けを乞うている自分がいるのだ。何度も裏切られたのに、まだあんなものに縋ろうとしている自分自身に吐き気がする。

「だい、じょうぶだ、よ」

その時、後ろから聞き慣れた声がして、グレーは振り向いた。スカイが肩で息をしながら、外壁にもたれかかっているのが見えた。

「何してるんだ!ちゃんと寝てないと!」

スカイはよろける身体をどうにか立て直しながら、一歩ずつ踏みしめて、こちらに向かってきている。

「僕が、彼女を・・・運ぶからさ、大丈夫・・・」

元々細かったのが、今はもう見ていられないほど痩せてしまって、声もほとんど掠れていて全く通っていない。そんなスカイが、リンネの前にしゃがみこむ。今すぐにも倒れてしまいそうな、小枝のような腕がリンネへと伸ばされる。しかしスカイには全く力が入っておらず、リンネの肩を持ち上げることもできない。グレーはその様子を傍でただ呆然と見ていた。

 目の前の光景は、一体なんだ?

長いこと忘れていたものが、やっと自分の中に戻ってきたって、思っていたのに。

俺に恩をかけてくれて、助けてくれた奴らが弱って、「天使」なんてものに、こんな風に痛めつけられる。グレーは奥歯を軋むほどきつく噛み締めた。理不尽だ、なんて、何年ぶりに思ったことだろうか。

 スカイはすすり泣き始めた。雨粒のように豊かな雫が、リンネの頬に何滴か垂れた。グレーはそれに気づく。

「お前は十分やってくれた。ありがとう、もう十分だ」

グレーはスカイの後方に車椅子を回して、出会った頃よりはるかに艶のなくなった黒い頭を見下ろして優しく言い聞かせた。自分も泣いてしまいそうな気がした。

「ごめんね、僕、役立たずだ」

「なんでそうなるんだ、そんなこと誰も思ってやしないよ」

スカイは首を横に振るばかりで、泣き止んでくれない。何かをぶつぶつと呟いていて、その声はグレーにはとどかない。

 不意に、リンネの目がぱっちりと開いた。その視線は泣いているスカイの所でびっくりして止まる。

「ス、スカイさん?」

リンネは自身の頬に伝っていた涙を指で掬い上げて、ゆっくりと上半身を起こし、フラフラしているスカイの身体を支えた。そのまま、家の中によろけながら入る。

何もできない自分が心底大嫌いだとグレーは感じる。

「・・・それで、あいつに何をされたんだ」

椅子にリンネを座らせる。やはりまだ少しぐったりとしている。

「すまない、ベッドを使わせてあげたいんだが」

リンネは汗ばみながらも、グレーを安心させるように微笑んだ。

「それよりスカイさんの具合は?」

スカイは先程動いていたのが嘘のようにベッドに寝かされている。リンネもそれを見て口をつぐんだ。

「お見舞いを持ってきたんですが、その籠をさっき落としてしまったみたいで・・・すいません」

グレーはリンネの正面のテーブルについた。座高の低い車椅子だと、テーブルは少し高く見える。

「それより、大丈夫なのか?」

野暮な質問だと気づいたのは尋ねた後だった。大丈夫なわけがない。目の前の少女は、明らかに苦しみ果ててぐったりしているというのに。

グレーは、何があったのか詳しく聞こうとする姿勢をやめ、リンネに毛布をかけてあげた。リンネは吸い込まれるようにテーブルに突っ伏して眠ってしまった。それこそまるで、呪いのように。


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